主はあなたとともに

ヨシュア記1:7-9

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1:7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」

 日本語礼拝では、2022年から、「年間聖句」を決めてきました。2022年は、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」(詩篇23:1)、2023年は、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け」(詩篇46:1)、昨年、2024年は、「曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2:15-16)でした。今年、2025年は、「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから」(ヨシュア1:9)です。

 一、ヨシュアの恐れ

 イスラエルの人々は、モーセに導かれ、エジプトを脱出し、先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブが生活した「カナン」の地を目前にする場所までやってきました。ヨシュアはモーセの後継者として選ばれ、人々を先祖たちの地に導き入れなければなりませんでした。神はヨシュアに「恐れるな」、「おののくな」と言われましたが、それは、ヨシュアを「恐れさせるもの」や、「おののかせるもの」があったからです。

 英語の聖書では、「恐れる」は "be frightened" と訳されています。これは、日常では「びっくりする」といった意味で使われますが、ここでは、何者かによって「脅かされる」といった意味合いで使われています。また、「おののく」は "be dismayed" と訳されています。これも、日常使われる「がっかりする」といった意味ではなく、「意気消沈する」、「絶望する」、「勇気を失う」といった意味で使われています。

 ヨシュアが恐れ、おののいたことの一つは、カナンの地でのこれからの戦いでした。ヨシュアは、今までも、イスラエルが約束の地に向かうのを妨害した他民族と戦い、勝利を得てきました。しかし、これからの戦いは、今までのように自分たちを守るための戦い、防戦の戦いではなく、すでに、その地域を支配している王たちを滅ぼし、堅固な城壁に囲まれた町々を奪い取っていく、攻撃の戦いです。それは、ヨシュアにも、イスラエルの人々にもまったく経験のないもので、ヨシュアが恐れたのはそのことでした。

 私たちも、未経験なことうや未知なことについて、恐れを持ちます。やったこともない仕事を任せられたり、まったく知らないことに取り組まなければならなかったとき、皆さんも、「どうしよう。こんなことはとてもできない」と言って、おじけてしまい、自分の力を発揮できなかったことがありませんでしたか。恐れやおののきは、私たちから力を奪うのです。

 また、たとえ、過去に経験があっても、その経験が苦いもの、いやなものであったら、大きな失敗をしたものだったら、「二度と同じいやな目にあいたくない」、「また失敗するに決まっている」などといった思いが先に立ち、しりごみしてしまうことでしょう。渋々、投げやりな気持ちでやったとしても、同じ失敗を繰り返すことになるでしょう。

 ヨシュアは過去に、苦い経験をしています。モーセは、イスラエルの人々がこれから受け継ぐことになる「カナン」の地に、イスラエルの各部族から部族の長を1人づつ選び、その地を探らせました。ヨシュアもその1人でした。イスラエルの人々は、調査隊から良い報告を聞いて、勇気百倍、約束の地に進むはずでした。ところが、その地について良い報告をしたのは、ヨシュアとカレブの2人だけで、あとの10名は口をそろえて、「その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見た。…あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い」などと言って人々の心をくじいたのです。人々を恐れ、おののかせたのは、イスラエルの敵ではなく、イスラエルの族長たちだったのです。そのため、彼らは約束の地に入れず、40年も荒野で待機しなければならなくなりました。

 40年前、ヨシュアは、偵察隊の1人でしたが、今は、イスラエルの指導者となり、偵察隊を派遣する立場になりました。実際、ヨシュアは最初に攻めることになるエリコの町に、2人の斥候を送るのですが、彼らの報告によっては、40年前と同じことが起こるかもしれません。約束の地を目前にしながら、そこから一歩も先に進めなくなるかもしれないのです。ヨシュアには、まだ体験したことのない戦いに加え、イスラエルの人々が再び不信仰や不従順にならないかとの恐れがあったのです。

 二、ヨシュアへの励まし

 それで神は、ヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」と語り、励ましを与えられたのです。これは、「恐れてはならない。強くあれ」、「おののいてはならない。雄々しくあれ」と順序を入れ替えて読むと分かりやすいかもしれません。

 「恐れてはならない。強くあれ」は、誰からも脅かされてはならない。自分に与えられたものを守りなさい」ということです。2023年の年間聖句は、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け」でしたが、そのあとに、「それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも」との言葉が続いています(詩篇46:1-2)。「神はわれらの…力、…そこにある強き助け」とあるように、「力」も「強さ」も神から来るのです。そのことを信じるとき、私たちは強くなれ、どんな脅かしにもふりまわされなくなるのです。

 「おののいてはならない。雄々しくあれ」は、心くじけてはならない、あきらめてはならない。希望を持ち、勇気をとりもどしなさいということです。「雄々しくあれ」というと、男性に対してだけ言われているように聞こえますが、これは、「男らしくあれ」ということではなく、英語で "Be courageous" と訳されているように、「勇気を出せ」、「勇敢であれ」ということです。「勇気」や「勇敢さ」は、男性だけに必要なものではありません。聖書でその信仰がたたえられている女性の多くは、そうした勇気を持っていました。

