逆転の救い

ルカ1:46-55

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1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

 きょうの箇所にあるマリアの祈りは、「マニフィカト」、あるいは「マグニフィカト」と呼ばれます。ラテン語で “magnificat anima mea Dominum”(「あがめます。私の魂は、主を」)という言葉で始まるからです。ここから作られた音楽作品ではバッハの「マニフィカト」(BWV 243)が一番有名です。日本語の讃美歌には「わが心は」というタイトルで讃美歌95と新聖歌67に収められています。どれも美しい曲ですが、曲の美しさだけに心を奪われることなく、そこで歌われている内容を理解して、マリアの祈りを自分の祈りとしたいと思います。

 一、賛美と感謝

 「あがめます」という言葉で始まるように、マリアの祈りは、神をあがめる賛美の祈りでした。祈りには五つの要素があります。「賛美」、「感謝」、「悔い改め」、「願い」、「とりなし」です。そして、祈るときにはこの順序で祈るのが良いと思います。祈りを賛美から始めるのです。

 「賛美」と「感謝」には違いがあります。「感謝」は、神が自分にしてくださったことを思って、神にお礼を言うことです。しかし「賛美」は、自分には感謝できるようなことが何もないと思えても、神であるゆえに、つまり、神があらゆるものの造り主であり、あらゆるものを超えて偉大なお方であるゆえに、神をあがめるということです。様々な不幸や苦しみに見舞われたとしても、神は変わることなく、主権者であり、栄光のうちにおられ、愛と恵みに満ちておられます。自分の状態がたとえどうであっても、神を神として神をほめたたえる、それが「賛美」です。

 このような賛美をした人に、ヨブという人がいました。ヨブは、神を信じる正しい人で、神の祝福を受け、多くの子どもと財産を持ち、人々から尊敬されていました。ところが、その財産が奪われ、子どもたちも皆、亡くなってしまいました。しかし、ヨブはこう言って、神を賛美しました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)「自分にとって感謝なことがあろうがなかろうが、神は常にほめたたえられるべきお方である」という信仰をヨブは持っていました。ヨブはこの後、重い病気にかかり、さらに大きな苦しみに投げ込まれるのですが、神への信仰を保ちました。そして、最後にはかつての祝福を取り戻します。苦しみの中でヨブを支えたのは、ヨブの神を賛美する信仰と、賛美から来る力でした。これは「賛美の力」と呼ばれ、多くの人がその体験を受け、それを語っています。

 マリアは、ヨブのように苦難に遭ったのではなく、むしろ、救い主の母となるという幸いを受けたのですが、それでも、未婚のマリアにとって、神の御子を産むことは、大きなチャレンジでした。そのことを、すぐに、幸いなこと感じることができなかったかもしれません。しかし、マリアは、主を見上げ、主を賛美しました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(46-47節)そして、そのように主を賛美することによって、救い主の母とされたことの幸いを確信し、それを感謝することができるようになりました。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」(48節)と言われている通りです。

 私たちも、祈るときには、まず、神を賛美することから始めましょう。そうすると、不思議なことに、感謝なことがひとつひとつ思い起こされてきます。今朝目覚めることができたこと、今日も神が私を生かしてくださっていること、身体に痛みがあり、手足が弱っていても、この唇が動いて神に祈ることができること、この目で神の造られた世界の美しさを見ることができること、この耳で神の言葉を聞くことができること…。感謝なことが次から次へとも出てくるのです。賛美から感謝が生まれ、希望と忍耐を与えられ、困難を乗り越えていくことができるようになります。これが「賛美の力」です。

 二、力とあわれみ

 「あがめます」(マニフィカト)という言葉は、英語の “magnify” に相当します。拡大鏡のことを “magnifying glass” と言うようにこれには、「大きくする」という意味があります。ですから、「主をあがめる」というのは「主を大きくする」ということです。けれども、それは、主が小さいお方だから、人間が大きくしてあげなければならないということではありません。主以上に偉大なお方はありません。49-50節で、マリアは主がどんなに偉大なお方であるかを語っています。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」

 主は「力あるお方」です。主にはどんな不可能なこともありません。また、主は「聖なるお方」です。神の「聖(きよ)さ」は、人間の正しさや善良さをはるかに超えています。主から見れば、人間の正しさもボロ布のようであり、人間の善良さも利己的で不純なものでしかないのです。

 ですから、主は、人間によって「大きく」してもらう必要などないのです。主はもとから偉大なお方です。ところが、人間は驕り高ぶって、自分を大きくし、神を小さくしてきました。人間はその知恵・知識によって、この世界の成り立ちを知るようになりました。そしてそれを利用して様々なものを作り出してきました。とは言っても人間が知っていることは世界のごく一部であり、できることも僅かなことです。なのに、自分たちは何でもできる、知恵・知識を積み重ねれば、人間は「神になる」と考えるようになりました。しかし、それは、エデンの園で蛇が言った嘘です。偽りです。欺きです。人は、造り主である神を否定することによって、生きる意味や目的を見失い、自分を虚しいものにしてしまいました。

 コインのような小さなものでも、目の上に乗せれば、それで目が塞がれてしまいます。同じように、人間の驕り高ぶりが、人間の目を塞いで、主の偉大なことを見えなくさせています。「主をあがめる」とは、マリアが自らを「この卑しいはしため」と呼んで自分を小さくしたように、主の栄光を妨げないということです。

