ルカ11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
ルカ11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
ルカ11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
ルカ11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
ある新聞に教会の説教についての投書がありました。それは、「毎週教会に行って説教を聞くなんて意味がない。私は今まで30年間教会に通い3200もの説教を聞いた。けれどその中の一つだって記憶に残っているものは無い。このことで私は自分の時間を無駄にした。牧師たちだって自分の時間を無駄にしていると思う。」といったものでした。この投書をきっかけに賛否両論の投書が数週間きましたが、その中にこんな投書がありました。「私は30年間結婚生活をしてきました。その間、妻は32000食もの料理を作ってくれました。その一つとしてメニューを思い出すことはできません。でも次のことは確かです。この食事で私は栄養を取ることができたし、働くために必要な力をもらったのです。もし妻が料理を作ってくれなかったら私はとうに死んでいたはずなのです。私たちが聞く、日曜日の説教も同じではないでしょうか。」この投書が掲載されてからは、説教についての投書は皆無となったそうです。
日曜日の礼拝を守り、説教に耳を傾けることには意味があります。たとえ、去年の説教が何だったか思い出せなかったとしても、それによって私たちのたましいが守られ、養われ、成長してきたからです。また、同じ時間に、同じ場所で、同じ説教に共に耳を傾けることにも意味があります。それによって私たちは共にキリストに結びつき、キリストのからだとして、教会を建てあげていくのです。昨年、そのことを味わった私たちは、今年も、年52回の礼拝と、年6回の聖餐をしっかりと守り、礼拝の祝福をいっぱいに受けていきたいと願います。
さて、今年の礼拝のテーマは「祈り」です。年間聖句は「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。」です。この「祈りを教えてください。」ということばは、祈りは成長するものであることを教えています。祈りはそれを学ぶことによって成長させることができるものです。ですから、「私は良く祈れない。」と悲観することはありません。「私は、毎日時間をかけて祈っているし、どんなときでも十分祈ることができる。もう祈りを学ばなくても良い。」と言うこともできないのです。イエスの弟子たちは皆ユダヤの人々でした。ユダヤの人々は幼いときから祈りを教えられ、毎日良く祈っていました。おそらく、現代の私たちの何倍も祈りに時間を費やしていたでしょう。そんな弟子たちでさえ、「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。」とイエスに願い出ているのです。まして、私たちはもっと、祈りを学ぶ必要があるのではないでしょうか。神を知らない人のように自分の願いだけをくりかえすだけではなく、神のみわざを求め、神のみこころに触れていくような祈りを学びたいと思います。
祈りを学ぶ方法は数多くありますが、今朝はその中から三つのことを取り上げます。旧約の信仰者に学ぶこと、詩篇に学ぶこと、そして、主イエスに学ぶことです。
一、旧約の信仰者に学ぶ
第一に、私たちは、旧約の信仰者から祈りを学ぶことができます。祈りは、人類の歴史ととも古く、歴史は祈りを学ぶ宝庫です。祈りは聖書のはじめ、創世記にすでに見ることができます。神はアダムを「神のかたち」に造りました。この「神のかたち」には人間が神の声を聞き、それに応答する能力が含まれています。人間は神の語りかけを聞き、それに答えることができる者、つまり、祈る者として造られました。神は、六日の間にすべてのものを造り、第七日目には創造のわざを休み、ご自分が造られたすべてのものを祝福されましたが、その祝福の大部分は人間に向けられていたと思われます。この日、神は人に語りかけ、人は神に応答したのです。創造の第七日目は人類の歴史の第一日目ですが、この日は神の祝福とそれに対する人間の応答、つまり、祈りで始まったのです。
アダムが罪を犯した後も、神は人間に呼びかけることを止めませんでした。神の顔を避けて隠れていたアダムに神は「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)と呼び求め続けられました。神と人との対話は途絶えることなく、神は常に人間に呼びかけ、人のたましいもまた神を求め、神を呼ぶようになったのです。創世記4:26には「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」と書かれています。
旧約時代の父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブは皆、行くところどこにでも祭壇を築いて神に祈りました。神はモーセとアロンを選び、イスラエルをエジプトから救い出させました。モーセは、神に逆らい、神の怒りをかったイスラエルのために、赦しを求めてとりなし祈りました。アロンとその子どもたちは祭司となって、神の幕屋で人々のためにとりなし祈る者となりました。長い間、荒野の時代と同じ天幕のままだった神の宮は、ダビデが計画、準備し、その子ソロモンによって立派な神殿となりました。その神殿を奉献するとき、ソロモンはこう祈りました。「だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住いの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。」神はこの祈りを受け入れ、神殿を栄光で満たされました。神殿は、イエスもそう言われたように、すべての民の「祈りの家」(イザヤ56:7)でした。
