11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
一、熱心な求め
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。」これは、聖書を読んだことのない人にも知られている有名な言葉です。イエスは、この言葉によって、どんな必要であれ、熱心に、また、確信をもって神に願い求めることを教えています。そして、そのことを教えるため、ふたつの「たとえ」を話しました。最初のたとえは5-8節に、次のたとえは11-13節にあります。ふたつのたとえは、「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」ということをはさみ込むようにして説明しているのです。
では、5-8節にある最初のたとえから学んでみましょう。このたとえでは、ひとりの人と、その友人、それから旅人が登場します。この人のところに、夜も更けてから、突然、旅人がやってきました。旅人は、その人の友達だったので、迎え入れて泊めてあげることにしました。聞いてみると、食事もしないで歩きづめで、やっとたどり着いたということでした。気の毒に思い、まず食べ物をあげようとしましたが、ちょうどパンを切らしていました。旅人を空腹のまま寝かせるわけにはいかないので、この人は近所にいる自分の友達のところに行きました。ドアをたたいて、「君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ」(6節)と頼みました。すると、家の中から返事が返ってきました。「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」(7節)この人は、その返事を聞いても、あきらめず、しつこく頼み続けました。すると、彼の友達は、いったん断ったものの、うるさくて眠れないので、起き上がって台所からパンを探し出し、ドアをあけてその人に与えたというのです。
このたとえの中で、この人は、真夜中という最悪の時間に旅人を迎えました。自分の家にパンは残っていない。これからかまどに火をくべてパンを焼くわけにもいかない。まして町に買いにいくこともできないし、行ってもマーケットは開いていません。けれども、彼はあきらめませんでした。どこかにパンがないだろうかと「捜し」ました。そして、パンのあるところを見つけました。近所の友達のところです。友達はもう戸締まりして寝てしまいましたが、この人はドアを「たたき」ました。いったん断られても「パンを貸してくれ」と「求め」続けました。そして、ついにパンを手にしたのです。「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」とあるように、この人は、文字通り、求めて、捜して、たたいて、必要なものを手に入れたのです。それは、非常識なほど、あつかましく、しつこく、強引でした。イエスが、こんな非常識な人物をたとえに登場させたのは、私たちが「常識の世界」に腰を下ろして、求めない先からあきらめてしまわないように、途中で祈るのをやめてしまわないように、熱心に祈るようにと教えるためでした。
同じようなことは、「やもめと不正な裁判官」のたとえ(ルカ18:1-5)にも描かれています。何の力もないやもめでしたが、朝に夕に、熱心に裁判官に願ったので、弱い者の味方などしたことのない「不正な」裁判官も、ついにやもめのために腰をあげたという話です。このたとえの最初には、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された」(ルカ18:1)とあります。
私たちは、何かがないとき、足らないとき、すぐに「無い、足らない」といって慌てたり、不平を言ったりしがちです。そんなとき、イエスが「求めよ、捜せ、たたけ」と教えたことを思い返しましょう。「求め、捜し、たたく」は英語で、“Ask, Seek, Knock” ですが、“Ask, Seek, Knock” の最初の文字を並べると “ASK” になります。“Ask” という言葉から、いつも、“Ask, Seek, Knock” の三つのことを思い起こすとよいでしょう。“Ask” は、必要なものを「口」に出して願うこと、“Seek” は、何がほんとうに必要で、何が不必要なものかを「頭」と「心」を使って判断すること、“Knock” は「手」を使ってすることですから、実際の行動の指します。神に祈り、祈りの中で、みこころを知って知恵や導きを得、それに従って行動するのです。“Ask, Seek, Knock!” 熱心に、また、忍耐して「求め、捜し、たたく」なら、必要は満たされ、なすべき方法を見出し、扉は開かれます。
二、天の父の愛
さて、最初のたとえでは、私たちが、どのように神に求めればよいのかが教えられていましたが、ふたつ目のたとえは、神が私たちの求めにどのように答えてくださるかを教えています。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。」(11-13節)「あなたがたも、悪い者ではあっても」の「悪い者」というのは強盗や泥棒のように他の人から物を奪うような者のことでしょう。そんな者でも、自分の子どもには良い物を与える。親がその子に進んで良い物を与えるのは当然の事である。そのことを強調しているのです。
その上で、イエスは言いました。「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(13節)私たち不完全な親でさえ、自分の子どもに出来る限りのことをしてやろうとするなら、天の父が、ご自分の子どもたちに最善のものをくださらないわけがないのです。私たちは、子どもに良い物を与えてやりたいと思っても、力がなくてしてあげられないことがあります。しかし、天の父には出来ないことはないのです。また、私たちは子どもの求めるまま、不必要なものまで与えて、子どもを駄目にしてしまうことがあります。また、それを与える時が早すぎたり、遅すぎたりして、子どものフラストレーションをふやしてしまうこともあります。しかし、天の父は、すべてをご存知のお方で、最善のものを、最良の時に、求める者に与えてくださるのです。
