喜びを歌う

ルカ1:39-45

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1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 クリスマスが近づくと、「アヴェ・マリア」の曲が、あちらこちらで聞かれるようになります。モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームス、グノー、ヴェルディなど、著名な作曲家が、それぞれの「アヴェ・マリア」を作曲しています。「アヴェ・マリア」の歌詞は、「受胎告知」のときの御使いの言葉、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ1:28)と、「エリサベツ訪問」のときのエリサベツの言葉、「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」(ルカ1:42)とを組み合わせて作られています。「アヴェ・マリア」はラテン語で歌われることが多いのですが、日本語では、「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています」となります。

 中世には、この「アヴェ・マリア」に、マリアが御使いに答えた言葉と、ヨハネ1:14が加えられ、「お告げの祈り」(アンジェラスの祈り)というものが作られました。次のように祈ります。

主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神の御子を宿された。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架をとおして、復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 一、受胎告知

 ルカの福音書は、マリアが神の御子を宿したことから書き始めています。福音の中心は十字架と復活ですが、テモテ第二2:8に「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とあるように、救いの御業はイエス・キリストの誕生から始まりました。神の御子が人となって世に来られなければ、そのあとに続く、十字架の贖いも、復活による救いもありません。ですから、使徒信条は、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ…」と言っているのです。救いの御業が、御子が処女の胎内にやどられたことから始まったと言っているのです。そして、使徒信条が、わざわざ「マリア」の名を記しているのは、神が、全人類、全世界の救いのために「人」を用いられることを教えています。神は、人をお救いになるのに、人と無関係なところでそれを実現されませんでした。救いの御業は天で行われたのでなく、地上で行われたのです。神の御子が人となり、人類の歴史の中に入ってこられ、私たちと同じように人生の苦しみを味わい、それによって人を救われたことを言い表しています。

 クリスマスの9ヶ月前御使いがマリアに現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ1:28)と言いました。「アヴェ・マリア」の「アヴェ」は、御使いが言った「おめでとう」をラテン語で言い換えたものです。英語では“Hail” で、「挨拶します」、「歓迎します」、「称賛します」という意味です。「アヴェ・マリア」の歌では、母マリアに対する尊敬や敬愛を表す意味で使われていますが、もとのギリシャ語では「喜べ」という言葉が使われています。御使いはマリアに「喜べ」と言ったのです。御使いはマリアに、「あなたは神から選ばれ、神の御子を産み、救い主の母になる」と告げましたが、それはあまりにも、大きなことで、マリアには理解できないことでした。しかも、突然のことで、「喜べ」と言われても、すぐには喜べるものではありませんでした。けれども、マリアは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って、神の言葉を受け入れました。

 二、エリサベツ訪問

 御使いが告げた言葉を受け入れたマリアでしたが、彼女はまだ年若く、未婚のでしたから、「これからどうなるのだろう」という不安が、きっとあったと思います。それで神は、彼女を祭司ザカリアの妻で、叔母にあたるエリサベツのところに導きました。エリサベツには長い間子どもが与えられず、高齢になって妊娠し、6ヶ月を迎えていました。マリアはエリサベツの身の周りの世話をするために、エリサベツを訪ねたのです。

 当時のユダヤの社会では、年下の者は、年上の人に、しもべやはしためのようにして仕えました。40節に「そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした」とありますが、エリサベツはマリアよりうんと年長でしたから、たとえ、親戚とはいえ、ていねいにおじぎをして、「叔母様のお世話をするためにまいりました。何なりとお申し付けください」などと言ったことでしょう。

 ところが、エリサベツの返事は、マリアが考えてもいないものでした。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。」(42-43節)エリサベツがマリアを敬っているのです。これは、御使いがマリアに告げたことを裏打ちするものでした。マリアは、エリサベツの言葉によって、自分が神の御子をやどしていることを確信することができたことと思います。マリアは、こののち、エリサベツのところに3ヶ月滞在しますが、その期間にも、エリサベツから多くのことを聞き、「主の母」となる備えをしていったのだと思います。

 私たちは、一人ひとりが神の前に立ち、神の言葉を聞かなければなりません。けれども、日常生活の中で御言葉に従っていくためには、やはり、他の信仰者との交わりが必要です。御言葉が生活の中でどのように働いたかを聞き、また語り合うことによって、より一層、御言葉を理解し、また、御言葉を実行することができるようになります。今では、電話やメールなどがありますから、身近な人とだけでなく、遠く離れた人とも語り合うことができますが、共に集まるときに信仰の交わりをするることは、誰にも必要なことです。