やがてイスラエルの人々はまことの神から離れ、神殿に背を向けて思い思いのところに礼拝所を作り、好き勝手な偶像礼拝にふけるようになりました。しかし、そのような中でも、真実に神を礼拝し、心を込めて祈る人々がいました。たったひとりで四百五十人ものバアルの預言者と戦った主の預言者エリヤはそのひとりでした。バアルの預言者は大声でバアルの名を呼びましたが、彼らの祭壇には何事も起こりませんでした。しかし、エリヤが「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」(列王記第一18:36-37)と主に祈ると、エリヤの祭壇に天から火が降り、その供え物を焼き尽くしました。聖書にはこうした祈りについてのエキサイティングな話がいくつもあり、私たちに祈りの力を教えてくれます。
イスラエルの人々は、その犯した罪のためバビロンに連れていかれました。やがてバビロンが滅びてペルシャとなり、多くの人が祖国に帰ったのですが、ペルシャに残った人々もありました。ペルシャに残った人々は、外国にあっても、神への祈りを忘れず、それを守りました。ダニエルは、ダニエルを陥れるために「王以外に祈る者は罰せられる」という命令が出た時も、神への祈りを欠かしませんでした。忠実に祈り続けた信仰者たちの物語は、私たちに勇気を与えてくれます。聖書は、一貫して祈りを教えています。聖書を読み続け、学び続けるなら、かならず祈りをも学ぶことができます。
二、詩篇に学ぶ
第二に、私たちは詩篇から祈りを学ぶことができます。詩篇は、プレーヤー・ブック、祈りの本です。人々はことあるごとに詩篇を祈りました。神殿の礼拝では、それぞれの祭りの時に歌い、祈る詩篇が指定されていました。詩篇が五巻に分かれているのには意味があります。それは、イスラエルの人々にとって最も大切なモーセの律法の書が五巻に分かれているのに合わせたものです。詩篇は神が律法を通して語ってくださったことに対して、神の民が祈りをもって応答した書物なのです。教会でも詩篇は重んじられ、詩篇の交読は今も続けられています。詩篇は紀元前千年から四百年の間に書かれた古い祈りです。しかし、その後のどんなものによっても置き換えることのできない価値を持っています。それは古くなっていらなくなったものではありません。それは現代にも通用する、いや、この時代にこそ、最も必要とされるものです。教会は、今まで詩篇を大切にしてきましたが、これからはもっとそれが大切なものになることでしょう。
しかし、詩篇は教会で交読文のときだけに使われるものではありません。詩篇はプライベートな祈りでも使うことができるのです。詩篇は読むだけのものではなく、祈るものです。詩篇を開いたときは、そこにある祈りを、そのことばどおりに、声に出して祈るとよいのです。詩篇には、あらゆる状況での祈りが網羅されています。たとえば、思い煩いや心配なときには「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(詩篇94:19)「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」(詩篇139:23)という祈りがあります。恐れのある時には「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(詩篇56:3,4)という祈りがあります。いわれのないことで人から非難されたときには「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。」(詩篇118:6)という祈りがあります。自分の罪を示され、赦しを請うときには「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」(詩篇25:11)「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:5)「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。」(詩篇65:3)という祈りが用意されています。
詩篇には、他にも、賛美の祈り、感謝の祈り、悔い改めの祈り、導きを求める祈りなど、ありとあらゆる場合の祈りがあります。思いはあっても、どう祈ってよいか分からないときは、詩篇を開きましょう。祈りにことばが与えられます。また、自分の中に神への祈りの思いが十分ではないと思うときにも、詩篇を開きましょう。詩篇を祈るにつれて、祈りのこころがわき上がってくるのを体験することができます。詩篇は、祈りの心と、祈りのことばの両方を私たちに与えてくれるのです。
三、イエス・キリストに学ぶ
