私と私の家は

ヨシュア記24:14-15

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24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。
24:15 主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」

 きょうの箇所の15節に「私と私の家は主に仕える」とあります。多くのクリスチャン・ホームでは、この言葉を刻んだ木彫りの板や、ポスターなどを飾って、信仰を証ししています。これは、ヨシュアが110歳で世を去る前に、イスラエルの今後を託した長老たちや人々に語ったもので、「私が世を去っても、主から離れてはいけない。あなたたちは、主を信じ、主に従い、主に仕え続けなさい」と人々に勧めたのです。

 ヨシュアがこのように言ったのは、ヨシュアの死後、人々が主に仕えることをやめ、主から離れていくことを予感していたからでした。ヨシュア記24:31には「ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは主に仕えた」とあって、やがて人々が主から離れていくことが暗示されています。それで、ヨシュアは「主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい」(15節)と言ったのです。15節の言葉は、信仰とは、選ぶこと、「選択」であることを教えています。私たちは、無意識のうちにも、一瞬一瞬多くの事柄の中から一つを選びとってそれを実行しています。人生は選択で成り立っています。そして、何を選ぶかによって、人生は大きく変わります。とくに信仰の選択においてはそうです。きょうは、ヨシュアの言葉から、信仰の選択についてご一緒に学びましょう。

 一、選択と結果

 まず、選択には結果が伴うことを覚えておきましょう。

 私たちに選択が許されているのは、神が人に自由を与えておられることを意味しています。神は、人を強制的に神に従わせることがお出来になります。けれども、それでは、信仰が、自発的なものでなくなってしまいます。神は、人が機械的に神に従うのでなく、自分の意志で神に従うように願われ、人に選択の自由をお与えになりました。ですから、人には、神を信じる選択もできれば、信じない選択もできるのです。信じるか信じないかは自由です。しかし、選んだ結果は自由にはなりません。

 たとえば、二つの飲み物があって、一つには苦いけれど病気を治す薬が入っており、もう一つは甘いけれど死に至らせるものが入っているとします。薬を選んだ人はそれによって病気が直ります。しかし、毒を選んだ人は死んでしまいます。選択は自由にできても、その結果は変えることはできません。人は選択の結果を引き受けなければなりません。愚かな選択をすれば惨めな結果が待っており、賢明な選択をすれば良い結果を得られるのです。

 神は、神に従う者に祝福を約束し、神に逆らう者にのろいを宣告されました。神は、モーセを通して、イスラエルの人々がカナンの地に入ったら、そこにあるゲリジム山とエバル山で祝福とのろいを宣言するように命じておられました。ヨシュアは、エリコの町とアイの町を攻略したあと、エバル山に祭壇を築いて全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも、すべて読み上げました。それから、イスラエルの12部族を半分にわけ、一方をゲリジム山に、もう一方をエバル山に立たせました。そして、ゲリジム山に立つ人々は神に従う者が受ける祝福を、エバル山に立つ人々はのろいを宣言しました(ヨシュア記8:30-35)。神は、私たちが神に従う信仰の選択をし、祝福を手にするよう願い、このことを命じられたのです。愛の神は、決して、ご自分から進んで人をのろわれるのではありません。人は、祝福の源である神を信じないことによって、その結果を引き受けているのです。

 重要な選択をするとき、誰もが、その選択によるベネフィットとリスクを考えます。仕事を選ぶとき、サラリーは高いがストレスが多い仕事もあれば、サラリーは低くても、自分がやりたいことができ、時間的にも余裕がある仕事もあります。選ぶときに悩むかもしれませんが、それを選んだ結果を考えてを考えて選びます。慎重に選んでも、予想通り、期待した通りの結果になるとは限りません。この世のことでは、「あの時、あんな選択をするのではなかった」、「別の道を選んでおけばよかった」などと、あとになって悔やむことがよくありますが、神を信じることを選んで後悔することは決してありません。信じる者には、たとえ一時的な試練があっても必ず祝福がやってきます。信じる者は祝福される。それは、真実な神の変わらない約束です。

 神は、私たちが神を信じることができるためのあらゆる物を備えておられます。神が造られたこの世界は私たちに造り主である神の知恵と力、また、いつくしみを昼も夜も語り伝えています。神が導いてこられた歴史は、神の救いの計画を明らかにしています。神の救いはイスラエルの歴史を通して預言され、イエスのご生涯と十字架、復活によって成就され、教会によって宣べ伝えられてきました。私たちの良心はそれを消さないかぎり、神を求める叫び声をあげています。私たちには聖書があり、もし、聖書が難しいと思うなら、それを解き明かす人々も与えられているのです。神は、さまざまな出来事や、身の周りの人々、聖書の言葉を通して、「信じ、従う道を、祝福への道を選びなさい」と、私たちを絶えず信仰へと招いてくださっています。その招きに答え、信仰を選びましょう、そして、神からの祝福を受けとりましょう。

