11:39 あなたがたが食用として飼っている動物の一つが死んだとき、その死体に触れる者は夕方まで汚れる。
11:40 その死体のいくらかでも食べる者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。
11:41 また、地に群生するものはみな忌むべきもので、食べてはならない。
11:42 地に群生するもののうち、腹ではうもの、また四つ足で歩くもの、あるいは多くの足のあるもの、これらのどれもあなたがたは食べてはならない。それらは忌むべきものである。
11:43 あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。
11:44 わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。
11:45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」
聖書が教えている四つの大切なことについて、先週からお話をはじめました。四つのことというのは、「キリストが私たちを新しく生まれ変わらせてくださること」「きよめてくださること」「いやしてくださること」、そして「私たちの救いを完成するために再び来てくださること」です。これは「四重の福音」で「新生」「聖化」「神癒」「再臨」と言われてきたことです。
一、新生の結果
先週は、霊的な生まれ変わり、「新生」についてお話ししました。私たちが神に受け入れられるためには、新しく生まれ変わる必要があることを学びました。この生まれ変わりは、教育や道徳、修業や良い行いによって自分を変えることとは違います。生まれつきの私たちはどんなに自分を磨いたとしても、その性質を変えることはできません。黒い石を磨いても白くはなりません。黒光りするだけです。ある衛生状態が悪い村に、公衆衛生の指導員がやってきて言いました。「皆さん、家を隅々まできれいに掃除しましょう。とくに床は水をかけて磨きましょう。」すると村の人が「そんなことしたら、家が泥だけになってしまう。おれたちの家はみんな土間ばかりだから。」と言ったそうです。土の床に水をかけて掃除すれば泥になってしまうように、生まれつきのままの性質は、いくら鍛錬しても、神に受け入れられるものにはならないのです。人はみな、生まれ変わりが必要なのです。そしてキリストを信じるなら、神の力によって、生まれ変わることができるのです。
では、キリストを信じて生まれ変わったなら、どうなるのでしょうか。生まれ変わった人は、少なくても、三つの新しいものを神から受けます。「新しい立場」「新しい身分」そして「新しい性質」です。まず、「新しい立場」ですが、これは罪が赦され、神の前に正しいものとされることです。私たちは神の目にはみな罪人であり、神の前に立場を持たないものでした。しかし、罪のないキリストが私たちの罪を引き受け、あの十字架で身代わりとなってくださいました。ですから、生まれ変わった人には、キリストが勝ち取ってくださた罪の赦しが与えられ、神の前に立つ立場が与えられるのです。
次に「新しい身分」ですが、これは神の子としての身分のことを言います。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と聖書にあるように、私たちは、かっては罪の奴隷でした。しかし、生まれ変わる時には、神の子として生まれるのです。キリストを信じる者は神の力によって生まれ、神に愛され、神のものとされ、神の国を受け継ぐのです。ローマ8:15に「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」とあります。「アバ」というのはヘブルの言葉で、小さいこどもが父親を呼ぶ時に使うことば、"Daddy" とか「おとうちゃん」という意味です。生まれ変わった人は、神の前に立場を持ち、神に近づくことができるばかりか、"Daddy" と呼んで、神に甘えることさえ許されているのです。
生まれ変わった者は、さらに「新しい性質」を持ちます。立場や身分はどちらかといえば、私たちの外側のものですが、「性質」というのはは私たちの内側のものです。キリストを信じる者は、その内面、その性質まで新しくされるのです。罪とは、神に逆らって生きること、罪の奴隷になってしまうことだけでなく、私たちの人間性をむしばむものでもあるのです。聖書は、罪をさまざまな面から描いていますが、罪は私たちの人格の中にひそむ腐敗性であると言い、それを「汚れ」という言葉で表わしています。ですから、神に敵対していたものが、神の民になるという立場の変化、罪の奴隷から神の子となるという身分の変化ばかりでなく、汚れた者がきよめられ、新しい性質が与えられるということで、はじめて、罪からの救いが成就するのです。神の生まれ変わりの力、新生の恵みは、私たちに新しい立場、新しい身分を与えるだけでなく、新しい性質をも与えるのです。
二、新生と聖化
「新生」に続く、「聖化」のみわざは、新生によって与えられた新しい性質に深くかかわっています。「聖化」あるいは「きよめ」というのは、私たちに与えられたこの新しい性質が成長していくことです。それが「きよめ」といわれるのは、新しい性質が成長していくにつれて、私たちが、罪の腐敗性から救われ、よりきよくなっていくからです。私たちは、新生の恵みによって罪を赦され、聖化の恵みによって罪の力に打ち勝ちます。新生の恵みによって神の子とされ、聖化の恵みによって神の子らしくなっていくのです。もし、聖化の恵みが無かったら、私たちは罪赦されても、また同じ罪を繰り返し犯すようになるでしょう。いままで盗みをしていた人が悔い改めてキリストを信じても、あいかわらず盗みを繰り返していたら、いったいキリストの救いとは何なのだろう、信仰とはなんなのだろうということになります。