マリアとピラト

ルカ1:46-55

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1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」

 一、歴史的信仰

 使徒信条には、イエス・キリストの他にふたりの人物の名前があります。主の母「マリア」とローマの総督「ポンティオ・ピラト」です。母マリアの名は、「イエス」の御名についで愛されてきましたから、信仰の告白の言葉の中にあっても不思議ではないのですが、「ポンティオ・ピラト」は、イエスを十字架につけた人物の名前です。また、彼の背後には、当時、キリスト者を迫害していたローマ皇帝がいました。にもかかわらず、使徒信条にその名が残されたのはなぜでしょうか。

 それは、イエス・キリストの十字架が、まぎれもない歴史の事実であることを言い表すためでした。聖書が教え、キリスト者が信じている信仰は、「歴史的信仰」と呼ばれます。「歴史的信仰」というのは、神話や伝説、あるいは哲学の理論などではなく、歴史の事実に基づいている信仰という意味です。

 以前、韓国のドラマ「冬のソナタ」が日本で流行したとき、日本から大勢の人がドラマのロケーション撮影が行われた場所を訪ねました。ここで主人公が交通事故に遭ったという道路をバスで通るだけで、皆が感動したのだそうです。でも、それは物語の上でのことであって、実際の出来事ではないのです。日本の熱海には「貫一お宮の像」というのがあります。貫一とお宮は、尾崎紅葉が明治時代に書いた『金色夜叉』の登場人物で実在の人物ではありません。しかもこの銅像は、小説が書かれてからおよそ90年後の1986年に作られたものです。しかし、聖書は小説ではなく、歴史の記録であり、イエス・キリストは実在の人物です。もし、そうでなければ、キリスト者がイスラエルを巡礼するのも「冬のソナタ」のツアーと同じもの、十字架を仰ぐのも、貫一お宮の銅像を眺めに行くのとさして変わらないものとなってしまいます。

 しかし、聖書はイエス・キリストの誕生、生涯、十字架、復活が歴史の事実であることをはっきりと語っています。イエス・キリストの誕生が何月何日であったかは書いてはいませんが、ルカ2:1-2には、「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった」とあって、イエスの生まれた年が紀元前4年であることが分かります。ルカ3:1-2には「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」とあって、バプテスマのヨハネの活動が始まった年が紀元25年であることが分かります。イエスが宣教を始めたのはバプテスマのヨハネの活動が始まってまもなくで、紀元27年のことです。イエスはおよそ3年の宣教活動ののち、過越の祭の時に十字架にかけられましたので、イエスの十字架は紀元30年の春ということになります。イエスは十字架から三日目に復活し、復活から40日して天に帰りました。そして、その後さらに10日して弟子たちに聖霊が降り、エルサレムで教会が始まりました。ピラトがユダヤの総督であったのは紀元26年〜36年の10年間ですから、彼の在任期間はイエスの公の生涯と教会の誕生の時期とぴったり重なっています。

 使徒パウロはコリント第一15:3-5でこう書いています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」パウロは、イエスの十字架と復活が信仰の拠って立つ事実であり、歴史の中で実際に起こったことであると言っています。パウロはもとはユダヤ教の指導者で、新しく起こった教会を迫害していました。彼は非常に博学な人で、理論家でした。彼は自分の持っている知識と論理のすべてを働かせて、「イエスがキリストであるはずがない」という信念を持つようになりました。ところが、復活して生きておられるイエスに出会ったとき、彼の信念は崩れました。キリストが、「聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれ」「葬られ」「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた」という事実の前には、どんな理論も信念も役に立たなかったのです。パウロはイエスと同時代に同じ土地で生きた人でしたから、直接、十字架や復活の事実を確かめることができました。そして、その事実を確かめ、それに基づいて信仰を持ったのです。

 パウロはこうも言っています。「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(コリント第一15:12-14)もし、復活がなければ、イエス・キリストの十字架と復活を信じるキリスト者の信仰は、事実に基づかないものになり、空しいものになると断言しているのです。どんなに「復活があったらいいなぁ」と願ったとしても、「復活があったことにしておこう」と、復活のストーリーを作り上げたとしても、そんなものは人を救わないと言い切っています。もし復活がなければ、なぜ、キリスト者たちは生命を賭けてまでも信仰を守り通したのでしょう。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」(コリント第一15:32)と、生きているうちに楽しみをきわめればよいではないかということになります。

 しかし、事実、十字架で死んだイエスは三日目に復活しました。それはユダヤがローマ帝国の支配下にあり、皇帝ティベリウスがポンティオ・ピラトをユダヤの総督として任命していた期間に起こった歴史上の出来事でした。神は、まさにその時を選んで、歴史の中に、人類を救う御業を成し遂げられたのです。それで、使徒信条は「主は…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と、歴史の事実に基づく信仰を言い表しているのです。私たちは、使徒信条を告白するたびに、神が歴史の中で救いの御業を成し遂げてくださったことを喜び、感謝するのです。

