11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
私は説教の題を、説教する二ヶ月前に選びます。それで、後になってから「別の題のほうがよかったかな」と思うことがあります。きょうの説教題も「真夜中の訪問者」のほうがよかったかもしれません。「真夜中の訪問者」、なんだかミステリー小説の題のようですが、それを見た人が「何だろう」と思って、一瞬でも説教に興味を持ってくれたかもしれません。実際、今朝の箇所には「真夜中の訪問者」のたとえ話があるのです。ある人のところに真夜中に訪問者がやて来た。ところが、その来客に出してあげるパンがない。そこで、その人は友だちの家に行って、その戸を叩き、パンを貸してくれと頼んだ。ところが、友だちは戸も開けないで、「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまった。子どもたちも私も寝てしまった。今から起きて、何かをやることはできない。」と家の中から答えた。しかし、真夜中に来客を迎えた人は、それでも、ドンドン戸をたたいて、「パンを分けてくれ」と求め続け、ついに必要なパンを得たというのが、このたとえ話のあらすじです。イエスは、一度断られたからといってひるまずに、求め続けなさい。祈りがすぐに答えられなかったからといって祈るのをやめないで、祈り続けなさいと教えてくださったのです。
このたとえは、祈り続け、求め続けることの大切さを教えていますが、それとともにいくつかの大切なことも教えています。今朝はそれを学んで、私たちの祈りの励ましとしたいと思います。
一、神は友
まず、第一に、神は友であるということです。
イエスはこのたとえの中で、人間の友と、友としての神とを比較しておられます。人間の友は、ある程度までは親身になって私たちを助けてくれます。しかし、大きな迷惑をかけるようなことになれば、「めんどうをかけないでくれ。」と、そっけない返事をすることがあるかもしれません。しかし、私たちの友である神は、このたとえに出てくる「友だち」のように「もう寝てしまったから、今さら起きて何かするわけにはいかない。」と言うようなお方ではありません。神はh、まどろむことも眠ることもなく、私たちの必要に目を留め、祈り、求めるときに、喜んで、進んで与えてくださる友なのです。
私たちの主であり、王である神が友であるというのは、理解しづらいことかもしれませんが、聖書は、私たちを「友」と呼ぶことによって、私たちへの愛と真実を示していてくださるのです。アブラハムは旧約では歴代誌第二20:7で、新約ではヤコブ2:23で「神の友」と呼ばれています。また、ヨブ16:21で、ヨブは「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」と言って、神をどんなときも自分を理解し、見捨てることのない「友」と呼んでいます。主イエスは弟子たちを「友」と呼ばれましたので、私たちも、イエスを友と呼ぶことができるのです。ヤコブ4:4 に「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」ということばがありますが、これは、神が、神を信じる者たちをご自分の友にしてくださったということが、土台にあって語られたことばです。
神とのさらに深いまじわりを求めたクリスチャンたちは、「ああわたしにある友はイエス」、「いつくしみ深き友なるイエスは」、「友なる主よ、喜びなるキリストよ」、「世にはよき友も数あれど」など、イエスを「友」と呼ぶ賛美歌、聖歌を数多く作りました。これらの人々は神との友情を保ち続け、イエスとの友情に真実であろうとしました。そして、神が、イエス・キリストがどんなにかけがえのない友であるかを知ったのです。私たちも、主である神が、王であるキリストが、あえて、私たちを「友」と呼んでくださっていることを、しっかりと受け止め、心から感謝し、確信を持って祈り続けていこうではありませんか。
二、他者のために祈る
第二は、他者のために祈ることです。
友人にパンを求めた人は、自分のためにではなく、自分のところに来た来客のためにそうしました。このことは、私たちに、他の人のためにも熱心に祈り続けることを教えています。私たちは、他の人が困った目にあっているのを聞くと「祈ります。」と言いますし、手紙にも「お祈りしています。」と書きます。確かに祈りの心をもってそう言い、そう書くのですが、実際にそのことを覚えて祈り続ける人は多くはないように思います。救世軍の山室軍平は、手紙に「祈ります。」と書いたら、その場でペンを置いて実際に祈ったそうです。私たちも、「祈ります。」ということばに責任をもって、聞いた祈りの課題を忠実に祈っていきたいと思います。