生まれ変わった人も、生まれ変わっていない人も同じように、罪を犯すのなら、いったいどのようにして罪の赦しをあかしすることができるのでしょうか。神の子どもとされても、あいかわらず不誠実な者や乱暴な者、あるいは怠け者であったら、どのようにして神の真実や愛、力を示すことができるのというのでしょうか。もし、聖化の恵みがなかったら、神は、私たちをこの世界に産み落として、あとは知らん顔をしておられるということになってしまいます。もちろん、神は、そのようなお方ではありません。聖書は言っています。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103:13)「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:14)神は、ご自分が産んだ者を決して見捨てることはありません。神は、新生の恵みによって始めてくださったことを、聖化の恵みによって継続してくださるのです。
ここで、注意していただきたいのは、新生があってはじめて聖化があるということです。新生は霊的な誕生、聖化は霊的な成長なのですから、生まれ変わりがあって、はじめて生まれ変わった新しい性質の成長がそれに続くのです。誕生がなくて成長があるはずはありません。あたりまえといえばあたりまえなのですが、私たちは、時々、このあたりまえのことを見落としてしまうことがあります。「私が罪に負けず、きよい人間になれたら、神は罪を赦してくださるだろう。すこしは、神の子どもらしいふるまいができるようになったら、神の子にしていただけるだろう。」と考えている人が、案外多いように思います。また、「私がいつも罪に負けているので、神はその罪を赦してはくださらないのではないだろうか。私はすこしも神の子らしくなっていかないから、私は神の子として愛される資格はないのではないだろうか。」といつも不安を持っている人も多くいます。真面目な人ほど、そのように考えるのですが、こう考える人は、新生と聖化の順序を間違えているように思います。きよめられたら罪が赦され、神の子らしくなってはじめて神の子とされるというのなら、それは「成長してから誕生する」というのと同じようなものではないでしょうか。そうではなく、誕生してから成長するのです。生まれたばかりの赤ちゃんに、さあ、立って歩きなさい、自分でトイレに行きなさい、お料理をして食べなさいなどという親はどこにもいません。赤ちゃんは、何もできなくても親から愛され、受け入れられています。父親や母親にそっくりの顔立ちで生まれてくる赤ちゃんもいますが、「誰に似たんだろうね。」という赤ちゃんもいます。私も、子供のころ、兄弟と似ていなくて、「おまえは橋の下から拾われてきたんだ。」と言われ、からかわれたことがあります。私も、半分はそれを信じていた時がありました。ところが、年齢を重ねるにつれて、みんなから私は一番上の兄にそっくりだと言われるようになりました。娘がひとりで日本に行ったとき、その兄を見て、「どうして、お父さんが日本にいるの?」と思ったほどだったそうです。赤ちゃんは時が来れば、歩けるようになり、そして親に似るようになるのです。きよめられたから救われるのでなく、救われたからきよめられるのです。救いはきよめにもとづいているのでなく、きよめが救いにもとづいているのです。キリストによって罪が赦され、神の子とされ、新しく生まれ変わった、この新生の恵みをしっかり信じ、そこに立つ時、私たちは、そこからきよめの道を歩み出すことができるのです。
三、聖化と信仰
新生はきよめの出発点です。では、ここから出発してきよめに進むにはどうしたら良いのでしょうか。まず第一に、私たちは、神が私たちにきよくあることを望んでおられるということを知りましょう。ギリシャ人は「賢くあれ、汝おのれを知れ」と、知恵を求め、ローマ人は「強くあれ、自らを鍛えよ」と、力を求め、教育家は「知識をたくわえよ、可能性を引き出せ」と知識を求めるでしょう。また、心理学者は「確信を持て、自分の心を満たせ」と心理的な安定を求めるでしょう。しかし、神は、神の民にきよさを求められます。神は、エジプトから導き出してご自分の民としたイスラエルに、「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ11:45)と言われました。「強くなれ、大きくなれ」とは言われませんでした。神を信じる者たちにはさまざまな性質が求められることでしょうが、神の民にとっていちばん大切なものは、きよさなのです。神を信じない社会では、世の中で成功するためには、少々汚いことにも手を染めなければならない、「きよさ」などというものは、邪魔になると考えられてます。「愛」や「親切」、「忍耐」や「寛容」といった徳目は喜ばれますが、「きよい」ことは煙たがられます。しかし、神が、神の民に求めておられる第一のことは「きよさ」です。聖さがなければ、どんなに知恵があり、力があっても神に喜ばれることはなく、ほんとうの意味で人生の成功者になることはできません。聖書は「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、誰も主を見ることができません。」(ヘブル12:14)と教えています。