最初のたとえでは熱心な求めによって、必要なものが与えられると教えられていましたが、ふたつ目のたとえでは、私たちの必要が、神の「父」としての大きな愛に基づいて与えられることを教えています。求めるなら与えられ、捜すなら見出し、たたくなら開かれるのは、私たちの側の熱心さだけによるのではなく、神の大きな愛とあわれみによるのです。ここに、聖書の教えと他の思想や哲学、宗教との違いがあります。
さまざまな宗教では、多くの場合、神々や仏たちは、人間世界から遠く離れたところにいて、人間にあまり興味がなく、神仏のほうから人間に恵みを与えるようなことは、ほとんどありません。ですから、神仏に何かを願う時には、神々を人間のほうに振り向かせるため、必死になって努力しなければならないのです。神社で行う「お百度参り」などはまだ優しいもので、チベットなどでは、「五体倒地」といって、一歩進むたびに、全身を地面に投げ出して祈り、起き上がっては、また地面に倒れて祈るという儀式があります。身体中、傷だらけになりながら、願い事の成就を祈るのです。
現代の私たちは宗教から遠ざかっているように見えますが、じつは、宗教は形を変えて現代人の中に入ってきています。「ニュー・エージ」と呼ばれるものでは、深い瞑想に入ることによって宇宙と一体になり、人は求めるものを得ることができると教えます。また、ビジネスの研修などにも取り入れられている「積極思考」では、自分が欲しいと思うものを具体的に思い描き、それは必ず自分のものになると、自分に暗示をかけます。そして、自分が願う自分になることを動機にして活動するように教えます。「研修」とはいっても、それはからだや頭脳の訓練、精神修養や心理学的な手法などを混ぜ合わせたひとつの宗教です。そして、そうした宗教には、愛の神がおられません。そこでは、必要なものを手に入れるのは、すべて人間の努力にかかっているのです。
しかし、イエスは言います。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:8)神は人間の父親の愛以上の愛をもって、私たちに良いものを与えようと、待ち構えておられる。だから、私たちは天にある宝の倉庫のドアを「たたいて開けてもらい」、その宝の中から自分に必要なものを「捜して見つけ出し」、それを「求めて与えられる」のです。私たちが、イエス・キリストを信じることによって神の子どもとしていただき、神に愛され、神を愛するという愛の関係の中にとどまるなら、それを通して、私たちの必要のすべてが与えられるのです。神は、お金を入れると品物が出てくる「ベンダー・マシーン」のようなお方ではありません。こんなふうにしたら、願いが聞かれるなどといった魔法めいたものはありません。大切なのは、私たちが父なる神に信頼し、神の愛を信じることです。この信仰、信頼によって、私たちは「はたして与えられるのだろうか」などといった心配なしに、「必ず与えられる」という確信をもって神に願い求めることができるのです。
三、聖霊の賜物
イエスは、熱心に祈ることと、その祈りに答えてくださる神の愛を教えたのですが、その教えを「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」という言葉で結んでいます。突然のようにして「聖霊」という言葉が出てきましたが、なぜでしょうか。それは、聖霊が、神がくださるものの中で、最高の賜物だからです。私たちにとって一番大切なものは命です。私たちは命を守り支えるため、衣食住の必要を満たすために懸命に働いています。けれども、私たちを生かす命そのものである聖霊を持たなければ、目に見えるものをどんなに多く持っていても、それによっては、その人の人生は満たされない、生かされないのです。この世を生きるためには、知恵や力を必要としますが、聖霊は知恵と力の与え主です。どんな賜物よりも与え主のほうが優れているにきまっています。私たちは聖霊を持つことによって、どんな賜物にも欠けることのない者となれるのです。人のたましいは神を慕いあえいでいます。神が共にいてくださらなければ、本当の平安も、喜びも持つことができません。「聖霊を持つ」とは、神ご自身である聖霊が人のたましいのうちに住んでくださることを言います。このことを「聖霊の内住」と言うのですが、私たちは聖霊を自分のうちに宿すことによって、神が共にいてくださること、「神の臨在」を体験して、たましいの満たしを得るのです。また、聖霊はキリストの代わりに来てくださったお方ですから、聖霊によって、今、ここで、イエス・キリストと共にいることができ、キリストの弟子となることができるのです。
神がベンダー・マシーンのようなお方ではないように、「聖霊に満たされる」ことを、車にガソリンを「満タン」にすることのように考えてはいけません。「聖霊の満たし」は、教え導いてくださる聖霊に謙虚に従うことや、私たちのうちにあってとりなし、助けてくださる聖霊に自分を任せていくなどといった、聖霊との信頼の関係によって与えられるものなのです。ご人格である聖霊は、「信頼」という人格の働きによってだけ、受けることができるのです。
聖書では、神が私たちに何かを命じられるときには、必ず、それを果たすことができる力が約束されています。聖書には約束の伴わない命令はありません。イエスは、私たちが弟子としてキリストに従うことができるすべてのものを備え、聖霊を与えると約束してから、私たちに「弟子となって従え」と言われるのです。
「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」“Ask, Seek, Knock!” 求める者は与えられ、捜す者は見出し、天の門をたたく者は開けてもらえます。その中にあるすべてのものを受けとることができるのです。聖書は「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)と教えています。御子イエスをさえ、私たちに与え、聖霊をくださる神が、私たちの必要のすべてをお与えにならないはずがないのです。
(祈り)
父なる神さま、私たちの必要のすべてを、あなたに求めることを教えていただき、感謝します。あなたは、父としての大きな愛で神の子たちの求めに喜んで答えてくださいます。そのことを信じて、どんな時でも、あなたに私たちの必要のすべてを、さらに、聖霊をも祈り求めさせてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/19/2020