 エリサベツはさらに、こう言いました。「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。」(44節)ザカリヤとエリサベツの子は、やがて「バプテスマのヨハネ」と呼ばれ、イエスが救い主として活動を始める準備をする人となります。そのヨハネと、イエスとが、互いに胎児のときに出会っているというのは、不思議な神の取り計らいです。マリアがエリサベツを訪ねたことは、マリアが自分の使命を確認するのに必要だっただけでなく、エリサベツが、わが子に与えられた使命を確認するためにも必要なことだったのです。

 エリサベツは、マリアに言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(45節)これは、マリアが御使いの言葉を聞いたとき、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、神の言葉を信じたことをさしています。この時、エリサベツは、御使いが現れたことや、御使いが告げたことを何ひとつ聞いていません。しかし、聖霊に示され、マリアの信仰の本質を見抜いて、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と言ったのです。「新改訳二版」だけが、ここを「信じきった」と訳しているのは、動詞の「完了形」が使われているからでしょう。これは、マリアが、いったん信じたことに堅く立ち、その信仰にとどまっていることを言い表しています。私たちも、神の言葉をただ聞く、読む、よく理解して受け入れるだけでなく、そこに立つ、つまり、「信じきる」ことが大切です。そのとき、神の言葉は私たちの内に働くものとなるでしょう。

 「主の母」と呼ばれる幸いは、マリアにだけ与えられた幸いです。他の女性には、この特権は与えられていません。しかし、マリアと同じように、「主によって語られたことは必ず実現する」と信じる幸い、そして、主の言葉が実現するのを見る幸いは、男性であっても、女性であっても、誰にでも与えられます。神が、ご自分の御子を遣わし、この世界を救うために、人を用いられたのなら、その救いのメッセージを、より多くの人に知らせ、証しするために、私たちを用いてくださらないはずがありません。神がマリアを選び、用いてくださったのは、マリアに特別な力があったからではありません。彼女は、ナザレの村でも、あまり目立たない女性だったかもしれません。しかし、彼女は、御使いが言った「神にとって不可能なことは一つもありません」(37節)との言葉を信じました。人間の力ではなく、神の全能を信じたのです。マリアは、その信仰のゆえに神に用いられたのです。

 神は、ひとりの女性を通して世に救い主を遣わすことを預言しておられました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)や、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(イザヤ7:14)などの神の言葉は、マリアにより、マリアを母として生まれたイエスによって実現したのです。救いを成し遂げるのは神です。しかし、神は、救われる側の人間を無視して一方的にものごとをなさるのではありません。特別な、不思議なしかたで人をご自分の救いのご計画の中に組み込んでおられます。そして、神が、そのために私たちに求められるのは、信仰です。神の言葉は、私たちの信仰を通して実現し、神が私たちに求めておられる信仰は、神の言葉が実現すると信じる信仰です。

 そして、この信仰から「喜び」が生まれます。パウロは、神の言葉を信じ、受け入れることから来る「喜び」について、こう言っています。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました」(テサロニケ第一1:6)と言いました。ペテロも同じように、信仰による喜びを、こう書いています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(ペテロ第一1:8)と言っています。目に見えるものだけに頼っていると、失望し、喜びを失くしてしまいます。しかし、神の言葉を信じ、神の言葉に満たされるなら、たましいに喜びが湧いてきます。

 以前奉仕した教会で、今はもう亡くなられましたが、よく主に仕え、また、人にも仕えていたひとりの姉妹がいました。彼女は、何かあると、そばにいる女性の肩をたたいて「恵まれた女よ、おめでとう」と言って、他の姉妹を励ましていました。そう言われた人も、それを喜んでいました。自分が主から恵まれている、祝福を受けている。そのことを自覚し、確信し、それを喜ぶことは、とても大切なことです。天使がマリアに「おめでとう(喜べ)、恵まれた方」と語った言葉は、今も、私たちに語られているのです。御言葉、信仰、そして、喜び。このクリスマスに、この三つのものが結びつき、一つとなるのを体験したいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、片田舎に住む一人の若い女性を、あなたの御子の母として選ばれました。彼女は、あなたのお力がすべてを為し、あなたのお言葉に現れた真実が必ず実現すると信じました。彼女は、信仰によって、あなたの救いの計画に参加しました。私たちも、精一杯の信仰をあなたに捧げます。それを祝福し、受け入れ、用いてください。私たちを信仰の喜びで満たしてください。主イエスの御名で祈ります。

12/11/2022