まして天の父は

ルカ11:11-13

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11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 昔、ある田舎町で、ひとりの年老いた母親が信仰を持ちました。彼女は、教育を受ける機会がなかったため、聖書を読んだりできませんでしたが、教会で説教を聞いて、信仰を学んでいました。この母親に、ひとり息子がいたのですが、もう大人になっているのに、少しもきちんとした生活をしないで、毎日ブラブラしていました。母親は息子の改心を願っていましたが、そのことを上手に祈れないので、「どうしたらいいでしょうか。」と牧師に相談しました。牧師は「そんなときは、『神さま』、『イエスさま』と、神さまを呼び求め、イエスさまのお名前を唱えなさい。」と教えました。この母親は言われたとおりに、部屋の片隅に行ってひざを折って座り、「神さま、神さま」と祈っていました。そこに息子がやってきました。息子は、母親が祈っているにもかかわらず、「母さん、母さん」とうるさく叫びました。母親が祈りをやめて息子のほうを見ると、息子は「母さん、そんなに『神さま、神さま』って祈っても、神さまだって迷惑だよ。そんなに何度も神さまを呼ぶとうるさがられるよ。」と母親を冷やかしました。母親は息子に答えて言いました。「いや、神さまは聞いてくださる。だって、私がお前に聞いてやっているのは、おまえがあんまり『母さん、母さん』とうるさく呼んだからじゃないか。」

 その通りですね。祈りは、この母親がしたように、しつこいぐらいに神にしがみついていくのがいいのです。主イエスも、一、二度求めただけで、与えられないからといってあきらめてはいけないと言われました。イエスはそれを教えるために、真夜中に友だちにパンを求めた人のたとえを話されました。友だちは、「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」と答えるのですが、それでもしつこく頼み続けたので、友だちは「これじゃ、うるさくて眠ることもできない。」と言って、パンを与えたというのです。

 このたとえに続けて、イエスはこうも教えられました。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」真夜中にパンを求めた人の話では、神が友だちにたとえられ、今朝の話では、神が父親にたとえられています。最初のたとえで、人間の友だちと友である神が比較されていたように、このたとえでは、人間の親と天の父である神とが比較されています。聖書は神を私たちのたましいの親と呼び、イエスは神を「天の父よ」と呼んで祈れと教えていますが、「天の父」である神は人間の父親とどう違うのでしょうか。そのことを学ぶことによって、ますます確信をもって「天の父よ。」と祈ることができるようになりたいと思います。

 一、神は善

 人間の親と天の父との違いは、第一に、人間の父親には「悪」があるが、神はまったくの「善」であるということです。

 イエスは、「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っている」と言われました。このことばを聞いた人の中には「何だって? 私が悪人だって! キリストの教えはもっとフレンドリーなものだと思ったけど、なんて乱暴なんだ。」と反発を感じた人がいるかもしれません。しかし、聖書を学んでいる人は、「悪い者」というのは、何も奥さんに暴力を振るう人、子どもを虐待する人のことではなく、このことばが人間の内面にある罪の性質や自己中心性を指していることに気付いたことでしょう。イエスの教えは、人間が罪びとであるということを前提に語られています。私たちは、自分の子どもを愛し、かわいがります。親子の情愛というものは、愛である神が人間に与えてくださった賜物です。しかし、この親子の情愛も完全ではありません。「子どものために」と言いながら、実は、親が子どもをコントロールしたり、親の期待を子どもに押し付けたりすることもあります。また、善悪が基準ではなく、親の都合で子どもを叱ることもあるでしょう。そうすると、子どもは混乱して、善悪の基準を持たないで、人の顔色をうかがい、人に合わせて生きていくようなおとなになってしまうかもしれません。

 また、自分のこどものことなら一所懸命になっても、他の恵まれない子どものことにはそれほど心に留めないということもあります。自分の子どもには決して与えないような、子どもに悪い影響を与えるビデオ・ゲームを作って、売っている親が、そのお金で自分の子どもに健全なおもちゃを買ってやるようなことは、テレビドラマの世界だけでなく、現実に、身近なところにもあることでしょう。自分さえ良ければ…という自己中心の罪を、人間は持っています。