現代は福音が水増しされたり、曲げられたりしていて、教会で「新生の恵み」が語られなくなってきましたが、「聖化の恵み」はもっと語られなくなりました。それはある特定の教派の特殊な教えであるかのように思われています。しかし、きよめは、すべてのクリスチャンに対するはっきりした聖書の教えです。使徒ペテロは、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」(ぺテロ第一1:15-16)と教えています。ペテロは使徒だったわけですから「『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてある。」とわざわざ旧約聖書を引用しなくても、使徒としての権威を用いて「あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」と言い切るだけで良かったのかもしれません。しかし、ぺテロは、聖書を引用することによって、このことがどんなに重要で普遍的であるかを教えようとしたのです。私は、ぺテロがこのように聖書を使ってきよめを教えていることに感謝しています。きよめは、特定の教派の教えではなく、旧約と新約を一貫した聖書の教えであることを確信することができるからです。
聖書は「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(テサロニケ第一4:3)と教えています。私たちはよく「みこころを知らせてください。」と祈りますが、聖書は「きよくあること」がみこころであるとはっきり教えているのです。
第二に、自分を神にささげ、従いましょう。きよめは神のわざ、キリストのわざ、聖霊のわざです。しかし、神は、「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。」と命じておられます。私たちは神にきよめていただくのですが、それは私たちが何もしなくても知らない間にきよめられていくということではありません。私たちも「きよめてください。」と自分を神に差し出すのです。
きよめられることを、病気から回復することにたとえてみましょう。病気の時は食欲がなくなります。しかし、食欲が無いからと言って食べないでいると、もっと身体が弱くなります。そこで、医者は様々な手当てをして、少しはものが食べられるようにしてくれます。それで、私たちも努力して食事をとるようになります。すると、身体が少しづつですが、強くなって、さらに食事が進むようになるのです。食事ができるようになったら、適度な運動ができるようになります。運動をすると食欲が増し、食欲が増すと身体が強くなり、身体が強くなればさらに運動の量をふやすことができます。こうして、良い循環が生まれ、健康を取りもどすことができるのです。医者の治療方針に患者が信頼して、それに従う時、病気は直っていきます。医者は、病気を治療する時、患者がなすべきことを計算にいれて治療を施し、患者に指示を与えます。偉大な医者である神も、聖化のみわざの中に、私たちがなすべきことをちゃんと組み込んでいてくださり、私たちのなすべきことを聖書の中に教えてくださっているのです。
今年の新年聖会で、キム先生は、「神は私たちに仕えてくださった。キリストは私たちのために死んでくださった。今度は私たちが神に仕える番、今度は私たちがキリストにあって死ぬ番である。」とお話してくださいました。「私のために死んでくださったキリスト」を信じること、ここから信仰がはじまります。しかし、信仰は「私はキリストとともに死んだものである」ことを認めて、自分を神にささげていくことに進まなければならないのです。「私のためのキリスト」ばかりでなく、「キリストための私」に目覚め、自分をささげていく時、私たちはきよめに進むことができます。
第三に、きよめのゴールを見失わないことです。神は言われました。「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」きよめは、罪から離れることですが、単にあのこと、このことをしないという消極的なものではありません。また、クリスチャンらしくなるとか、誰か立派なクリスチャンに見習うということでもありません。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」とあるように、私たちのゴールは神に似たものになることです。最初の人間が神のかたちにつくられたように、神のかたちを失っていた私たちは、きよめによって再び神のかたちを取りもどすのです。もっと具体的に言えば、キリストのようになるということです。キリストは、私たちのために人となって、見えない神を表わしてくださったお方であり、キリストこそ「神のかたち」だからです。なにがしかの知識を身につけたからきよめられたとか、これだけの奉仕をしたからきよめられたなどと、ゴールを低いところに置くべきではありません。きよめは知識でも活動でもありません。キリストに根ざし、キリストに結ばれ、キリストのいのちに生かされることです。
エペソ2:10に「私たちは神の作品」であるとあります。ある牧師が「私たちは製品ではない。神の作品、神のマスターピースである。」と言っていますがその通りですね。彫刻家がその作品を展示するまぎわまで、あちらにかんなをかけ、こちらをやすりで削り、完璧なものにしあげていくように、神も、私たちがより神のかたちに近づくために、あるときは、祝福の中で、ある時は試練の中で私たちを練り上げ、形作ってくださるのです。神は、それを私たちの生涯を通してなし続けてくださいます。神がもう手を加える必要がない人など地上に誰一人いません。生涯を通して、神の聖化のみわざの中に、育てられ、形作られていくのです。ひまわりの花がいつも太陽の方向を向くように、私たちの信仰も、私たちの神を、私たちの主キリストにしっかりと向かっていましょう。神を見つめ、キリストから目を離さない信仰によって、私たちはきよめられるのです。
(祈り)
「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」聖なる神さま、私たちがきよめられることが、あなたの変わらないみこころであることを今朝、学ぶことができました。あなたのこのみこころをもっと深く知り、よりあなたのきよめにあずかるため、自らをささげていく私たちとしてください。私たちのため「義と聖めと贖いとになられた」イエス・キリストの御名によって祈ります。
1/19/2003