1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
1:44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
クリスマス・シーズンには「アヴェ・マリア」がよく演奏されます。
Ave Maria, gratia plena,日本語で「アヴェ・マリアの祈り」と呼ばれているものの前半です。これは、ルカ1:28の御使いの言葉、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と、ルカ1:43のエリサベツの言葉、「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」からとられたものです。マリアに対する恵み、祝福を歌ったものです。
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
benedictus fructus ventris tui Jesus.
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
一、主を宿す幸い
きょうは、「マリアの幸い」について考えてみたいのですが、マリアの得た幸いは、第一に、主を宿し、主の母となる「幸い」でした。救い主は「女のすえ」として、誰かを母親として生まれることが聖書に預言されていましたが、マリアはその「母」として選ばれたのです。
また、神は多くの人々のうちからアブラハムを選びその子孫から救い主が生まれると約束されました。しかし、アブラハムとサラの間には子どもがないままで、アブラハムは100歳、サラは90歳になっていました。神は、そんな二人の間に子どもが生まれると御使いによって知らせたのですが、アブラハムもサラも、それを信じることができませんでした。それで、御使いは、ふたりをたしなめて、「主にとって不可能なことがあるだろうか」(創世記18:14)と言いました。
ルカ1:37では、御使いガブリエルもマリアに、「神にとって不可能なことは何もありません」と語っています。それを聞いたとき、マリアはすぐに、それがサラに語られたのと同じ言葉であることを悟ったことでしょう。「不可能なことのない」全能の神がサラにしてくださったのと同じこと、いや、それ以上のことをなさると、マリアは信じたのです。
マタイの福音書にあるイエスの系図には、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とのタイトルがつけられていて、イエスを「アブラハムの子」として紹介しています。しかし、この場合の「アブラハムの子」とは、たんにアブラハムに血筋がつながっているだけでなく、アブラハムの信仰を引き継いでいることを意味しています。アブラハムが信仰によってサラとの間にイサクを得たように、救い主イエスもマリアの信仰を通して、世にお生まれになったのです。マリアは信仰によって救い主を宿しました。
救い主イエスは救いのみわざを成し遂げて天に帰られました。そこから再び来られるときには、ほんらいの栄光の姿でおいでになります。もう一度、人となって地上に生まれることはありません。イエスのご降誕は一度限りの出来事です。ですから、二人目、三人目の「マリア」はないのです。「主の母」と呼ばれる栄誉は、「ナザレのマリア」にだけ与えられたものです。それで、マリアに対する尊敬の思いから、「アヴェ・マリアの祈り」が生まれたのでしょう。
たしかに、救い主をその胎内に宿したのはマリア一人です。けれども。イエス・キリストを信じる者も、じつは、霊とたましいのうちにイエス・キリストを宿しているのです。イエス・キリストが、すべて信じる者のうちに、聖霊によって宿っておられることは、次のような聖書の箇所で教えられています。「それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。」(コリント第二13:5)「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。」(エペソ3:17)
胎児は母親から養われますが、信仰者は、自分のうちにおられるキリストの命によって、生かされ、養われるのです。その意味では信じる私たちも、主を宿し、主が共におられる幸いを受けているのです。
二、へりくだる者の幸い
マリアに与えられた幸いの2つ目は、へりくだる者に与えられる「幸い」です。マリアは、御使いから「救い主の母となる」と告げられても、決して有頂天にはなりませんでした。むしろ、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言って、へりくだっています。エリサベツから「主の母」と呼ばれても、決しておごりませんでした。エリサベツの言葉に対して「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです」(ルカ1:46-48)と答えています。マリアは、自分を「はしため」と呼んで、へりくだり、神に仕え、人に仕えています。
そもそも、マリアがエリサベツのところに向かったのは、エリサベツに仕えるためでした。「受胎告知」の中で、エリサベツの妊娠を知ったマリアは、叔母のエリサベツのことを心配し、何かをして助けたいと願いました。ほんとうは自分の妊娠のことを心配しなければならない立場なのに、彼女の心は自分のことよりも、叔母のことを心配しました。そのことにマリアの「へりくだり」が表れています。へりくだりとは、謙遜ぶってみせることではありません。ほんとうのへりくだりとは、マリアのように、自分のことよりも他の人を優先することにあるのです。
イエスは主であるのに、常に「しもべ」として行動されました。父なる神と等しい方であるのに、「神のしもべ」となり、服従の道を歩まれました。罪人のしもべとさえなって、ご自分の命を十字架の上で献げられました。そのイエスが、自らを「はしため」と呼んで、神にも人にも仕える心を持ったマリアを母に選ばれたことは、不思議でもあり、納得のいくことでもあります。
