1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
ルカ1:46-55は「マニフィカト」と呼ばれます。ラテン語で “magnificat anima mea Dominum”(「あがめます。私の魂は、主を」)という言葉で始まるからです。ある聖書学者は、「これはオペラのアリアの部分のようだ」といっています。バッハは「マニフィカト」(BWV243)を作曲していますが、それは独唱や合唱の組み合わせで、「マリアの祝日」に歌われます。バッハの「クリスマス・オラトリオ」(BWV248)は、ルカ2章以降を扱っていますが、もし彼がルカ1章から始めていたら、この部分は、マリア役が歌うアリアとなったでしょう。
マリアは、ここで、「あがめます」と言っていますが、どのように、主をあがめたのでしょうか。49-50節に「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます」とあるように、マリアは、主を「力ある方」、「聖なる方」、「あわれみ深い方」としてあがめています。主なる神の「全能」、「聖さ」、そして「あわれみ」を賛美しました。私たちも、その一つひとつがどんなに素晴らしいものかが分かれば、主をあがめないではおれなくなるでしょう。
一、主の全能
まず、「全能の力」ですが、それは自然界に表れています。アメリカには広大な自然が国立公園として保存されており、グランドキャニオンなどを訪れる人の多くは、その壮大な自然に心打たれ、創造者を思い見ると言われています。聖書に、「天は神の栄光を語り告げ/大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1)とあるとおりです。
そして、神の創造のみわざで最も不思議なものは、神がお与えになった「命」でしょう。生き物の誕生ほど神秘に満ちたものはありません。宇宙がどんなに広大であっても、原子の世界がどんなに巧妙なものであっても、命のないものは、命あるものには勝りません。私は、聖書を学びはじめた時、「あなたの御手が私を造り/私を整えてくださいました。/どうか 私に悟らせ/私があなたの仰せを学ぶようにしてください」(詩篇119:73)や「あなたこそ 私の内臓を造り/母の胎の内で私を組み立てられた方です」(詩篇139:13)といった言葉によって、神が私を造られたことを知りました。そして、神が私を造られたのなら、私が生まれたことには意味があり、目的があるのだということが分かったのです。それは、私の信仰への第一歩でした。
私は、バプテスマを受ける人には、どのようにして神を知り、イエス・キリストを信じるようになったかの「証し」を書いてもらってきました。ある人の証しは、こんな言葉で始まっていました。「私が神様を初めて意識したのは、妊娠した時でした。受精卵がどうして一人の完全な人間になるのか、それ以前にどうして私と夫との間に子供が授かったのか、もっとそれ以前にどうして夫と私が出会ったのか。人は、理屈で説明できない時によく〝神業〟といいますが、これらの出来事はまさに私にとっては〝神業〟以外の何ものでもありませんでした。子どもを産むことによって、いのちの与え主である神を見出したというのですが、多くの人が同じような体験をしています。生命の誕生は、私たちに、神の全能の力を示すものです。通常の赤ちゃんの誕生でさえ、そうだとしたら、マリヤの身に起こったこと、処女がみごもり、神の子を生むというのは、もっと大きな神の力を示しています。それは、神の全能の力によらなければ決して起こらないこと、奇跡の中の奇跡です。マリヤが、主を「力ある方」と呼び、「力ある方が私に大きなことをしてくださったからです」と、全能の神をあがめたのは、彼女が、神の全能の力を文字通り「身をもって」体験したからでした。
ラテン語の magnificat から英語の magnify という言葉が生まれました。ですから、「あがめる」というのには、「大きくする」という意味があります。でも、「主を大きくする」といっても、主が小さいお方だから、人間が大きくしてあげなければならないということではありません。主は、偉大なお方、全能のお方です。人間には、知恵や知識が与えられており、それを使って様々なことができます。そのため、人間はおごり高ぶって神を否定したり、神に逆らったりするようになりました。否定し、逆らうまでいかなくても、神を自分たちの生活とは無関係な神話の世界に閉じ込め、神を小さくしてしまっているのです。神を信じる者も、神の全能を信じ切れないで、神の力に制限をかけていることがあるかもしれません。
神をあがめるとは、神の全能の力を制限せずそのままに信じ、神の偉大さをそのままに言い表すことなのです。そして、そのように「力ある神」をあがめるなら、その力を体験できるようになります。私たちは、いろいろ努力しても物事がうまくいかないとき、自分の弱さだけを見て、意気消沈してしまうことが多いのですが、そんなときでも、神を「力ある方」としてあがめましょう。力ある神をあがめる者は、その全能の力で強めていただけるのです。
二、主の聖さ
マリアは次に「その御名は聖なるもの」と言って、主の「聖さ」をほめたたえています。「聖さ」とは、何の汚れもなく純粋であること、どんな罪にも悪にも染まっていないこと、そして、限りある被造物とは区別され、完全であることを意味します。「聖さ」は神が持っておられるご性質の中で、最も基本的なものです。人間の世界にも「正義」や「愛」はありますが、人間の「正義」は決して完全なものではありません。しかし、神の義は完全です。人間の愛には制限があり、移り変わるもので、純粋でないものもあります。しかし、神の愛は違います。いつまでも変わらない、純粋な、「聖なる愛」です。
神の地上での住まいは「聖所」(Holy Place)、神が与えられた書物は「聖書」(The Holy Bible)、神が選ばれた人々は「聖徒」(Saints)と呼ばれます。神を表すのに「聖」という言葉が使われます。まさに「その御名は聖なるもの」、主は「聖なる方」と呼ばれるのにふさわしいお方です。
