1:8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務をしていたとき、
1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
1:11 すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。
1:12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
教会は一年ごとに繰り返される礼拝のカレンダー、「教会暦」を持っています。テモテ第二2:8に「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とあるように、教会暦はイエス・キリストのご生涯をたどるように組み立てられています。ですから教会暦はアドベントから始まり、エピファニー、レント、イースター、ペンテコステと続き、ペンテコステ以降は、イエス・キリストと聖霊によってあきらかにされた三位一体の神のみわざをあがめて礼拝を持ち、「王なるキリスト主日」で終わります。
この教会暦のひとつひとつのシーズンをふりかえってみると、ひとつのことに気付かされます。それは、教会暦のどのシーズンも「待ち望むこと」が主題であるということです。「アドベント」(待降節)には「到来」という意味があって、イエス・キリストの到来を待ち望むシーズンです。旧約の神の民が長い年月にわたって救い主の到来を待ち望んだ、その信仰の足跡を、わたしたちもたどるのです。エピファニー(公現節)はキリストの贖いの成就を待ち望むとき、レント(受難節)はキリストの復活を待ち望むとき、イースター(復活節)はキリストがくださる聖霊を待ち望むとき、そして「王なるキリスト主日」までの「三位一体後主日」はキリストの再臨を待ち望むときなのです。
教会暦のどれもが、「待ち望む」ことを教えています。信仰の生活とは神を「待ち望む」生活であるといってよいでしょう。しかし、「待ち望む」というのは、いったいどうすることなのでしょうか。次にそのことをご一緒に考えてみましょう。
一、神の言葉によって
神を「待ち望む」ことは、第一に、神の約束にもとづいて、確かな希望を持つことです。「待ち望む」というのは、何の根拠もなしに期待したり、夢をふくらませることではありません。アドベントの四本のキャンドルのうち最初のキャンドルは「希望のキャンドル」ですが、これは「預言のキャンドル」とも呼ばれます。なぜなら、「希望」は「預言」から、神の言葉から来るからです。ペテロ第二1:19に「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」と書かれている通りです。わたしたちは、何の根拠もなく神の救いを期待しているのではありません。神が「わたしは来て、あなたを救う」と約束してくださった言葉によって、神の救いの到来を待ち望んでいるのです。
人生の歩みの中で、一度も失望や落胆を味わうことがなかった人は誰もいないでしょう。世の中には、わたしたちをがっかりさせるもので満ちています。しかし、神を信じる者がそうした中でも失望しきってしまわないのは、神の約束の言葉を知っているからです。
聖書は「旧約」と「新約」に分かれていますが、「旧約」の「約」も「新約」の「約」も、「契約」や「約束」の「約」です。聖書全体が、神のわたしたちに対する約束の言葉なのですが、それは同時に、具体的な約束の言葉で満ちています。たとえば次のようなものがあります。
「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15)同じような約束がたくさんあります。皆さんはどれほど多くの約束の言葉を知り、それを自分のものとし、信じて行動しているでしょうか。
「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」(詩篇50:15)
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」(ヨハネ7:37-38)
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる。」(ローマ8:28)
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5)
みなさんの誰もが不誠実な人の言葉や態度に失望した経験があるでしょう。周囲の人々から無視されたり、疎外されたり、冷たい視線や心ない言葉で傷ついたりもしたこともあるでしょう。そんなとき、心の通いあう人に話して分かってもらい、頷いてもらえたら、少しは心が晴れ、助けになるでしょう。しかし、わたしたちの心とからだを本当にいやしてくれるのは神の言葉です。御言葉によってこそ、わたしたちは失望や落胆から立ち上がることができるのです。神の言葉が、御言葉こそが、わたしたちに希望を与えます。御言葉にもとづいた希望は決して失望に終わらないからです。
二、忍耐をもって
「待ち望む」とは忍耐を働かせることです。聖書では「希望」と「忍耐」はいつもワンセットで出てきます。ローマ8:25に「もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」とあります。また、ローマ15:4には、「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである」とあります。テサロニケ第一1:3には「望みの忍耐」という言葉があります。ほんものの希望は忍耐を生み出し、また忍耐に支えれ、忍耐ののちに、希望が実現すると、聖書は教えています。
三段飛びの競技では、選手は、ホップ、ステップ、ジャンプと、三回にわけて飛びます。“Hope” という言葉は、この “Hop” という言葉を語源にしていると言われています。遠くへ飛ぶためには、いきなりジャンプするのではなく、ホップ、ステップで力をたくわえておき、それからジャンプしなければなりません。そのように、「希望」をもつこと、「待ち望む」ということは、神の力を内側にためておくことなのです。短距離競走の選手は、“Ready”の声でスタートラインに入り、“Set” の声でからだをかがめ、“Go” の合図で飛び出します。「忍耐」は、スタートラインで身をかがめ、力をたくわえるようなものです。