 スコット・ペックという心理学者は、彼のところに相談に来る人の中でいちばん厄介なのは、善良で完璧な人たちだと言っています。学歴も財産もあり、また、社会的にも認められている人たちが、自分の子どもが問題を起こしたとき、きまって言うのは、「自分たちは子どもにいつも最善のものを与えてきました。今も、子どもが立ち直るのを心から願っています。そのためにはどんなことでもしてやりたいのです。だから、こうして、カウンセラーであるあなたのところに来たのです。」ということばだそうです。しかし、実は、そうした「立派な」親が自分の子どもに完璧さを求めて、いちばん子どもを傷つけているのです。そうした人が子どもが立ち直るのを願っているのは、子どものためではなく、自分たちの評判が傷つけられないためなのです。そうした自分の自己中心性に気付づいていない「善人」が一番の問題だと言うのです。

 イエスが、大勢の人々に向かって、「あなたがたも、悪い者ではあっても」と言われたのは、私たちに、自分の罪深さを知って悔い改めることを教えるためでした。また、人間の罪深さと神のきよさ、人間の悪と神の善とを比較させて、まったくきよく、善である神を示すためでした。人間には罪があり、悪があります。しかし、神は全くきよいお方であり、完全に善です。ヤコブ1:17に「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」とあります。これは天の父である神が完全にきよく、善であることを教えています。

 聖書はいたるところで、神が善であると教えています。詩篇119:68に「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。」とありますが、ここは口語訳では「あなたは善にして善を行われます。」、新共同訳では「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」と訳されています。英語の聖書では "You are good and do good." です。しかし、私たちはときどき、神が善であり、善だけを行われるということを見失うことがあります。大きな災害が起こったり、重い病気になったり、また、とんでもない目に遭ったときは、ほんとうに神は善なのだろうかと疑ってしまうこともあります。しかし、この世に起こるさまざまな「悪」の背後に、善なる神がおられることを、信仰者たちは認めてきました。そして、その信仰がひとびとに希望を与えてきました。どんなときも、神が善であることを信じていきましょう。詩篇34:8に「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」とあります。インスタント・コーヒーのコマーシャル・メッセージに、ひとりの男性が、コーヒーをすすりながら "This' good, so good." というのがありました。神を信じる者も、この世で苦い「悪」を味わうことがあっても、礼拝や聖餐で神の「善」を味わい、"God is good, so good." と、神をほめたたえるのです。"God is good." とても語呂合わせの良いことばです。これが信仰の生活の合言葉になるまでに、悔い改めと信仰の歩みによって、神の善を確認していきたいものです。

 二、神は寛大

 人間の親と天の父との違いは第二に、人間の親には惜しむ心があるが、天の父である神は寛大な心で、求める者に最も良いものを与えてくださるということです。

 ヤコブ1:5に「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」とあります。ここに、神は、「だれにでも」「惜しげなく」「とがめることなく」お与えになると教えられています。「だれにでも」の中には、どの国の人も、どんな境遇の中にある人も、まだ洗礼に至っていない求道中の人も、長い信仰生活を過ごしてきた人も含まれます。神は誰であっても「求める人」に与えてくださるのであって、その人の身分や地位のゆえではないのです。そして、「惜しげなく」というのは、神の寛大さを表わしています。神は、決して出し惜しみをなさるお方ではありません。ご自分の無限の豊かさの中から、常に豊かなものを与えてくださいます。コリント第二9:8には「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」と書かれています。

 「とがめることなく」という約束も、励みになります。私たちの祈りや願いの多くは、罪の赦しを願い、神のあわれみを求めるものですが、私たちは、なんと同じ罪を何度も繰り返し、そして、同じ罪を何度も赦してくださいと祈ることでしょうか。日本には「仏の顔も日に三度」ということばがあって、私たちは、他の人の罪や過ち、失敗を三度ぐらいまでなら赦すことはできても、それ以上は赦すことができず、同じ罪や過ち、失敗を繰り返す人を、私たちは咎め、斥けてしまいます。ところが、イエスは、私たちに「七の七十倍」まで他の人の罪や過ち、失敗を赦せと言われました。七の七十倍というと、490になります。人の過ちを490回も記録をとる人などいませんから、この数字は、「何度でも」という意味になります。これを実践するのは、私たちにはとても難しいことなのですが、それだけに、神が、私たちの罪を490回以上も、何度でも赦してくださっていることに感動せずにはおれません。私たちが受ける苦しみの中には自分の罪や不信仰、不従順、また不注意から出たものが多くあり、「自業自得」と言ってもしかたのないものもあります。しかし神は、私たちが自分で引き起こした苦しみであっても、その苦しみに心から同情し、その中でもがいている私たちをあわれみ、助けの手をさしのばしてくださるのです。ですから、私たちは、あきらめずに、悔い改め、へりくだって神を呼ぶのです。何度でもやりなおし、何度でも祈り求めるのです。