そして、神は、へりくだる人を祝福してくださいます。マリアは、エリサベツの家に着いたときエリサベツにあいさつしたとありますが、それは、若い娘が年長の叔母に対してする丁寧なあいさつだったと思います。ところがマリアは、エリサベツから、「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう」という、まったく期待もしなかった言葉を聞きました。マリアは、エリサベツを通して、御使いから聞いた「受胎告知」が確かなものであることを知ることができました。それは、マリアに確信を与え、励ますものとなりました。エリサベツを手伝おうとしてやってきたマリアでしたが、霊的にはエリサベツから助けられ、「主の母」となる備えをすることができたのです。へりくだる者には、このような祝福が与えられるのです。
今日、芸能人やスポーツ選手などが、あまりにも、もてはやされるようになり、誰もがスポットライトの当たる場所に立ちたいと願うようになりました。大勢の人が「見て、見て、私を見て」と叫んでいます。神の働きをする人たちの一部にも、残念ながら、そうした人がいます。しかし、そういう人は神の働きには向かないのです。イエスは私たちに「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタイ5:16)と言われました。イエスから与えられた光を隠してはいけません。けれども、人々の前で光を輝かせることと自分を見せびらかすこととは違います。人に見せようとして何かをするのではなく、人が見ていようが見ていまいが、そんなことに無関係に善い行いに励む。それが、世の光として輝くことです。神は、そのように、心からへりくだった人を喜び、用い、祝福してくださいます。
三、御言葉に従う幸い
神がマリアにお与えになった幸いの3つ目は、「御言葉に従う幸い」です。エリサベツはマリアに言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(ルカ1:45)マリアが「主の母」となるのにふさわしい優れた女性であったことは確かですが、マリアに匹敵するような女性は他にもいたでしょう。しかし、救い主が世に来られるのは、ルカ2:1-2にあるように、ローマに皇帝アウグストゥスが立ち、ユダヤがシリア総督キリニウスによって治められていた時と定められていました。その時、ダビデの末裔であったヨセフのいいなづけであったのがマリアでした。マリアは、神の一方的な選びによって、「主の母」となるよう定められていたのです。「主の母」となることは、マリアが自分の力でたぐり寄せたものではなく、神の選びによるものでした。
神は主権者で、すべてのことを思い通りになさることができます。しかし、神の選びは有無を言わせず人を従わせるものではありません。神は「愛」のお方であり、人にも自由意志をお与えになった方です。神は主権者でありながら、ご自分が人に与えた自由意志を最大限に尊重されます。多くの学者たちが神の主権と人間の自由意志の関係について論じてきましたが、それは、神秘であって、天に行くまでは解決できないでしょう。けれども、地上にあっても、私たちが確かに言えることは、神の選びは決して人を苦しめるものではなく、人を救う恵みであること、そして、それは私たちに信仰の応答を求めているということです。
マリアは、御使いから神の言葉を聞き、それを理解し、信じ、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言って神の選びに答えました。マリアにとって神の言葉を「聞くこと」と「信じること」は同じことでした。そして「信じること」と「従うこと」も同じことでした。神の言葉を聞くだけで信じない、「信じる」と口では言っても従わない。それはほんとうの信仰ではありません。ヤコブは、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」(ヤコブ1:22)と教えています。なぜかというと、御言葉が私たちを救うものとなるのは、私たちがそれを信じ、受け入れること、つまり、実行することによってだからです。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)と教えられている通りです。
御言葉に従い、御言葉を実行することは、ユダヤの人たちが神の言葉を規則や命令として受け取り、「自分はそれを守っているだろうか」、「従っているだろうか」、「実行しているだろうか」と、いつもピリピリし、怯えながら生活していたようなものとは違います。ヤコブ1:21に「みことばを素直に受け入れなさい」とあるように、御言葉の約束を喜び、それに信頼することです。マリアは、そうした素直さを持っていました。「神にとって不可能なことは何もありません」との言葉の通り、マリアは「神には出来る」(“God can do it.”)と信じましたが、そればかりでなく、「主によって語られたことは必ず実現する」と信じました。つまり、「神はしてくださる」(“God will do it for me.”)と信じたのです。マリアのような素直さ、また、「主は、お出来になり、そうしてくださる」と信じる信仰の幸いは、誰もが持つことができる幸いです。このアドベントに「アヴェ・マリア」を耳にするとき、また、「受胎告知」や「エリサベツ訪問」を思うとき、御言葉に従う幸いを祈り求めたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちの救いと幸いのために愛と恵みをもって事を進めてくださっており、あなたのみこころを御言葉によって、私たちに明らかにしてくださいます。私たちを、あなたの愛と真実を信じ受け入れ、恵みの御言葉に従う者としてください。生活の様々な場面で、あなたの選びに、へりくだった素直な心で答えることができますよう、助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/8/2024