「忍耐」というものは、ほとんどの場合、自分から進んでするというよりは、身のまわりに起こる出来事や状況によって、やむなくするものです。それで、わたしたちは、苦しい状況に追い込まれたとき、「なぜ物事がうまくいかないのだろう」「なぜこんな障害が起こったのだろう」と悩むのです。また、こんな惨めな状態を他の人に見られたら、軽蔑されたり、非難されたりしないだろうかと恐れるのです。神を信じる者、その救いを「待ち望む」人は、そのようなときに悔い改め、身を低くしてへりくだり、忍耐します。しかし、それは、決して絶望に押しつぶされている姿ではなく、やがてそこから立ち上がるために、神への信頼を新しくし、それによって神からの力を蓄えている姿なのです。忍耐して待ち望む者にはそこから立ち上がり、前進していく力が与えれるのです。「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31)とある通りです。
イスラエルの人々は、王を失い、国を失い、神殿を壊され、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ローマなどの大国に蹂躙されてもなお、救い主の到来を待ち望みました。そしてその忍耐が報われ、救い主の到来を迎えました。わたしたちにも、それぞれに抱えている問題があり、わたしたちは、神がそれを解決し、その救いを見せてくださる時を待ち望んでいます。また、神を拒み続けている人たちが立ち返る日、神がアメリカをはじめ世界中の教会をあわれんでリバイバルを与えてくださる日を待ち望んでいます。忍耐をもって神を「待ち望み」ましょう。その忍耐働かせ、問題の解決を、人々の救いを、そして教会のリバイバルを見たいと思います。
三、準備をして
「待ち望む」とは、第三に、神の救いのために「準備をする」ことです。「待ち望む」というのは、ただぼんやりと時を待つということではありません。もし、みなさんが、大切なお客さんを家に迎えるとしたら、どうするでしょうか。部屋を片付け、カーペットを掃除し、食事を作って待つと思います。同じように、キリストの救いを「待ち望む」者、問題の解決を願う人は、神が問題を解決するのに障害となっているものを取り除け、神の救いを受け入れる準備をするはずです。
人が神の救いに備えるまえに、じつは、神は救い主到来の準備をされ、その使命をバプテスマのヨハネにお与えになりました。バプテスマのヨハネは救い主の先駆けとなり、人々が救い主を受け入れる準備をしました。どの福音書も、イエス・キリストの公生涯を描く前に、バプテスマのヨハネが荒野で宣教をはじめたことを書いています。ルカの福音書では、荒野の宣教の三十年前のこと、バプテスマのヨハネの誕生ことを書いています。誕生以前のヨハネにまつわる預言さえもしるされています。ルカ1:16-17に「(彼は)イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」とある通りです。この預言の通り、バプテスマのヨハネには、キリストの到来の先駆けとなり、その道備えをするという使命が与えられました。
じつは、バプテスマのヨハネに与えられたのと同じ使命が、今日のクリスチャンひとりひとりにも与えられているのです。救い主として世に来られ、天にお帰りになったイエス・キリストは、王として、もう一度世に来られます。神は、最初の到来のとき、バプテスマのヨハネにその道備えをさせましたが、二度目に来られるときには、クリスチャンにその道備えをさせるのです。
テサロニケ第一1:8-10にこうあります。「すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」
ここには、初代のクリスチャンがキリストの十字架と復活だけでなく、再臨についても力強く語ったことが書かれています。そればかりでなく、そのクリスチャンの証しは、それを聞いたまわりの人々によっていい広められているとあります。クリスチャンが自分たちの信じていることを語るだけでなく、それを人々に語ってもらえる、そんな力づよい証しがそこにはあったのです。それは証しが言葉だけのものではなく、キリストの再臨を信じ、その希望に生きたものだったからでした。わたしたちも、言葉とともに、その生き方をもってキリストを証しする者になりたいと思います。
「アドベント」はキリストの最初の到来を覚えるとともに、キリストの再臨を待ち望むときでもあります。この期間、わたしたちは、キリストの再臨を恐れではなく、希望をもって迎えられるように、自らを整えたいと思います。そして、キリストの救いを証しし、キリストの二度目の到来への道備えをしたいと思います。
ペテロ第二2:12に「おとずれの日」という言葉がありますが、これは、キリストが特別な恵みをもって人々を信仰に招いてくださる日のことだと思われます。わたしたちは、家族や友人、身近な人たちの救いのために祈り、キリストが再臨される以前に、そうした人々に、恵みをもって訪れてくださるよう願っています。そうした「おとずれの日」に、人々がキリストを受け入れることができるよう、ふだんから福音を伝え、キリストを証ししていきたいと思います。そして、再び来ようとしておられるキリストの先駆けとなる務めを果たしたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは救い主の先駆けとしてヨハネを遣わし、ヨハネはその立派に使命を果たしました。わたしたちにも、キリストの二度目の到来の先駆けとなる使命が与えられています。そのことに気付かせてください。あなたを待ち望む信仰と生活によって、その使命を果たすものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
12/3/2017