1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
ルカの福音書には、母マリアしか知らないことがいくつも書かれていますが、その一つが、ルカ1:26-38の「受胎告知」の箇所でしょう。ルカは、これをマリアから聞き取って書いたと思われます。これにかぎらず、ルカの福音書には、母マリアの目から見たイエスの姿が多く描かれています。今年のアドベントとクリスマスには、私たちも母マリアの目を通して、イエスとイエスの救いを想い見、また、マリアの信仰からも学びたいと思います。
一、マリアの探求
ルカ1:26-38は、三つの部分に分けることができ、最初は26-29節です。そこにはこうあります。「さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。御使いは入って来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」
天使はいつも、突然現れます。ですから、マリアは天使の現れに驚いたことでしょう。「御使いは入って来ると」とありますから、天使が現れたのは、マリアが自分の家にいたときだったことが分かります。それが、一日のうちのいつごろだったのか、そのときマリアは何をしていたのか、他に家族がいたのか、聖書は何も語っていません。けれども、マリアは、そのとき、おそらく、神を想い祈っていたと思います。天使の努めは神の言葉を伝えることで、神の言葉は、たいていは、祈りの中で聞き取るものだからです。
天使の挨拶は、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」でした。「おめでとう」は、もとの言葉では「喜べ」です。日本では、女性が産婦人科を受診して、妊娠が分かると「おめでとうございます」と言われるそうですが、この挨拶には、そんな意味が込められています。「主があなたとともにおられます」というのも、挨拶の言葉のひとつです。“Good bye” は、もとは “God be with you”、「神がともにおられますように」との祈りで、それが縮まったものです。ですが、ここでの天使の言葉、「主があなたとともにおられます」は、霊的な意味で、主がマリアと共におられるというだけでなく、主が、マリアの胎内に、胎児となって宿り、ともにおられるということを告げているのです。
この挨拶に、マリアは「ひどく戸惑った」とあります。しかし、このときマリアは、驚き、慌て、取り乱しはしませんでした。「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」とあるように、天使によって語られた神の言葉を落ち着いて「考え込んで」います。ここでの「考え込む」は、もとの言葉で διαλογίζομαι(ディアロギゾマイ)と言い、ものごとを論理的に見ることを意味します。天使の「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」という挨拶は、どちらか言えば感情を伝える言葉ですが、マリアは、感情で受け止めるだけでなく、その意味を理性でも理解しようとしました。神が語りかけておられることを、少しももらさず理解しようとした。そして、神は、真理を求める者に、それを知る知恵と知識を与えてくださいます。箴言2:1-6にこうあります。「わが子よ。もしあなたが私のことばを受け入れ、/私の命令をあなたのうちに蓄え、あなたの耳を知恵に傾け、/心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りに呼びかけ、/英知に向かって声をあげ、銀のように、これを探し、/隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、/神を知ることを見出すようになる。主が知恵を与え、/御口から知識と英知が出るからだ。」神の言葉を理解したい、その意味を知りたいというマリアの熱心な探究心に私たちも見習いたいと思います。
二、マリアの使命
次は、30-34節です。天使ガブリエルは、マリアの求める心に応じて、神がマリアを通してしようとしておられることを明らかにしました。天使は、マリアに「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます」と言いましたが、これは、創世記3:15の預言に「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」とある預言ように、救い主は、天使のように突然現れるのではなく、アダムから何世代もの後に、その子孫として生まれ世に来られ、マリアは、「女のすえ」と呼ばれている救い主の母となることを告げています。
多くの画家が「受胎告知」を描いていますが、1435年に、フラ・アンジェリコが描いたものには、その背景にアダムとエバのエデンの園からの追放されている姿が描かれてます。人はみなアダムの子として罪を持って生まれます。しかし、マリアを通して生まれるお方は、罪のない聖なるお方であり、私たちを罪から救ってくださいます。アダムにあって罪を犯し神から離れた人類を、「女のすえ」である救い主は「第二のアダム」となって神に立ち返らせてくださる。「受胎告知」はそうした神の救いの第一歩なのです。
御使いは、「また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」とも言いました。それは、ダビデの子孫から救い主が生まれるとの預言を指しています。マリアは、すでにヨセフと結婚するよう決められていましたが、ヨセフは、ガリラヤで大工を生業にしていても、じつは、ダビデ王の子孫で、世が世であれば、王宮にいるべき人でした。ですから、マリアは、天使の言葉を聞いて、神が自分を選んで、救い主を世に送ろうとしておられることを悟ることができました。