 二、選択と選び

 次に、私たちが神を選ぶ以前に、神が私たちを選んでおられることを心にとめましょう。

 ヨシュアは、24章の告別の言葉を、イスラエルの歴史から始めています。主なる神は、アブラハムを選びカナンの地に導き、祝福されました。その子孫はエジプトで奴隷となって苦しめられましたが、神はエジプトを罰し、奴隷の民を救い出して神の民とされました。行く手を阻む者たちから、ご自分の民を守り、ついにカナンの地に導き入れ、カナンの王たちを追い払い、その地をイスラエルにお与えになりました。そして、神はこう言われました。「わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。」(ヨシュア記24:13)イスラエルの人々は、神に選ばれ、愛され、導かれ、その愛の選びのゆえにカナンの地を受け継いだのです。

 ヨシュアは、「あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい」と言いましたが、同時に、イスラエルの人々が神を選ぶ以前に、神がイスラエルを選んでいてくださったと言っているのです。神が今までイスラエルにしてくださった力あるわざ、恵みの数々を聞かされて、なお、誰が、主なる神以外の神々を選ぶことができるでしょうか。アブラハムの父テラがユーフラテス川の向こうから持ってきた神々、エジプトで慣れ親しんだ神々、カナンの地で崇められている神々のどれも、イスラエルが体験した力あるわざを行うことはできません。ただ主なる神だけができました。神はイスラエルのためにそのことをしてくださいました。

 申命記32:10-12は、主なる神がイスラエルを救い、守り、導かれたことを次のような美しい言葉で書いています。「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。」主お一人がイスラエルを選び、愛し、導かれ、先祖に誓われたとおりに約束の地を与えられたことを述べています。主に選ばれた者が主への信仰を選ぶのは当然のことです。

 イエスは十二弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」(ヨハネ15:16)と言われました。これは、使徒たちへの特別な任命の言葉ですが、同時に、イエスを信じるすべての人への言葉でもあると思います。私たちがイエスを信じる選択をする前に、じつは、イエスが私たちを選んでいてくださった。私がイエスに「救ってください」と言って手を差し伸ばしたので、イエスも救いの手を差し伸ばしてくださったというのでなく、私が求める前からイエスが救いの手を差し伸べていてくださった。私は、イエスが握ってくださった救いの手を、信仰によって握り返したのです。神の「選び」は信仰を持つまでは理解できませんが、救われたのち、それがどんなに恵み深いことかが分かるようになります。神が、その愛で、恵みで、私を選んでおられるのですから、私たちも、神への信仰を選び、それによって神の選びにお答えしましょう。

 三、選択と勇気

 最後に、信仰の選択には勇気が必要なことを覚えておきましょう。

 私たちは、「皆がそうしているから」というので、他の人と同じ選択をすることが多いと思います。どうしても、周りから影響を受けるのです。自分の意見をはっきり持っていないので、周りに合わせる場合もあれば、自分の考えがあっても、自分だけが違ったことをするのが恥ずかしいからというので皆と同じことをしてしまうこともあるでしょう。それが、重要なことでなく、自分さえ納得できれば周りに同調しても問題はないでしょう。けれども、信仰の事柄の場合、周りに影響され、神から離れることがあれば、それは危険なことです。

 ヨシュアは、イスラエルが約束の地に入る前、モーセからその地の偵察に派遣された12名のうちの1人でした。12名のうち10名までもが、カナンの地を悪くいいふらしました。「その地の町々は堅い城壁で囲まれ、兵士たちは背が高くて強く、そんなところに行ったらたちまち滅ぼされてしまう」などと言い立てていました。けれどもヨシュアとカレブは、多数の意見に同調せず、「主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。…主が私たちとともにおられるのだ」と言って、信仰に立って人々を励ましました。ほとんどすべての人が、「エジプトに帰ろう」などと言っている中で、ヨシュアは信仰を曲げませんでした。信仰に基づいた選択を変えませんでした。「私と私の家は主に仕える」との信仰の姿勢をヨシュアは、若いときから晩年になるまで保ち続けたのです。

 日本の代表的な伝道者だった羽鳥明先生が亡くられて、今年で8年になりますが、先生が神学校の授業で話してくださったことを思い起こします。先生が信仰に導かれたのは、旧制中学校4年生、今の高校1年生のときでした。戦前のことで、学校で軍事教練があり、教官が、さんざんキリスト教を攻撃したあとで、「お前たちの中に、まさか、ヤソなどはおらんだろうな」と言いました。そのとき、同級生の舟喜順一が立ち上がって、自分がクリスチャンであることを言い表しました。羽鳥明先生はその勇気に打たれ、信仰を求めるようになったのです。その時代でも、教会は活動を許されていましたが、クリスチャンは冷たい目で見られていました。そんな中で、周りに同調しなかった同級生の証しが用いられたのです。

 信仰によって建てられた国であるアメリカでも、信仰のことを口にすると物笑いにされたり、あからさまな嫌がらせを受けるような時代になってしまいました。私たちは、そんな中でも、いや、そんな中だからこそ、信仰を選びとりながら歩みたいと思います。ヨシュアが、他の人がどうあれ、「私と私の家は主に仕える」と言い切った勇気をいただいて、私たちも神に信頼し、従い、仕える道を歩み続けたいと思います。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは、私たちを愛をもって選んでくださり、祝福の道へと導いておられます。そのことを知り、信じた私たちが、勇気をもって、あなたへの信仰を常に選ぶことができるよう、私たちを励まし、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/19/2025