全能の神

ルカ1:37

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神にとって不可能なことは、一つもありません。

 「神にとって不可能なことは、一つもありません。」このことばは、神が全能の神であることを教えています。神は何でもお出来になる。これは、神に対する信仰の出発点です。詩篇に「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)とあります。神が全能の神であることを信じることができなければ、私たちは拠り所を失ってしまいます。信頼を置くことのできる確かな拠り所なしに、私たちは新しい年に向かっていくことができません。「神にとって不可能なことは、一つもありません。」この出発点に立って、一年をはじめましょう。

 神が全能のお方であることは、神の創造のわざと救いのわざの両方に示されています。今朝、このふたつのことを考えながら、全能の神への信仰を養われたいと思います。

 一、創造と神の全能

 「神にとって不可能なことは、一つもありません。」このことばは第一に、神の創造のみわざに現われた神の全能を教えています。この広大な宇宙 とそこにある仕組みを見るとき、誰もが、神を感じ、また、神の全能を納得することができるでしょう。詩篇19:1に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とあるとおりです。

 しかし、神の創造のみわざは、大宇宙の中にだけ現われているのではありません。大宇宙から見れば、まるで塵や埃にもすぎないような小さな地球ですが、神は、この地球を、他のどの星にもない命の星にしてくださいました。そして、神は人間をそこに住まわせてくださいました。詩篇8:3-4には「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」とあるように、人は、自分を取り囲んでいる自然や大宇宙だけでなく、自分を見るときも、人をこんなに素晴らしく造ってくださった神の全能の力を見るのです。

 実際、多くの人が、赤ちゃんの誕生の時に神の創造のみわざを感じると言っています。多くの人の出産に立ちあい、赤ちゃんの誕生を見慣れているはずの医師や看護師でさえ、毎回、生命の誕生に神秘を感じているということを聞きました。ある姉妹が、信仰に導かれたのも、生命の誕生の中に神を感じたからでした。彼女はその「あかし」の中で、こんなふうに書いています。

 私が神様を初めて意識したのは、妊娠した時でした。受精卵がどうして「一人の完全な人間」になるのか、それ以前にどうして私と夫との間に子供が授かったのか、もっとそれ以前にどうして夫と私が出会ったのか。

人は、理屈で説明できない時によく「神業」といいますが、これらの出来事はまさに私にとっては「神業」以外の何ものでもありませんでした。でもその時は、どんな神様がこんな偉大なことをなさったのか知りませんでした。ただ、無事に子どもが生まれたことを感謝していました。

 ある時、詩篇139篇の「それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。」というところを読んだ時、「これだ!」と思ったのです。それはまさに「奇しい」という感覚でした。
このことばの通り、多くの人が神が自分を造ってくださったということを発見することによって、神を見出し、自分を見出してきました。

 「神にとって不可能なことは、一つもありません。」天使が母マリヤに語ったこのことばもまた、赤ちゃんの誕生と神の創造のみわざに関係があります。赤ちゃんの誕生は、それだけでも奇跡的なことなのですが、母マリヤが男性なしで子どもをみごもるというのは、全くの奇跡です。神が全能であり、生命の与え主でなければそんなことはできません。

 これと同じようなことが、実は、イエスのお誕生から二千年前にありました。それはアブラハムの子、イサクの誕生の時です。アブラハムは、彼の子孫によって世界が祝福されるとと約束された人でした。しかし、アブラハムと妻サラの間には子どもがありませんでした。しかも、ブラハムは百歳、サラは九十歳にもなっていました。二人の間に子どもが生まれる可能性はありませんでした。しかし、神はアブラハムとサラに「来年、サラには男の子ができている」と言われました。それを聞いたサラは心の中で笑って、そのことばを否定したのです。それで神はこう言われました。「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」(創世記18:9-15)

 「神にとって不可能なことは、一つもありません。」マリヤに語られたこのことばは、アブラハムとサラに語られたことば、「主に不可能なことがあろうか。」と、とても似ています。表現が似ているだけでなく、両方とも、子どもが生まれることに関してであり、全能の神とそのことばに対する信仰を求めているという点で、内容的にも似ています。アブラハムは神のことばに対して不信仰になっており、サラも、それを笑いました。 しかし、ふたりは、もういちど信仰を持ち直しました。ローマ4:19-21にこう書かれています。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」アブラハムとサラは全能の神を信じ、そのことばに信頼したのです。

 母マリヤは思慮深い女性でしたから、「神にとって不可能なことは、一つもありません」とのことばを聞いたとき、「主に不可能なことがあろうか」という創世記18:14にあることばを思い起こしたかもしれません。サラは心の中で笑って、神のことばを否定しましたが、マリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言って、神のことばを受け入れました。当時、ユダヤの男性は「アブラハムの子」であることを誇りにし、女性は「サラの娘」であることを誉れにしていました。しかし、マリヤはサラが持った以上の信仰を持ちました。マリヤはサラを超え、新約時代の私たちの信仰の母となったと言ってよいと思います。

 私たちは神の造られた世界に生きており、神の創造のみわざに取り囲まれています。自分自身も神につくられた神の作品であり、自分自身が神の創造のみわざの証人なのです。ですから、神の全能を忘れず、全能の神への信仰を養い育てていきたいと思います。

 二、救いと神の全能

 「神にとって不可能なことは、一つもありません。」このことばは、第二に神の救いのわざに現われた神の全能を教えています。アブラハムとサラにとって、ひとり子イサクの誕生は世界の祝福にかかわる大きな出来事でした。神のひとり子イエスの誕生は、それ以上のもの、世界の救いにかかわることでした。ひとりの男の子の誕生の中に、神の創造のみわざとともに、神の救いのみわざが現われているのです。