ですから、神をあがめるとは、この聖なる方の前にへりくだることであると言えるでしょう。預言者イザヤは、6つの翼を持つ天使セラフィムが、2つの翼で顔を覆い、2つで足を覆い、残りの2つで、神の御座の周りを飛びかけているのを見ました。セラフィムは神に最も近いところにいる天使といわれていますが、それでも、神の前では自らを恥じて顔を隠し、足を隠さなければなりませんでした。そして、彼らは「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と叫んで神をあがめていました。
神殿は“Holy Place”(聖所)と呼ばれますが、神殿の中の契約の箱が収められているところは、“Holy” を2つ重ねて、“Holy Holy”(至聖所)と呼ばれました。「より聖い」という意味です。神は、あらゆるものを超えて聖いお方なので、最高の聖さを表すため、“Holy” を3つ重ねて、セラフィムは神を“Holy Holy Holy” と呼んだのです(イザヤ6:1-5)。
この幻を見て、イザヤは、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」と叫びました。罪ある人間は誰も聖なる神の前に立つことができないことを痛感し、神の前にひれ伏し、へりくだっています。私たちの礼拝も、このように、神を聖なるお方として仰ぎ見、あがめるものでありたいと思います。
三、主のあわれみ
マリアはまた、「主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます」と言って、主をあがめました。主は全能のお方ですが、私たちは無力な者です。主は聖なるお方ですが、私たちは罪ある者です。主と私たちとはまったく釣り合いがとれません。釣り合いがとれないどころか、私たちは聖なる神の前で滅んでしまって当然の者でした。
そんな私たちが、罪を赦されるばかりか、主の聖さにあずかって主に近づくことができる。主の全能の力によって強められる。それは、神の「あわれみ」によって、ただあわれみだけによって実現することなのです。「主をあがめる」とは、このあわれみを素直に受け入れ、それに信頼し、それに答えていくことなのです。
マリアは自分を卑しい者と呼びましたが、同時に、主が「目を留め」、「幸いな者」にしてくださった、「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」と言って、「主のあわれみ」をあがめています。主のあわれみが、誰の目にもとまらなかったナザレの村の一人の娘の運命を変え、彼女を母として生まれたお方によって世界を変えたのです。
マリアは、続く51-55節でこう言っています。「主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」ここには、「権力のある者が引き降ろされ、貧しく飢えた者が満ちたり、富む者が無一物になる」という「逆転」の救いが語られています。「あわれみ」というと、温かくはあっても、あまり力のないもののように思われがちですが、「主のあわれみ」は違います。それには世界をひっくり返すほどの力があるのです。
このような「逆転」を「どんでん返し」と言います。一説によると、それは歌舞伎の舞台装置から生まれた言葉だそうです。歌舞伎の舞台が、たとえば、屋内から野外に変えるときは、屋内の背景を「どん」と倒すと、野外の背景が「でん」と現れる仕掛けが使われました。そこから、一瞬の大きな変化が「どんでん返し」と呼ばれるようになったそうです。確かに、イエス・キリストの救いは、そんな救いです。罪びとであった者が神の子どもとされた。霊的に死んでいた者が永遠の命に生かされた。この世に流されていた者が人生に新しい意味と目的を与えられて歩み出した。そんな「逆転」、「どんでん返し」によって私たちは救われたのです。コリント第二5:17に、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とある通りです。
主のあわれみによる「逆転の救い」を最もよく体験したのは、おそらく、パウロでしょう。教会を迫害していた者が、キリストを宣べ伝え、教会を建てあげる使徒となったのですから。パウロはこう言っています。「私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。…『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(テモテ第一1:13-16)パウロは、主のあわれみに答え、自分が受けた主のあわれみを証しするために自分の生涯を献げました。そのために苦しめられ、投獄されても、ひるみませんでした。パウロの強さは、「罪人のかしら」を「キリストの使徒」としてくださった主のあわれみを知る者の強さでした。パウロはこうも言っています。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1:20)ここでの「あがめられる」には、マリアが「あがめます」と言ったのと同じ言葉、“magnify” が使われています。偉大な主をあがめ、主の素晴らしさを証しするのに、私たちの小さいことや、力のないことは問題ではありません。そのような私たちをさえ救い、受け入れてくださった主のあわれみが、私たちの力となるのです。主のあわれみをもっと知り、それによって主をあがめる者となりたい思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、御子の誕生によって、あなたの全能の力、あなたの聖さ、そして、あなたのあわれみを示してくださいました。飼葉桶に寝かされた御子のうちに、それらが現れています。私たちの目を開いて、あなたの力と聖さとあわれみを見ることができるようにしてください。それらによって与えられたあなたの救いを喜び、感謝し、あなたを大いにあがめる者としてください。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/15/2024