祈りを学ぶ

ルカ11:1-4

オーディオファイルを再生できません
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください。」
11:2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
11:3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
11:4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください。』」

 一、弟子たちの求め

 イエスは祈りの人でした。聖書にはイエスが毎日夜が開けないうちから、ひとり静かなところで祈られたこと、また、たびたび夜を徹して祈られたことが書かれています。ある日、イエスがいつものように祈りを終えて弟子たちのところに帰ってこられると、弟子たちはイエスに「主よ、わたしたちに祈ることを教えてください」とお願いしました。イエスが、祈りの場所から帰って来られるたびに、さらに輝いて見えたのでしょう。弟子たちに「わたしたちも先生のように祈りたい」という願いが起こりました。イエスの姿を見て、イエスの祈りの秘密を知りたいと思ったのです。

 人々が「わたしもあの人のように祈りたい」と思うようになるのは、その人が、人前で、大声で、きれいな言葉を並べ立てて祈るのを聞くからではありません。むしろ、人知れず祈っている人の、祈りに支えられた、人生に対する姿勢や人々に対する態度、また人格の光を見て、「わたしもあの人のように祈りたい」と願うようになるのだろうと思います。イエスは、人々にそんな願いを引き起こさせるお方でした。わたしたちも、イエスの弟子として、人々の思いを霊的な事柄に向けさせるようなものを持っていたいと願います。

 「祈ることを教えてください。」この弟子たちの願いに、イエスは即座に答えて、「祈るときにはこう言いなさい」と仰って、あとに続く祈りを教えてくださいました。イエスは、弟子たちが、他のどんなことよりも、「祈ること」を学びたいと願ったことを喜ばれたのです。実際、この時、弟子たちは「祈ること」といういちばん大切なもの、いちばん良いものをイエスに願ったのです。

 「祈り」、それは、神とのまじわりです。人間にとって神とのまじわり以上に大切なものはありません。詩篇に「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う」(詩篇42:1-2)とあります。雨の降らない乾期でも、深い谷底にはまだ水が残っています。どんなに険しい谷になっていても、鹿はそこを降りていきます。そこに渇きをいやす水があるからです。そのように人の魂もまた、神を、生ける神をひたすらに慕い求めています。ところが、多くの人は、この魂の渇きに気付かなかったり、気付いてもそれを無視してしまうので、満たされない人生を送るのです。カネやモノを追い求め、地位や名誉を誇り、人との社交に没頭しても、けっして魂の渇きは満たされません。この渇きをいやしてくれるのは、神に近づき、神をわたしたちのうちにお迎えし、神とのまじわりの中生きること以外ありません。そして、それをさせてくれるのが、祈りなのです。祈りは、神とのまじわりから来る神の愛や恵み、平安や祝福を受け取る鍵です。祈りを学ぶことは、わたしたちを満たしてくれるものを受け取る鍵を手にすることなのです。

 「困っている人を助けるのに、必要なものを与えてあげるだけでは本当の助けにならない。必要なものを手に入れる方法を教えてあげなければならない」とは、よく言われることです。魚をとってきてあげるだけでなく、魚をとる方法を教えてあげるのが本当の援助だというわけです。それは信仰のことでも同じだと思います。もし人が「祈ること」を学ぶことができたなら、その人は、困ったことが起こったときも、祈りによって神から知恵と力を授けられます。神の助けと導きをいただいて、そのことに対処できるようになります。他の人が絶望して投げ出してしまうようなときでも、その人は神の力に支えられてそこに踏みとどまることができます。しかし、「祈ること」を知らない人は、神からの助けを求めようとしないので、問題の壁に取り囲まれて身動きできなくなってしまいます。「祈ること」を知っていても、「祈ること」を学び続け、それを身に着けていないと、もっと複雑で、難しい問題がやってきたとき、それに対処することができなくなってしまいます。「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください。」たえず、主にそう願い続けましょう。

