御言葉による希望

ルカ1:67-80

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1:67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、
1:68 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、
1:69 わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。
1:70 古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、
1:71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。
1:72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、
1:73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、
1:74 わたしたちを敵の手から救い出し、
1:75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。
1:76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、
1:77 罪のゆるしによる救を/その民に知らせるのであるから。
1:78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、
1:79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。
1:80 幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた。

 一、希望と預言

 アドベントの間、わたしたちは、四本のキャンドルを灯して、クリスマスを待ちます。第一週のキャンドルは「預言のキャンドル」、第二週は「天使のキャンドル」、第三週は「羊飼いのキャンドル」、そして第四週は「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれます。それぞれのキャンドルには、主題があって、「預言のキャンドル」は「希望」です。わたしたちの希望は、「預言」、つまり、神の言葉から来るからです。

 希望の光は、キャンドルにたとえるなら、神の言葉という蝋を燃やしながら輝きます。ランプの場合は、神の言葉という油を燃やして光を放つのです。希望のないところで人は生きることができません。どんなに豊かなものを手に入れても、希望が無ければ、からだは生きていても、たましいは死んでしまうのです。けれども、どんな逆境の中にあっても、たとえ明日も知れない生命の危険にさらされている場合でも、希望を持つ人の目は輝いています。

 わたしは、あと数日の生命という重い患者を訪ねることがよくありました。中には、そのことで失望しきっていたり、後悔の念で押しつぶされていたり、恨みごとを長々と語ったり、怒りをまきちらす人たちもいました。しかし、多くの場合、御言葉を語り、祈りを終えたあと、その人の目に希望が輝くのを何度も見てきました。人間の言葉には、絶望を癒す力はありませんが、神の言葉にはその力があります。もし、人が希望を失くし、絶望の沼に沈んたままでいるとしたら、それは、神の言葉の光を見ていないから、そのともしびが心の内に無いからだろうと思います。

 神の言葉が希望を与えることは、個人の場合も社会の場合も同じです。アメリカは信仰の自由を求めた人々が建てた国です。13の州からはじまったアメリカは、広大な大陸を開拓し、ハワイやアラスカを加えて50州にまでなりました。アメリカは豊かで強い国になりましたが、アメリカの発展の背後には、人々に希望を与え、社会を支え導く神の言葉がありました。アメリカが神から離れそうになったとき、神はリバイバルを起こして、神の言葉を注いでくださいました。人々が、神の言葉に聞き、悔い改め、信仰に立ち返ったとき、アメリカは息を吹き返しました。アモス書8:11にこうあります。「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」御言葉の飢饉。それは、実際の飢饉と同じくらい、いや、それ以上に恐ろしいものです。神の言葉が神の言葉として語られず、聞かれなくなるとき、人のたましいは枯れ、社会は荒れ果てていきます。御言葉から来る、ほんものの希望のかわりに、目先の楽しみや、モノの豊かさを追い求めたとしても、そうしたものでは、たましいは満たされることはないのです。

 ですから聖書は教えます。「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(ペテロ第二1:19)御言葉に聞き、それを心に宿すなら、わたしたちの心から希望のともしびは消えることがないのです。

 二、希望と救い

 神の民イスラエルは、紀元前586年に国を失い、ダビデの王朝は途絶えていました。それ以来、ユダヤの人々はバビロンやペルシャなどの大帝国に支配され、キリストがお生まれになったときには、ローマ帝国の支配のもとにありました。そんな中で、ユダヤの人々は、神の救いを待ち望みました。しかし、その救いがどんなものかについて、意見はまちまちでした。神殿を取り仕切っていたサドカイ派は、神殿儀式の中に救いを見ようとしました。サドカイ派は神殿さえ保たれれば、ローマ総督やヘロデ王と妥協するのをなんとも思いませんでした。パリサイ派は、そうした妥協を嫌い、ユダヤの伝統と律法を守ろうとしました。律法を守り行なうことが救いであると考えていたからです。熱心党は、武力でユダヤの独立を勝ち取ろうとしました。

 人々はそれぞれ、自分の考えで「救い」を定義し、自分の好む「救い主」を描きました。神が約束された救い主、神の救いの御業を正しく理解していなかったのです。希望は神の言葉から生まれますが、その神の言葉を正しく理解していなければ、ひとりよがりの思い込みで終わります。「救い主」がどのようなお方で、その「救い」がどんなものかを、正しく知ることがなければ、希望は確かなものとはならないのです。

 では、神の「救い」とはどんな救いなのでしょうか。77節に「罪のゆるしによる救い」という言葉があるように、ザカリヤは、それは「罪からの救い」であると、聖霊によって預言しています。イスラエルの人々は、ローマの支配から救われたいと切実に願っていました。しかし、罪に縛られたままであるなら、ローマの束縛から救われたとしても、また別の国に束縛されるようになるでしょう。ある人は貧困から、またある人は病気から、また、このトラブル、あの悩みから解放されたいと願います。経済活動が盛んになれば、貧困が解消され、医学の進歩によって病気が治ることもあるでしょう。しかし、罪から解放されないかぎり、たとえ目に見えるものから一時的に解放されたとしても、また別の苦しみや悩みに落ち込んでしまうのです。わたしたちの人生の根本的な解決にはならないのです。「罪の解決なしには、人は本当の問題の解決はない」と、聖書は繰り返し教えています。

