1:67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、
1:68 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、
1:69 わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。
1:70 古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、
1:71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。
1:72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、
1:73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、
1:74 わたしたちを敵の手から救い出し、
1:75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。
1:76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、
1:77 罪のゆるしによる救を/その民に知らせるのであるから。
1:78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、
1:79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。
1:80 幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた。
一、アドベントキャンドル
きょうはクリスマス四週前の日曜日、アドベントの第一日曜日です。「アドベント」とは文字通りには「到来」という意味があります。「到来」といって、いったい何がやってくるのでしょうか。それは救い主です。長い間苦しみを通ってきたイスラエルの人々は、救い主が来ることを心待ちにしていました。そして、その救い主は、じつに、今から二千年前にこの世界に来てくださいました。それが主イエス・キリストです。キリストはすでに来て、私たちを救ってくださったのですが、もう一度来て、この世界を治めてくださると約束なさいました。クリスチャンはキリストの二度目の到来、再臨を待ち望んでいます。ですから、新約時代の私たちも、このアドベントの期間、旧約時代の人々から救い主のおいでを待ち望む姿勢を学ぶのです。
アドベントには、四本のキャンドルを灯す習わしがあります。アドベントの四本のキャンドルにはそれぞれ名前と意味があります。最初のキャンドルは「預言のキャンドル」で、その意味は「希望」です。次は「天使のキャンドル」で「平和」を意味しています。三本目は「羊飼いのキャンドル」で、喜びを、四本目は「ベツレヘムのキャンドル」で「愛」を意味します。最初のキャンドルが「預言のキャンドル」と呼ばれるのは、私たちの希望が預言、つまり、神の言葉から来るからです。預言のない希望、神の言葉に基づかない希望はたんなる夢、幻、期待に過ぎません。それはすぐに消えてしまいます。イスラエルの人々は、やがて救い主が来ることを信じ、待ち望みましたが、何の根拠もなくそう信じたのではありませんでした。人々は、神からの預言の言葉によって、希望を持ちました。希望の源は預言、すなわち神の言葉です。神の言葉にこそゆるがない希望があります。希望のともしびは神の言葉という蝋を溶かしながら燃え続けるのです。
二、預言
ルカの福音書は救い主がやがて来られるという予告から始まっています。今朝の箇所のすこし前、1章5節からそのことが書かれています。最初に救い主到来の予告を受けたのは祭司ザカリヤでした。ザカリヤが神殿に入って務めをしているとき、彼に天使が現われました。天使は、ザカリヤと妻エリサベツの間に男の子が生まれる。その子は救い主のために道を備える者になると告げました。ザカリヤ夫妻にはいままで子どもが生まれず、妻エリサベツは、もう子どもを産めない年齢に達していました。それでザカリヤは、天使によって告げられた神の言葉をすぐには信じることができませんでした。ザカリヤは神の言葉を信じることができなかったため、子どもが生まれるまで口がきけなくなってしまいました。九ヶ月が過ぎ、エリサベツに男の子が生まれました。ザカリヤは口がきけなかったため、筆談で、その子を「ヨハネ」と名づけるよう指示しました。そのとき、ザカリヤは再び口がきけるようになりました。きょうの聖書はそのときにザカリヤが語ったことばで、「ザカリヤの歌」と呼ばれています。
67節に「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った」とあるように、これは、ザカリヤが救い主の到来と自分の子どもの使命を語った預言の言葉でした。ザカリヤは、もうすぐ救い主が来られる。そして自分の子ヨハネがその先駆者となると、預言しています。救い主が来られるのは、遠い将来ではないのです。自分の子どもが大人になって神に仕えることができるようになる時だと言っています。聖書では、レビ人が神殿で仕えることができるのは25歳から50歳の間と定められています。ですから、救い主が来られるのはあと25年から50年の間だと、その時間も預言されているのです。実際、救い主イエスがザカリヤの子ヨハネからバプテスマを受けたのは、およそ30年してからで、ザカリヤの言葉はみごとに成就しています。それは、この言葉がザカリヤの口を通して語られてはいても、神から出た言葉だったからです。
68-70節にこう書かれています。
主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、イスラエルの人々は、神が「聖なる預言者」を通して与えてくださった預言によって、希望を保ち、救い主を待ち望んできました。人々は、バビロンやペルシャ、シリアやローマという大帝国に踏みにじられ、何の希望も見えない時にも、預言の言葉を聞いて希望を持ち続けたのです。預言の言葉こそ、神を待ち望む人々のよりどころでした。