 世界の創造が神の全能の力なしにはできないことは、誰もが理解できるでしょう。しかし、世界の救いが世界の創造以上に神の全能の力を必要としていることを多くの人は忘れています。人間は善良で、信仰深く、ほんの少しの努力すれば、誰もが救いに到達できるのだと考えている人が多くいます。しかし、聖書はそれとは逆のことを言っています。使徒パウロはローマ人への手紙で、旧約聖書を引用してこう言っています。

「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(以下略)
(ローマ3:10-18)
このようなことばの最後に「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(ローマ3:23)と言っています。

 確かに人は神の作品ですが、同時に神に背を向けて、自分のうちにある神のかたちを傷つけ、壊し、みずからを欠陥品にしてしまいました。欠陥品として処分される運命にあった者がもう一度神に受け入れられるというのは、たやすいことではありません。人間が、ふたたび神のかたちを取り戻すためには、神による再創造のみわざが必要です。正義の神は人間の罪を見逃すことはできず、聖なる神は汚れた者を受け入れることはできません。ですから、罪ある人間が、その罪を赦され、その罪からきよめられるためには、世界の創造以上の大きな奇跡が必要なのです。そして、神は、そのことを、その全能の力によって成し遂げてくださいました。それがイエス・キリストの十字架であり、復活なのです。

 イエス・キリストは私たちの救いのために必要なことをすべて、果たしてくださいました。私たちはただ信仰によってその救いを受け取るだけで良いのです。そんな意味では救いの門は誰にも開かれた大きな門です。そこに至る道は本当は、誰もが歩くことのできる広い道です。しかし、なお、人の心の中にはたましいの救いを求めるよりも、この世的な満足を求める思いがあって、それが信仰を妨げます。悔い改めて神のあわれみを請わなければならないほど落ちぶれてはいないという高慢が頭をもたげて来ることもあります。神に頼るよりも、自分に頼り、まわりの人々に頼り、財産や持ち物に頼るということもあるでしょう。ですから、主イエスは、「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ-14)と言われたのです。救いの門は、へりくだって、膝をかがめ、頭を垂れて入る人には十分大きいのですが、そうでない人には小さいのでしょう。信仰の道は右や左にそれることなく、まっすぐに神に向かう人には十分広いのですが、そうでない人には、すぐに道を踏み外してしまうほど狭いのかもしれません。

 マタイ19章に、ある金持ちの青年が「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」とイエスに尋ねたのに、期待した答えではなかったため、イエスのもとから去っていったということが書かれています。この人も、救いの小さい門を通り、信仰の狭い道を歩くことができなかった人のひとりでした。そのときイエスはこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」それを聞いた弟子たちが思わず驚きの声をあげました。「それでは、だれが救われることができのでしょう。」弟子たちはきっと「イエスさま。あなたはこの世界を救うために来られ、その救いを伝えるために、私たちを選ばれたではないのですか。もし、人が救われるというがそんなに難しいのなら、あなたは私たちに不可能なことを命じられたのですか」と言いたかったのでしょう。しかし、イエスは、その弟子たちを見つめて言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)私たちは主が言われた「神にはどんなことでもできます」とのことばに信頼します。そして、神の救いをいただき、それを人にもあかしするのです。「神にとって不可能なことは、一つもありません。」このことばは、主イエスが言われた「神にはどんなことでもできます」と同じことを言っています。全能の神の救いのみわざが私たちを救うのです。

 このクリスマスにとても嬉しいメールが日本から来ました。以前、日本で奉仕していた教会で、そのメンバーのお母さんが、クリスマスにバプテスマを受けたという知らせでした。彼女にはふたりの子どもがいます。女の子ひとり、男の子ひとりです。姉が最初に教会に来て信仰を持ちました。姉に導かれて弟も信仰を持ちました。姉は結婚して家を出ましたが、弟は同じ教会のメンバーと結婚し、家を継ぎました。すると、キリスト教に大反対の父親が「子どもたちがクリスチャンになり、クリスチャンの嫁までもらうようになったのは母親が悪いからだ」と包丁を振り回して、母親を殺し、自分も死ぬと言い出しました。しかし、その後、父親も信仰に心を開き、イエスを信じて天に召されていきました。そして、母親もまた、洗礼に導かれたのです。因習が根深く残っている日本の地方でもこうして、一家が救われていくということが、今、起こっています。「神にとって不可能なことは、一つもありません。」このことばが真実であることを改めて感じています。

 さきほど引用したローマ人の手紙は人間を責めることばだけで終わっていません。もしそうなら絶望です。聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」の後に「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23-24)と教えています。「神の恵みが神の全能の手を動かした」と教えているのです。ここに、私たちの希望があります。私たち、お互いには、去年「できなかったこと」が数多くあったかもしれません。しかし、あきらめずに願い求めるなら、神はこの年、神はそれをできるようにしてくださいます。この年、神は私たちにどんな恵みをくださり、どんな大きなことをしてくださるでしょうか。「神にとって不可能なことは、一つもありません。」この年、このみことばが真実であることを数多く体験させていただこうではありませんか。

 (祈り)

 全能の父なる神さま、私たちは、あなたを信じます。あなたの全能のお力がこの世界を造ったこと、この世界を支えていること、そして、この世界を救うことを信じます。この年の初めに、全能のあなたを信じる信仰をさらに確かなものとしてください。起こり来ることがらに、あなたとあなたのおことばへの信頼をもって対処できますよう、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/1/2012