私の体験では、自分のために祈っていることはなかなか聞かれなくても、私が他の人のために祈ったことは、案外早く聞かれることがあります。私は、自分のために祈るときには、どうしても遠慮がちになってしまうのですが、他の人のためですと、その人の祝福を願って、大胆に、確信をもって祈れるからかもしれません。
ガラテヤ6:2には「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」と教えられています。あまりに大きな重荷を背負わせられると、他の人の重荷まで負いたくない、そんな余裕などないと考えがちですが、しかし、自分の重荷を助けてもらうだけでなく、自分もまた、誰か他の人の助けになれるなら、それによって自分の重荷を軽くすることができるのです。病院で読んだ「デプレッションから立ち直る方法」という記事の中にも、「すすんで他の人に助けの手をさしのばしましょう」という項目がありました。ちょっと古い時代のことですが、こんな実話があります。ある人が冬山を越えようと歩いているうちに、道に倒れている人を見つけました。その人より先に何人もの人が、その倒れた人を見ながらも、自分のことで精一杯で、誰も助けなかったのです。しかし、この人は、倒れている人を背負って歩いていきました。先に進むと、この人の前に通っていった人はみな、途中で凍え死んでいました。けれども、倒れていた人を背負って歩いた人は、ふたりのからだのぬくもりで、凍えることなく、無事に山を下りることができたのです。人を助けようとしたことが、自分を助けることにもなったのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われたイエス・キリストは同時に「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」とも言っておられます。キリストのくびき、キリストの荷を背負うことが、私たちを重荷から救う道なのです(マタイ11:28-30)。そしてキリストのくびき、キリストの荷を背負うことの中には、他の人の重荷を負うことも含まれています。
他の人のために祈るのが大切だからといって、自分のために祈らなくても良いということはありません。ガラテヤ6:5に「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」と教えられているように、誰しも、自分の課題があります。自分が取り組むべき課題が分からない人は、それを発見するために、特別なスピリチュアル・ディレクションが必要かもしれません。自分の課題をしっかり祈ることができる人が、他の人のためにも祈ることができるのです。
三、キリストの再臨に備えて祈る
第三は、キリストの再臨に備えて祈ることです。
そう言うとずいぶん飛躍しているように聞こえますが、実は、イエスのたとえ話は、どれも多かれ、少なかれ、世の終わりに関することとつながりがあるのです。難しいことばで言えば、たとえ話には「終末的要素」があり、今朝のたとえ話にもそれがあります。「真夜中の訪問者」がそれを表しています。テサロニケ第一5:2に「主の日が夜中の盗人のように来る」とあります。世の終わりは、真夜中に突然やってくる訪問者のように訪れるのです。世の終わりは、キリストの再臨によってもたらされるのですが、人々が、イエス・キリストの来臨は、まだまだだと思って、霊的に眠り込んでいるとき、突然のように、キリストは来られるのです。聖書は、この世がどんどん暗くなり、悪が栄えてその頂点に達したとき、キリストは来られると教えています。キリストは真夜中の暗闇に真昼の光を与えてくださるのです。キリストは天に帰られるとき、もう一度この世に来られるという約束を残していかれました。それ以来2000年の間、信仰者たちは「主よ。来てください。」と祈り続けてきました。キリストの再臨に備えさせるのは、祈りです。主イエスは、目を覚まして祈っているよう教えておられます。