第三に、私たちは、主イエス・キリストご自身から祈りを学ぶことができます。主イエスが祈りについて語られたさまざまな教えからばかりでなく、ことあるごとに祈られたイエスを模範にするのです。ルカ11:1に「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」とあるとおり、弟子たちが「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。」と願ったのは、イエスの祈る姿を見てのことでした。イスラエルには祈りに明け暮れしている人たちが大勢いました。見事なことばの祈りも、知恵に満ちた祈りも、また火花の散るような熱心な祈りも多くあったでしょう。しかし、弟子たちは、イエスの祈る姿を見て、今まで自分たちが聞いたことも、したこともない、単純でありながら、神への信頼に満ちた祈りがあることを知ったのです。どうしたら、自分たちも、イエスのように祈ることができるのだろう、イエスのように祈りたい、そんな思いから、「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。」と願い出たのです。
シェバイツァー博士は、人々から「子どもを教育する秘訣は何ですか。」と聞かれたとき、「それは三つある。第一は、子どもの模範になることだ。」と答えました。人々が、では「第二と第三は何ですか。」と聞くと、「第二も、第三も、子どもの模範になることだ。」と答えました。シェバイツァー博士は模範によって教えることの大切さを教えたのです。子どもはおとなが言うことではなく、していることを真似ます。口でいくら立派なことを言っていても、していることがそれと違っていれば、子どもは決して大人の言うことを信用しません。私たちは、子どもの良いロール・モデルになりたいと願っているのですが、なかなかそうなれないことにがっかりすることがあります。しかし、イエスはすべての点で完全なロール・モデルでした。弟子たちが、使徒となって教会を指導することができたのは、たんにイエスから「レッスン」を受けたからではなく、イエスと共にいて、イエスご自身から、イエスの模範から学んだからでした。
イエスは祈りにおいても、弟子たちのロール・モデルでした。イエスはいつも、朝早く起きて、ひとりで寂しいところで祈っておられました(マルコ1:35、ルカ5:16、9:18)。イエスは、断食の祈りや徹夜の祈りにおいても、弟子たちに模範を残されました(マタイ4:2、ルカ6:12)。イエスはゲツセマネの園でひれ伏し、血の汗を流して祈られました。十字架の上で自分を十字架につけた人々のために祈られました。息をひきとる前の最期のことばは、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)でした。イエスのご生涯はじつに祈りの生涯でした。私たちは、その生涯を祈りによって過ごされたイエスの模範から、祈りを学ぶのです。
しかし、イエスの模範から祈りを学ぶというのは、考えてみると、不思議なことです。イエスは神の御子です。御子である神です。イエスは祈りを聞かれる方であって、祈りをささげる方ではなかったはずです。ところが、イエスは、この地上では、祈りのほか助けを求める方法がないかのように生きられました。イエスは人となって生まれたときから、命を狙われ、命の危険にさらされていました。イエスはその生涯のほとんどを、名も無く、貧しく過ごされました。神の国を宣べ伝えるようになってからは、ユダヤの各地を歩き回り、枕するところもない生活をされました。イエスの教えに反対し、イエスを亡き者にしようと企む人々から、いつも狙われていました。そのような中で、イエスは涙と叫びをもって父なる神に祈り求めました。ヘブル5:7に「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあるとおりです。イエスは、その生涯で、人間の罪から来る悲惨さのすべてを味あわれました。「キリストの知らない苦しみはない」と言われるように、私たちが体験する苦しみでキリストが味あわれなかったものは何一つありません。イエス・キリストは、あの十字架の上で、罪の刑罰そのものさえも味あわれたのです。それは、ご自分の死によって私たちのための救いを勝ち取るためでした。私たちの救いはイエスが成し遂げてくださいました。しかし、その救いを受け取るためには、私たちの側の信仰、つまり、救われたいとの願いや救いを求める祈りが必要です。イエスはその祈りを教えるため、ご自分が最も祈りを必要とする人間となり、祈りの生涯を過ごしてくださったのです。イエスは、救いを勝ち取るためばかりでなく、私たちに救いを自分のものにする祈りを教えるためにも、人となられたのです。
イエスは天から「このように祈れ。」と教えを垂れ、祈っていない人々や的外れな祈りをしている人々を罰してもよかったのです。しかし、そのようにしても、人は誰も真理を悟ることができず、祈りを学ぶことが無いことを、イエスはご存知でした。それで、自らが最も祈りを必要とする人となり、私たちに目に見える形で、具体的に祈りを教えてくださったのです。これらすべてのことはイエスの愛から出ています。イエスはそれほどまでに、私たちを愛し、私たちに祈りを学んでほしいと願っておられるのです。このイエスの愛に、この願いに、私たちはどう応えるでしょうか。「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。」という謙虚で、熱心な思いをもって、主の愛に応えようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、私たちに祈りを教えるため、あなたが備えてくださった、聖徒たちの祈り、詩篇のことば、そしてなによりも主イエスご自身の模範をありがとうございます。私たちに教えられやすい心を与え、あなたが備えてくださったものから祈りを学ぶことができますよう、助けてください。この一年、私たちの祈りがさらに深められ、成長していきますよう、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
1/3/2010