 二、主の答え

 しかし、祈りは「学ぶ」ことができるものなのでしょうか。「学ぶ」ことができるとしたら、どうやってそれを学べばいいのでしょうか。

 「祈り」は、神が人間を「神のかたち」に造られたとき、すべての人に備えられたものです。ですから、どの人も、特定の宗教を持っている、いないにかかわらず、「祈る」という行為をします。先週は、日本で阪神淡路大震災二十周年の記念の集まりがありました。「黙祷」という言葉のあと、大勢の人々が一斉に「祈り」を共にしたのです。そういう意味では、祈りはもとから人間に備わった能力で、人の心から自ずと湧き上がってくるものであって、あらためて学ぶ必要はないし、学ぶこともできないと考える人がいても不思議ではありません。

 けれども、「神のかたち」に造られた人間であっても、神とのまじわりの中に生きていなければ、「神のかたち」が損なわれ、人間が人間以下のものになってしまうことは、聖書が教える通りであり、わたしたちが日常見るとおりです。「祈り」という能力も、それが正しく用いられなければ、神の栄光や他の人の幸せを願うものにはならず、ただ単に自分の願いだけを追い求める、利己的なものになってしいます。祈りが神とのまじわりのためのものではなく、自己実現のための道具で終わってしまうのです。祈りとは何なのか、わたしたちは何を、どう祈ればよいのかを絶えず学び続ける必要があるのです。祈りは学ぶことができます。いや、それはわたしたちが、他のどんなことよりもまず、学ばなければならないものなのです。

 では、どうやって祈りを学べばよいのでしょう。まずは、「真似る」ことです。日本語の「まなぶ」という言葉は「まねぶ」という言葉から来たと言われます。わたしたちはたいていのことを「真似る」ことによって身に着けていきます。子どもは親の祈りを真似て、祈りを覚えていきます。まだものを言えない赤ちゃんでも、母親が子どもにかわって祈ってあげると、子どもは祈りを覚えます。ミルクを与えるときには「神さま、おいしいミルクをありがとうございます。たくさん飲んで大きくなれますように」、病気で薬を飲まなければならないときは「神さま、このお薬を使って、わたしを元気にしてください」と、子どもの言葉で祈ってあげるとよいのです。そうすれば、子どもは自然と祈りを学び、事あるごとに祈ることができるようになるでしょう。

 わたしが生まれてはじめてまことの神に祈ったのは、教会の伝道集会でのことでした。「伝道集会で決心できた人は残りなさい」と言われて残っていると、加藤さんという教会の執事の方が、「わたしのあとについて祈りなさい」と言って祈りの言葉を短く区切って与えてくれました。わたしは、その言葉をオウム返しに祈りました。わたしの最初の祈りは、与えられた言葉を真似て繰り返すという祈りでした。じつは、イエスが弟子たちのリクエストに答えて教えられた祈りも、それと同じように、イエスの言葉どおりに繰り返して祈る祈りだったのです。聖書が与えている祈りを真似ることから、祈りを学ぶ第一歩が始まるのです。聖書には、特に詩篇には、数多くの信仰の祈りがあります。聖書の言葉どおりに祈ってみてください。きっと新しい発見があると思います。

 また、数多くの信仰者たちが遺した祈りも役に立ちます。ラインホールド・ニーバーの「平安の祈り」は、多くの人が日々祈っている祈りです。

神さま、変えることができるものを、変える勇気を
変えることのできないものを、受け入れる冷静さを
そして、変えることができるものと、できないものとを識別する知恵をわたしに与えてください。