 パウロが「わが子」と呼んで育てた弟子テモテは、パウロの代理者として各地に遣わされ、どこに行っても忠実に奉仕を果たしました。テモテは、真実で、思いやりがあり、有能で、敬虔な人でしたが、パウロの目には、少し気弱に見えるところがありました。実際、テモテには慢性的な胃病があって、それは彼の生真面目な性格から来ているようでした。それで、パウロはテモテにもう少し大胆になり、勇気を持つようにと、こう言って励ましています。「ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」(テモテ第二2:1)ちなさい。あなたにはイエスからいただいた特別な恵みが与えられているのだから、それによって強くなりなさいと、励ましたのです。

 信仰生活には大胆さや勇気が求められます。とくに、人々の前で信仰を言い表そうとするときはそうです。証しをするとき相手のことを考えて話さなけれればならないのですが、それを口実に、人を恐れてしまうこともあります。そんなとき、神が、「おじけるな、勇気を出せ」と私たちを励ましておられることを思い返しましょう。一人ひとりにはキリストの恵みが与えられています。それによって、強められたいと思います。

 三、ヨシュアへの約束

 主なる神は、ヨシュアが直面していた「恐れ」や「おののき」に対して、主ご自身の力を与え、勇気を授けてくださいました。それだけではなく、素晴らしい約束も与えてくださいました。その約束とは、「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいる」という約束です。もし、この約束がなければ、神の励ましは、ヨシュアには大きな負担になったかもしれません。「私は強くなければならない」、「私は勇敢でなければならない」と気負うばかりで空回りしたかもしれません。

 ほんとうに落ち込んで、鬱状態になっている人には、「がんばって」などと言ってはいけないと、よく言われます。その人は自分でもなんとかしたいと思いながら、どうすることもできないことに苦しんでおり、「がんばって」という励ましに応えられないことで、一層苦しみが増し、人からの励ましがかえって重荷になってしまうのです。そんなときは、その人によりそい、その人の立場に立って、その人と共にいることが大切で、そこから回復が始まると言われます。

 心の病いについて、人間にさえそうした知恵があるなら、すべてをご存知の神が、私たちの心の状態、信仰の状態、さらにたましいや霊の状態をご存知でないわけがありません。神は、私たちに、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」と言われるだけでなく、その励ましを受け止めることができるために、「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから」との約束を与えてくださったのです。

 ヨシュア記は、「主のしもべモーセの死後」(1節)との言葉で始まっています。神はヨシュアに語りかけるのに「わたしのしもべモーセは死んだ」との言葉で始めました(2節)。今まで「モーセの従者」として、モーセの陰のもとで働いてきたヨシュアでしたが、これからは一人立ちして民を導かなければなりません。偉大なモーセが世を去ったあと、もはやモーセを通して神のみこころを伺うことはできません。モーセが残した律法の言葉を頼りに、自分が直接神の前に出てみこころを確かめなくてはならないのです。「モーセは死んだ。」これは、どんなにヨシュアを悲しませ、不安にさせたことでしょう。しかし、神はヨシュアに言われました。「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。」(5節)モーセは世を去り、ヨシュアを一人にしていきました。しかし神は、常に、存在されるお方です。モーセと共におられた神は、ヨシュアと共にいてくださる。この約束がヨシュアを支えました。「あなたの神、主であるわたしは、あなたとともにいる。」この約束によって、ヨシュアはくじけることなく、戦い抜いて、イスラエルに約束の地を継がせることができました。それは、ヨシュアの力と勇気のみなもとでした。

 新しい年は、まだ始まったばかりです。ヨシュアとイスラエルの民が約束の地を一つひとつ勝ち取っていったように、私たちも、この年の一日いちにちを、勝ち取っていきたいと思います。不平や不満で一日を満たすのでなく、神への賛美や感謝で満たされたいと思います。思い煩いではなく平安を、後悔でなく真実な悔い改めを、自己主張ではなく他の人への思いやりをもって過ごしたいと思います。そのためには、恐れに代えて確信が必要です。尻込みすることなく、勇気を出して前に進むことが必要です。

 この年の一日いちにちは、みな同じではありません。順調な日もあれば、つらいこと、悲しいことが一度にやってくる日があるかもしれません。しかし、神は、言われます。「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいる。」この年のどの日にも、主なる神は、「私の神」となって、私と共におられる。そのことを信じ、この1年の一日いちにちを歩みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいる」との約束を感謝します。恐れを覚え、おののきを感じるとき、この御言葉を思い起こし、あなたに平安や確信、勇気や力を願い求めることができますよう、導いてください。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束し、誓われたイエス・キリストを信じ、そのお名前で祈ります。

1/5/2025