けれども、マリアには、まだ理解できないことがありました。それは、天使の言葉によれば、救い主として生まれる男の子は、ヨセフとマリアとの間に生まれる子どもではなく、神によって生まれる特別な存在であるということです。ヨセフとマリアとの間に生まれた子どもであっても、その子は「女から生まれた者」という条件や「ダビデの子孫」という条件は満たします。しかし、人間の両親から生まれた者は、誰であっても、皆、アダムとエバに遡り、その罪を引き継ぎ、背負っています。人を罪から救うためには、救い主は「人」でなければなりませんが、同時に神でなければなりません。人は誰も、自分の力で自分を救うことはできません。ただ神だけが人を救うことができます。ですから、マリアから生まれる子は、マリアの子であり、同時に神の子でなければならないのです。それは、「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というイザヤ7:14の預言が意味していることなのですが、このときのマリアにはそれを理解できませんでした。それで、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」と言ったのです。
けれども、これは、マリヤが救い主の母になることを拒否した不信仰な言葉ではありません。素朴な質問です。マリヤに、神のことばを受け入れる心があったからこそ出てきた疑問です。「疑問」(question)と「疑い」(doubt)とは違います。「疑い」とは神が正しいお方であり、私たちを愛しておられることを信じないことであり、それは神のご人格を否定することです。しかし「疑問」は、神のみこころを知りたいと願う思いから出たものです。私たちは、神のなさることのすべてを、すぐには知ることも、理解することもできません。聖書を学べば学ぶほど、疑問や質問が増えてくるかもしれません。そうした疑問にすべての答えを得てから神を信じるというのなら、誰も信仰を持つことができなくなるでしょう。「私には分からなくても、神は知っていてくださる。今は理解できなくても、後には知るようになる。」そう信じ、神に信頼するところに信仰があるのです。疑問は信仰を妨げません。神に答えを求め続け、答えを得、信仰を増し加えていただきましょう。
三、マリアの献身
天使とマリアとのやりとりの第三の部分、35-38節で、天使はマリアに「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」と言って、マリアが聖霊によって身ごもることを告げました。聖書では、マリアは、「処女」であるのに「主の母」です。使徒信条にも「主は、処女マリアより生まれ」とあります。処女であり、同時に母であることは相容れないことですが、それは、神にとって不可能なことではありません。天使は「神にとって不可能なことは何もありません」とマリアに教えましたが、それは、言い換えれば、神は「全能」であるということです。旧約時代、神は、イスラエルの父祖たちに、ご自分を「全能の神」(エル・シャダイ)として現してこられました。ユダヤの人々は、今も、聖書の言葉(申命記6:4)を書いたものを小さな筒に入れ、それを家や事務所の出入り口に斜めに取り付けます。出入りするたびにそれに触れ、神を覚えるためです。それは、メズーザーと呼ばれますが、そこには、ヘブライ語の「שׁ」(シン)という文字が刻まれています。これは「シャダイ(全能者)」の頭文字です。私たちも、使徒信条で「我は全能の父なる神を信ず」と告白します。人間の力には限りがあります。その上、罪のために、その能力に一層の制限がかかっています。しかし、神にはどんな制限もありません。人は、たとえ限られた存在、無力な者であったとしても、全能の神を信じるとき、その力が自分の内に働くことを体験できるのです。マリアは全能の神を信じ、「不可能のない神」に自分を委ねました。
結婚前に妊娠することは、誰にとってもそうですが、マリアにとっては大きなリスクでした。天使が現れ、自分にそう告げたと、両親やヨセフに語ったところで、誰がそれを信じてくれるでしょう。ヨセフから離縁され、ユダヤの社会から追放され、悪くすれば、石打ちにされて命を落としかねないのです。それなのに、マリアは、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言って、神の言葉を受け入れました。自分に与えられた使命を果たすと、コミットメントを示しました。ここにマリアの献身があります。「献身」は、「身を献げる」と書きますが、マリアは文字通り「身を献げた」のです。
しかも、それは、悲壮な決意ではなく、天使が「よろこべ」と言ったことに対して、「はい、喜んでお受けします」と答えるものでした。天使が「恵まれた女(ひと)よ」と呼びかけた言葉に応えて、マリアは自分に与えられた恵みを感謝しています。そして、「主はあなたと共に」との言葉の通り、主が共にいて、これからのすべてを導いてくださると信じました。ほんとうの献身とは、いやいやながら神に従うことでも、歯をくいしばって我慢しながら奉仕することでもないのです。
確かに、献身の道は、厳しい道でしょう。しかし、そこには喜びがあり、感謝があり、満足があります。ヘブル12:2には「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」と、イエスが十字架の苦難の中でも「喜び」を失くしておられなかったことを教えています。使徒パウロも、ピリピ2:17で「たとえ私が、…注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます」と言っています。母マリアにもそれと同じ「喜び」がありました。マリアは、神の御子が人となられ全人類を救われるという、とてつもない大きなことのために用いられようとしていたのですが、彼女自身は、始めての出産を体験する若い女性が、子どもを授かった喜びで一杯になるように、素直な心で、神の言葉に従いました。私たちも、それに倣いたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは聖書の預言を成就するため、処女マリアを選び、彼女を通して、私たちに救い主を与えてくださいました。「受胎告知」に表されているあなたの真実、恵み、そして全能の力こそ、私たちの救いの基礎です。母マリアが、あなたの選びと使命とを受け入れたように、私たちも、喜びをもって受け入れ、あなた仕えることができるよう助け、導いてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/1/2024