 聖書の祈りや他の人の祈りをそのまま祈るのは、やさしいように見えてじつは難しいことでもあるのです。祈りの言葉を暗記して唱えるのは簡単でも、そこに込められた深い信仰や謙虚な姿勢、また、ひたすらに神の栄光を願う真剣な思いに到達するのは、簡単ではないからです。祈りを学ぶ第一歩は、他の人の祈りを真似て祈ることですが、聖書の祈りや信仰者たちの祈りを同じ心で祈ることができるようになるには、さらに信仰の歩みを積み重ねる必要があります。イエスの祈りを真似、それをそのまま祈ることができるようになるというのは、祈りの出発点であり、ゴールでもあるのです。

 三、祈りを学ぶために

 祈りを学ぶのに、次に、他の人と共に祈ることをお勧めしたいと思います。イエスは「祈るときには、ひとりで隠れたところで祈る」ように教えましたが、それは、他の人と一緒に祈ることを否定してのことではありません。イエスは「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束されましたが、これは、人々が集まって共に祈っている場面を指しています。初代教会はことあるごとに共に集まって祈りました。「祈り会」は初代教会からあったのです。使徒行伝には「彼らはみな、…共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒1:14と2:42)と書かれています。

 「祈り会」というと、教会のリーダたちやよく祈ることができる人たちが集まるところという誤解がありますが、決してそうではありません。「祈り会」は、むしろ、これから祈りを学ぼうとしている人たちのための「祈りの教室」です。祈りを学びはじめたばかりの人は祈り会で、何をどうやって祈ったら良いかを学ぶことができます。とくに、教会の働きのために、他の人のために、社会や世界のためにとりなすことを学ぶことができます。自分でよく祈れないときは、他の人の祈りに心を合せるだけでもよいのです。そうしているうちに、自分でも祈れるようになり、祈りを広げ、深めることができるようになります。

 一昨年と去年、英語を話すひとりの青年が、時々祈り会に来ていました。彼は自分の祈りを日本語で書いてきて、心を込めて祈っていました。よくは祈れなくても、心を込めて祈ろうと努力している人たちと共に祈るとき、わたしは、自分が祈りを学びはじめたばかりの時を思い出し、初心に立ち返えり、とても励まされます。祈り会では、長年祈ってきた人も、祈りはじめたばかりの人もお互いから学ぶことができるのです。

 「祈りを学ぶ」ということで、最後にお話ししたいことは、「祈りを学びたい」という意欲を持ち続けるということです。「もっとよく祈りたい」という思い、熱意があれば、祈りを学ぶ機会は数多くあります。祈りに関する書物は身近なところに多くあります。なによりも日々に祈ることの中で祈りを学ぶことができます。祈りを学ぶのに一番良い方法は祈ることだと言われますが、その通りです。祈る人、祈り続ける人はかならず祈ることの幸いを見出すからです。

 カリフォルニアにいたときですが、ある「祈りのセミナー」に参加しました。土曜日の朝9時から午後3時までのセミナーで、昼食は無し。どうしてもお腹のすいた人は、用意されたリフレッシュメントを食べてもよいとのことでした。導入の講義があり、黙想の実践があり、スモールグループでの分かち合い、証しや質疑応答がありました。家内もわたしも驚いたのは、そこに若い人たちが大勢参加していて、祈りの生活を充実させたいと真剣に願い、盛んに質問していたことでした。普通、若い人たちは活動的で、音楽やスポーツなどのイベントなら大勢集まっても、断食して祈りを学ぶという集まりにはあまり来ないものだと思っていたからです。でも、実際は違いました。「祈りを学びたい。」これは、年齢に関係なく、すべての真実なクリススチャンが持っている求めです。この内面の求めを他のことで紛らわしたり、消したりしないで、それを育てていきましょう。「主よ、わたしたちに祈ることを教えてください。」これをこの一年の主題聖句として、共に励まし合って、祈りに成長していきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、「わたしたちに祈ることを教えてください」という弟子たちの願いを、主イエスは喜んでくださいました。わたしたちにも、弟子たちと同じく、祈りを学ぼうとする熱心を与えてください。この一年、互いに励まし合って、祈ることを学び、祈りにおいて成長するわたしたちとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/25/2015