 二、小さい者の救い

 使徒信条は、もうひとり「マリア」の名を挙げています。マリアとピラトはとても対照的です。ピラトは男性、マリアは女性。ピラトはローマ人、マリアはユダヤ人。ピラトは権力者、マリアはナザレの片田舎に住むごく普通の娘でした。ところが、神は、マリアを選んで救い主を世に生みだす者とし、ピラトは救い主を死なせた者となりました。マリアは「恵まれた人」(ルカ1:28)「祝福された者」あるいは「幸いな者」(ルカ1:42、45、48)となりました。ところが一方のピラトは後に、誤って大勢のサマリヤ人を殺害したため、サマリヤの人々から彼の上司、シリア総督に訴えられました。ピラトは皇帝に釈明するためローマに戻りましたが、ティベリウスはすでに亡くなっていて、新しい皇帝カリグラによって流刑に遭い、流刑地で自殺したと伝えられています。力ある者が滅び、力ない者が救われるという「どんでん返し」が起こったのです。

 この「どんでん返し」は「マリアの賛歌」に見事に歌われています。マリアはエリサベツに仕えるため、その家に行きました。年若いマリアから先に年長の叔母に挨拶しました。ところが、エリサベツは、突然、マリアにこう言ったのです。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。」(ルカ1:42-43)エリサベツはマリアを「主の母」と呼び、年若い娘、マリアの下に立ったのです。「どんでん返し」が、もうここに起こっているのです。

 しかし、マリアは、エリサベツから「主の母」と呼ばれても、思い上がるようなことはありませんでした。マリアは神の前にも、エリサベツに対してもへりくだり、神を讃えて、言いました。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(46-48節)「私のたましいは主をあがめ」というところで使われている「あがめる」という言葉には「大きくする」という意味があります。拡大鏡を “magnifying glass” と言いますが、その “magnify” という言葉が使われています。マリアは、神とその栄光を限りなく大きなものとしてあがめているのです。神の栄光が小さいので、大きくしたのではありません。人間はいつも自分を大きく見せようとして神の栄光を小さくしてしまうのですが、マリアは自分を「卑しいはしため」と呼んで、自分を小さくし、神の栄光を、そのとおりに大きくしたのです。事実その通りであるように、神を大きくし、自分を小さくする。ここに神への本当の賛美があります。信仰者の本物の生き方があるのです。

 しかし、マリアは、自分を小さくするだけで終わりませんでした。「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(48節)と言って、神によって与えられた幸い、祝福を素直に喜んでいます。私たちの信仰には、「罪人の私をあわれんでください」と祈るへりくだりとともに、「自分の名が天に書き記されていることを喜び」(ルカ10:20)、御国の世継ぎであることを感謝する(コロサイ1:12)ことも伴っていなければならないのです。

 マリアは神の救いをこう描きました。「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。」(52、53節)神の救いには裁きが伴います。苦しめられている者が救われるためには苦しめている者が裁かれなければならないからです。神は、その民を苦しめている権力者をその座から引き降ろし、苦しめられてきた人々を引き上げてくださいます。神は、富を独占し、貧しい人々から食べ物さえも奪いとっているような裕福な者たちには何も与えずに追い返し、貧しくて飢えている人々をあふれるばかりに満たしてくださる。この「どんでん返し」、これが救いなのです。

 マリアが歌ったこの救いは、のちに、イエスによってそのまま語られています。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタイ5:3-6)永遠の御国は貧しい者に、変わらない慰めは悲しむ者に、この地は柔和な者に、神の正義は、権利を奪われ、不当な苦しみを受け、神の正しい裁きをただひとつの頼りとして求める者に示されるのです。

 イエスはこの「どんでん返し」を実現するために、みずからが貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者となりました。神の子が人となり、聖なる方が罪人となり、いのちの主が、十字架の上で死なれたのです。私は、「主は…マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と唱えるたびに、マリヤに代表される、自分が小さく弱い者であることを認めて神に寄り頼む人々と、ピラトに代表される、自分の力を頼みとし、神に目を向けようとしない人々との比較を見ます。そして、今は、自分の力に頼んで、思いのままに生きている人々が栄えているように見えても、やがて、神を恐れ尊ぶ人々が神の栄光を見る時が来ることを信じて、感謝な思いへ導かれます。

 真の信仰者はこの感謝を持っています。神にすがる者は、自分の力ではどうすることもできなかった問題を神によって解決していただいた体験を持っています。多くの問題は、自分から出ていることなのですが、その自分を変えることができなかった者が、神の力によって変えていただいたという体験を与えられています。「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです」(49節)と言うことができる「証し」を持っています。神は「力ある方」です。このお方の前に、自分の力を誇っても空しいだけです。神の前に驕り高ぶる人は神の大きな力によって低められ、神が「力ある方」であることを身にしみて知るようになるでしょう。しかし、自分の弱さを認め、神の前にへりくだる者は、神が、自分を救い、高め、満たす「力ある方」であることを知り、神をあがめるようになります。

 皆さんが、今、抱えている問題は何でしょうか。自分のどんなところを変えようとして苦しんでいますか。問題が解決せず、自分を変えることができずに、焦るようなことはありませんか。あきらめてしまって、自分の小ささ、弱さに閉じこもっていませんか。神がピラトではなくマリアに目をかけてくださった「力ある方」であることを覚えましょう。力とあわれみに満ちている神が、私たちの小ささにもかかわらず大きな御業を、私たちの弱さにかかわらず力ある御業をなしてくださると信じて、神に拠り頼みましょう。

 (祈り)

 全能の父なる神さま。あなたは、私たちの弱さ、小ささにかかわらず、力強く大きな御業をしてくださいました。「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです」と、自分の幸いを喜び、あなたをあがめます。なおも、私たちに力ある御業をあらわしてください。それによってあなたがどんなに「力ある」お方であるかを証しできるよう導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/24/2019