祈りが目指しているものはキリストの再臨です。どの祈りも、それが最終的に、完全な形で聞かれるのは、キリストの再臨の時だからです。私たちは日々の必要が満たされることを願って祈っています。神はこの地上でも食べるものを与え、着るものを与え、そして、眠るところを備えてくださいます。また、目に見える必要ばかりでなく、たましいの飢え渇きをも神は、みことばと聖餐をもって満たしてくださいます。しかし、私たちのたましいの究極の満たしは、神と人とがふたたびひとつとなる世の終わりのときに与えられるのです。私たちは、健康を願い、病気からのいやしを祈ります。しかし、どんなに健康な人もかならず死を迎えます。もし、死が人生の終わりであるなら、健康も、いやしも空しいのです。しかし、再臨の時、私たちのからだはどんな欠陥もなく、病気になることも、老いることも、死ぬこともない、完全な、栄光のからだになります。きよめられたたましいがこの栄光のからだと結びつくのです。私たちは、この世界が平和でさいわいであるように、社会に正義と愛が満ちるようにと祈り、願っていますが、この祈りは、何千年と積み重ねられてきた信仰者の祈りにもかかわらず、まだ実現していません。しかし、キリストが再び世に来られ、この世を治めてくださるとき、それが実現するのです。私たちは、日常のことを祈っているときも、じつは、そのたましいの奥底には、今の、このときのことだけでなく、世の終わりの救いの完成を待ちわびているのです。日常の具体的な求めや祈りは、永遠の神の国に結びついているからこそ意味があり、神に聞かれるのです。人は、祈ることによって、世の終わりに目を向け、キリストの再臨の日を意識するのです。
このたとえ話は、あなたはキリストがおいでになるのを待ち望んでいるか、それに備えているか、それとも、自分のこと、目先のことだけで忙しくして、キリストというもっとも大切な来客を忘れていないだろうか、ということを、私たちに問いかけています。
私は、このたとえをはじめて読んだとき、真夜中に叩き起こされた友だちに同情の気持ちを持ちました。彼の家にあったパンは、おそらく、明日のためにと焼いておいたものでしょう。自分のところに来た客ならまだしも、人の客のために、家族のために用意したものを渡さなければならないなんて、じつに迷惑な話だと思いました。しかし、聖書を学ぶようになって、ユダヤの社会では、来客をとても尊重し、家に客を迎えるときには、その人がおなかがすいていようが、いまいが、十分なご馳走を出さなければならないという決まりがあることを知りました。しかも、たとえ、それが夜中であっても、そうしなければならなかったのです。そして、来客を迎えるのは、ただ一個人、一家族の責任にとどまらず、そのコミュニティ全体の責任でもあったのです。ですから、真夜中に客があった、この人は、真夜中にもかかわらず、パンを求めて友だちのところに行きました。友だちがパンを貸してくれるのを当然のことと期待して、その戸を叩いたのです。
そうしたことを学んで、私は、この友だちへの最初の同情心が薄れました。この友だちは「マイホーム」を尊重するあまり、「コミュニティの責任」を忘れている人ではないかと思いました。現代の私たちに、あてはめれば、自分の都合を優先させて、教会で共に責任を負い合うことを忘れているような人です。そして、主イエスを教会にお迎えするために、私も他の人に協力して働かなければならないことを教えられました。大きなことはできなくても、「パンを三つ貸す」という小さなことはできるはずです。そのようにして、キリストの再臨のとき、キリストをお迎えする人々の中のひとりでありたいと思いました。
自分の必要のために、他の人の必要のために、なによりも、キリストをお迎えするために、あきらめずに祈り続ける。お互いにくじけやすい者たちですが、だからこそ、祈ることをもっと主から教えられ、共に祈り合い、互いに励まし合って、主イエスが再び来られる日を待ち望んで、歩もうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、主イエスは、誰に祈るのか、何を祈るか、どのように祈るのか、何を目指して祈るかということのすべてを私たちに教えてくださいました。学んでもなかなか身につけられない私たちですが、あなたは忍耐深く、私たちを教え続け、導き続けてくださっています。あなたは今朝も、「求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる。」と約束してくださいました。この約束を信じて、今朝学んだことを、どうぞ、この週、いや、今日から実行させてください。私たちを失望から守り、思い煩いから救い、ことごとに、忍耐をもって祈り続けるものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
1/10/2010