 近年、「自分を愛する」、「自分を可愛がる」、「自分を賞める」ということが推奨されています。自分の罪を嘆き悲しむなどというのは、精神衛生にきわめて悪いことであって、自分で自分を赦して、晴れ晴れとした気持ちになればいいのだと言われるようになりました。クリスチャンでさえ、それが「福音」であり、聖書の教えであるかのように考えるようになりました。しかし、聖書が教える「罪の赦し」は、そんな気休めのようなものではありません。ただひとり、罪を赦すことができるお方から、「わたしもあなたを罰しない」(ヨハネ8:11)という権威ある言葉を聞くことだと教えています。もし、罪の赦しが、たんに「心を軽くする」だけのものなら、神の御子が人となって世に来られ、十字架でその生命を投げ出す必要はなかったのです。

 聖書は救い主を「罪から救う者」(マタイ1:21)と呼び、救いのメッセージとは、「罪のゆるしを得させる悔改め」(ルカ24:47)であると言っています。どんなものも、また、世界の誰ひとりとして、人を罪から救うことができるものはありません。ただひとり、人となられ、わたしたちの罪のすべてを背負ってくださった神の御子、イエス・キリストだけが、わたしたちに罪の赦しを与えることができるのです。人は、罪の解決を得てはじめて、この世で力強く生きることができ、世を去ったのちも、永遠の幸いに入ることができるのです。この救い主を知り、この救いを受け取るとき、わたしたちは本物の希望を持つことができるのです。

 三、希望と敬虔

 そして、罪の赦しは、わたしたちを「きよく正しい」生活と、神への「奉仕」へと導きます。74〜75節に「わたしたちを敵の手から救い出し、生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださる」とある通りです。キリストの救いは「罪からの救い」です。しかし、それは同時に「きよさ」と「正しさ」、神への「奉仕」への救いです。聖書は「何から救われる」かだけでなく、「何に向かって救われる」か、「何のために救われる」のかについても教えています。神が、人の罪を赦してくださるというのは、人が罪の中に生き続けるのを、許可するということではありません。「赦す」ことと「許す」こととは違います。神は人を、死から生命へ、闇から光へ、肉から霊へ、世から天へ、罪から「きよさと正しさ」へと救ってくださるのです。

 新しい新改訳聖書では、「きよく正しく」を「敬虔で、正しく」と訳しています。「敬虔とは、神に対するきっぱりとした態度である」と言った人がいますが、その通りだと思います。「偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになる」(テサロニケ第一1:9)「やみのわざを捨てて、…光の子らしく歩く」(ローマ13:12、エペソ5:8)ことです。まことの信仰者には、光と闇がまじりあったようなあいまいな場所などありません。光のあるところに闇はなく、闇のあるところに光はないからです。どっちつかずの生き方などありません。神が、わたしたちを救い、導き入れようとしている敬虔な生き方とは、ヨシュアが「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」(ヨシュア24:15)と言い切ったような生き方です。

 もちろん、この地上で、どんな罪も犯すことがなく、完全に正しい生活ができる人は誰ひとりとしていません。敬虔なクリスチャンもまた罪を犯すことがあります。しかし、まことの信仰者は罪の中に沈みこむことはありません。悔い改め、さらに神に信頼して、きよさと正しさを目指します。敬虔のための鍛錬を怠らないのです。なぜなら、今は、不完全であっても、やがての時、神がわたしたちを完全な者にしてくださるという希望があるからです。この希望に生きる者は、みずからをきよくして、敬虔を追い求めるのです。ペテロ第二3:11-14にこう書かれています。「このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。」

 旧約時代の人々が救い主の到来を待ち望んだように、新約時代のわたしたちも、キリストの再臨を待ち望みます。イエス・キリストは、二千年前に始めてくださった救いを再臨によって完成させてくださいます。この希望から「聖なる敬虔な生き方」が生まれるのです。「聖なる敬虔な生き方」こそ、キリストをお迎えする者が身につけるべき、「しみもきずもない」衣です。

 わたしたちは、すでに救われ、今救われ、やがて救われます。希望はこの救いから生まれます。それは、御言葉によって明らかにされています。わたしたちは御言葉によって希望を握りしめているでしょうか。この希望に導かれてきよさを目指し、敬虔のための鍛錬に励んでいるでしょうか。聖書は、わたしたちにそう、問いかけています。預言のキャンドルを灯すとき、この呼びかけに答え、この週を過ごしたいと願います。

 (祈り)

 イエス・キリストの父なる神さま、あなたは、御子によってわたしたちを罪からきよさと正しさへと救い出してくださいました。罪赦されて終わるのでなく、この世にあってきよめられつつ、主の再臨のときには栄光にあずかるのです。どうぞ、わたしたちを、この希望によって導いてください。この希望を人々に届けることができるようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/2/2018