わたしたちのために救の角を/僕ダビデの家にお立てになった。
古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、
それは、どの時代の信仰者も同じでした。みな、預言の言葉によって力づけられ、立ち上がり、励まされてきました。使徒パウロは、伝道したところ、どこででも困難に出会い、迫害を受けました。コリントの町でもそうでした。そこでは同胞のユダヤ人から迫害を受けましたが、その地に長く留まって伝道しました。それができたのは、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加えるものはない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使徒18:9-10)との、主からの言葉がパウロに与えられたからです。
今日の私たちにも預言の言葉が必要です。特に困難な中を通っている人々には、なおのことです。しかし、それはどこにあるのでしょうか。それは、聖書にあります。聖書は教えています。「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(ペテロ第二1:19)「預言の言葉」とは聖書のみことばのことです。詩篇130:5にも「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」とあります。皆さん、おひとりびとりには、こんなときこのみことばに支えられた、励まされた、導かれたという体験がたくさんあるかと思います。そのような証しを分かち合いましょう。みことばの証しが教会に満ち溢れるなら、どんなに素晴らしいことでしょうか。聖霊によってしるされた神のことばを、自分に与えられた預言として聖霊によって信じる者には、その信仰が変わらない希望を与えるのです。みことばから来る希望がある限り、どんなに暗い時代にも、どんなに困難な出来事の中でも、主を待ち望むことができます。ザカリヤが歌ったように、私たちも、希望の歌を歌うことができるのです。
三、希望
ある人が夢を見ました。その中に四本のアドベント・キャンドルがありました。最初に「平和」のキャンドルが火を灯しました。けれどもしばらくたって言いました。「世の中を見てごらん。みんなが僕をきらって、お互いに傷つけあい、戦いあっている。ああ、僕はもう、火を灯していることはできない。僕は、消えてしまおう。」そう言って、平和のキャンドルは火を消してしまいました。次に「喜び」のキャンドルが火を灯しました。ところがしばらくして言いました。「わたしは、こんなに、本物の喜びを輝かせているのに、だれもわたしを見てくれない。みんな好き勝手なことをして自己満足の喜びにひたっている。わたしも、火を消してしまおう。」喜びのキャンドルも火を消しました。それから「愛」のキャンドルが火を灯しました。しかし、しばらくしてこう言いました。「わたしも、精一杯、人々を暖めようとして燃えてきた。でも、人々はみんな冷たいまま。わたしも、もう燃えていることはできない。静かに消えて行こう。」そういって三本のキャンドルはみな消えてしまいました。真っ暗な部屋で、その人が、悲しくて泣いていると、突然「希望」のキャンドルに火がともりました。希望のキャンドルは言いました。「泣かなくてもいいよ。ぼくに火がともっている限り、ぼくが、平和にも、喜びにも、愛にも、再び火を灯すことができるから。」そして、希望のキャンドルは平和のキャンドルに、それから、喜びのキャンドルに、そして、愛のキャンドルに火をともして行きました。そして部屋は明るく輝いたというのです。
私たちは、あちらこちらで平和が壊され、喜びがかき消され、愛が失われてしまう、暗い時代に生きています。自分の人生からも、ともしびが消えてしまったように感じることも、なんと多いことでしょう。しかし、希望を保ち続けているかぎり、私たちは、平和と、喜びと、愛を取り戻すことができます。それは自分の力で出来ること、することではありません。神の恵みが私たちに希望を、平和を、喜びを、愛を与えるのです。もし、神を知らなければ、希望も、平和も、喜びも、愛も持ち続けることはできません。しかし、神を知る人は希望を知り、希望は必ず平和を、喜びを、愛をもたらすのです。
「夜明け前が一番暗い」と言われます。一番暗いときこそ、じつは、すぐそこに夜明けが来ているときなのです。アドベントの時期には、日の長さがどんどん短くなり、早く暗くなります。しかし、あと四週間のうちに、やがて日の長さが徐々に長くなるときがやってきます。人々はこの季節に、世の光であり、義の太陽であるキリストが来られることを思って、主を待ち望むことを学びました。私たちの人生でも、一番苦しく、つらい時、そのときこそ、光に一番近いということを信じましょう。私たちに必要なのは、神の時を待つ忍耐です。「奇蹟が起こる五分前にやめてはいけない」という言葉があります。あともう少し忍耐すれば、希望を持ち続ければ、ものごとが解決するのに、その僅かな時を忍耐できないために、問題の解決を見ることができない。そんなことがないようにしたいと思います。忍耐と希望は、預言の言葉、神の言葉から来ます。忍耐を失くし、希望を失わないため、預言の言葉をしっかりと握り締めていましょう。神の言葉から来る希望によって、神のみわざを待ち望みましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたはあなたのみことばによって私たちに希望を与え続けておられます。信仰によってそれを受け取る私たちとしてください。私たちは、暗い時代に生きていますが、この暗闇は、夜明け前の暗闇にすぎません。やがて夜明けとなれば、暗闇は瞬く間に消えて行きます。義の太陽であるキリストを待ち望むことを、このアドベントの期間、私たちに、とりわけ、困難な中にあるひとりびとりに、深く教えてください。私たちの栄光の望み、キリストのお名前で祈ります。
12/1/2013