 マリアは主の偉大な力と、主の聖(きよ)さのゆえに主をあがめましたが、さらに、その「あわれみ」のゆえにも主をあがめています。主が全知・全能のお方であったとしても、聖なるお方でなければ、主は独裁的な暴君のようになってしまいます。また、主が聖なる方であっても、あわれみ深いお方でなければ、私たちは主に対して恐れ、おののくだけで神に近づくことができません。しかし、主は、罪深い者を赦し、小さな私たちをも愛して、祝福してくださる、あわれみの神です。しかも、主の「あわれみ」は気まぐれな、一時的なものではありません。50節に「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」とある通り、主のあわれみは変わることのないものです。

 この神のあわれみのゆえに、小さな私たちも、偉大な神、聖なる主を人々に表すことができるのです。皆さんのスマートフォンについているカメラのレンズは、とても小さいものです。しかし、そんな小さなものでも大空を写すことができ、大自然を捉えることができます。私たちの小ささは、主をあがめ、主を証しするのに妨げにはなりません。むしろ、小さいからこそ、主がご自分を示されるのを妨げずに済むのです。パウロは自分を「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と呼びましたが、同時に、「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める」(ピリピ1:20)と言っています。「すばらしさが現わされる」とあるところには、マリアが「あがめます」と言ったのと同じ言葉 “magnify” が使われています。主は、そのあわれみのゆえに、私たちを通して、ご自分を大きく示してくださるのです。

 三、逆転の救い

 主を賛美し、主の力とあわれみについて語ったマリアは続いて、主の救いについて語ります。51-53節の言葉は、救いの預言です。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」ここで使われている動詞はすべて完了形です。「しました」、「散らしました」、「引き降ろしました」、「引き上げました」、「満ち足らせました」、「追い返されました」という言葉が使われています。将来起こることが預言の言葉が完了形で書かれるのは、それが、神のみこころの中ではすでになされていて、必ず実現することを表すためです。イエスがその救いのみわざを成し遂げられるのは、この時からおよそ30年後のことですが、ここでは、そのことがすでに成されたかのようにして語られています。

 ここには、「高ぶっている者」が追い散らされ、「権力ある者」が王座から引き下ろされ、代わりに、「低い者」が高く引き上げられる、また、「富む者」が無一物になり、「飢えた者」が満たされるとあります。権力の座に座って高ぶっていた者が裁かれ、彼らによって卑しめられ、低められていた人が高められるというのです。この時のユダヤはローマの軍事力に支配され、ローマから税を吸い上げられていました。人々は貧しさにあえいでいました。救い主が来て、ユダヤをローマの権力から解放してくれることを人々は願っていました。ところが、イエスは、この世の権力者でも、富める者でもなく、低く、貧しいお姿でおいでになりました。それによって低い者を高め、貧しい者を満たすためでした。この救い主の身の上に起こった「逆転」は、神の愛による「逆転」です。

 人々は、イエスが自分たちの描いていた政治的、軍事的な救い主でなかったので、イエスをキリストとして、信じ、受け入れませんでした。イエスが罪の赦しや神の国について教えると、イエスから離れて行きました。主であるお方を低め、栄光に富んだお方を貧しい者のように扱いました。さらに、こともあろうか、正しいお方を罪に定め、祝福に満ちたお方をのろいの木、十字架ににかけ、いのちの主を殺したのです。彼らは神の栄光ではなく人間の栄誉を求めました。神の愛に裏切りをもって答えたのです。なんと逆さまなことでしょう。これは、救いに対する、罪による「逆転」です。人々は、罪によって神の救いをひっくり返してしまったのです。

 では、もう救いは無くなってしまったのでしょうか。いいえ、イエスは死を滅ぼし、復活されました。昇天され、もとおられた父なる神のもとに帰られました。そこから、聖霊を注いでくださいました。救いの「逆転」が起こったのです。人間の罪は神の救いをひっくりかえしましたが、イエス・キリストは、さらにそれを逆転して、赦しといのちを私たちにくださったのです。罪人が聖徒にされ、神の国を受け継ぐという逆転の救いを成就してくださったのです。

 マリアが預言した通りのことが成就しました。私たちはそれを目の当たりにしています。この救いは、今、私たちの手の届くところにあります。だれでも、イエス・キリストを信じるなら、たとえ、罪の深い泥沼に沈んでいたとしても、そこから引き上げられ、高められます。神から離れ、虚しさの中に生きていたとしても、救い主によって満たされるのです。この「逆転」の救いを体験していますか。イエス・キリストを信じ、マリアとともに、「あがめます。私の魂は、主を」と、主に向かって、賛美をささげましょう。救われた身の幸いを、心いっぱい、感謝しましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたの救いは逆転の救いです。つらく、苦しい時が続いても、あなたを信じる者に、あなたは、かならず逆転の時を与えてくださいます。たとえこの世で結果を見ることができなくても、天では、それが逆転し、信じる者は栄光に包まれます。そのことを堅く信じ、あなたをあがめます。私たちを通してあなたがあがめられることを願い求めます。そのことを実現してください。主イエスのお名前で祈ります。

12/12/2021