 私たち、罪深い人間でさえ、自分の子どもには良いものを与えます。そうであるなら、まして寛大で、あわれみ深い父なる神が、求める者に、良いものを与えてくださらないはずがありません。この父なる神の愛とあわれみを信じて祈り続けましょう。

 三、神は聖霊の与え主

 人間の親と天の父との違いは第三に、人間の親はこどもに物質的、精神的なものを与えるが、天の父はそれ以上のもの、霊とたましいをお与えになるということです。

 人間の親は、こどもを生み、こどもに肉体を与えます。食べ物、着る物を与え、愛情を注いで情緒を養い、教育を与えてその能力を引き出します。私たちは親からどんなに大きなものを受けているかを、母の日や父の日が巡ってくるたびに、また、自分の誕生日がやってくるたびに、想いみて感謝したいものです。しかし、人間には、父母からだけではなく、造り主である神から直接いただくものがあります。それが霊やたましいと呼ばれるものです。人間は他の動物とは違って「神のかたち」に造られました。人間は神とまじわり、神の心を心として、その内面が神に似たものに変えられていくものとして造られています。創世記5章に「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られた。」ということばと、アダムが息子セツを生んだとき「アダムは、…彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」ということばがあります。親が与え、育てることができるのは「人のかたち」だけで、「神のかたち」は神ご自身が与え、育ててくださるものです。

 神は、人間が罪を犯して損なってしまった「神のかたち」を回復するために、救い主イエス・キリストを遣わしてくださいました。そればかりでなく、聖霊をも遣わしてくださると約束されました。聖霊は、キリストを信じる者の内面に住み、その人のうちに神のかたちをかたち造ってくださるお方です。主イエスが天に帰られたのち、主イエスにかわって人々と共に住み、人々を導く、「もうひとりの助け主」なのです。聖霊が与えられるとの約束のことばは、さまざまな箇所に見られますが、エゼキエル36:24-28がとくに大切ですので、そこを読んでみましょう。こう書かれています。

わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
これは、神に逆らって、みずからに滅びを招き、外国に捕らえ移されたイスラエルの人々を、神があわれんで、もう一度祖国に連れ帰ってくださることを預言したものです。この預言で大切なのは、聖霊によって人々の心が新しくされ、従順な神の民となるということです。そうでなければ、人々は、自分の国に帰っても、また神に逆らい、同じ罪を犯して、同じ裁きを受けて滅びてしまうからです。そこで、神は、人々が水と御霊によって生まれ変わり、きよめられ、神のこころを心として歩むことができるように聖霊を送ると約束されたのです。この約束は、イスラエルの人々にだけでなく、イエス・キリストを信じるすべての人に与えられています。人間にいちばん必要なもの、人々が長い間待ちこがれていたもの、神が最も与えたいと願っておられる聖霊は、今は、すべてイエス・キリストを信じ、新しい心を求める人に与えられるのです。私たちの天の父は、求める者にわずかなものではなく、豊かなものを与えてくださるお方です。聖霊はあらゆる賜物の源です。神は私たちに必要なもの、良いもの、祝福をくださるだけでなく、祝福のみなもとをくださるのです。求める者に究極のギフトである聖霊をくださるのです。

 主イエスが約束された聖霊を、私たちも求めましょう。聖霊によって与えられる罪の赦しときよめ、新しい心と従順な思い、神を父とし、私たちが神の子となるという、神との親しいまじわりを、なおも求め続けましょう。主イエスは「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」と約束されました。この約束のことばをにぎりしめて、神を呼びましょう。主イエスのお名前によって祈り続けましょう。 

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが善であられること、物惜しみすることのないお方であること感謝します。あなたは、その善と寛大さをもって、私たちに聖霊を約束してくださいました。あなたが与えてくださる究極の贈り物である聖霊を、祈りをもって求め、信仰をもって受けとる私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/17/2010