神に返れ

ヨエル2:12-18

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2:12 主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
2:13 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。
2:14 神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。
2:15 シオンでラッパを吹きならせ。断食を聖別し、聖会を召集し、
2:16 民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼びだし、花嫁をそのへやから呼びだせ。
2:17 主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、「主よ、あなたの民をゆるし、あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、そしりと笑い草にさせないでください。どうしてもろもろの国民に、『彼らの神はどこにいるのか』と/言わせてよいでしょうか」。
2:18 その時主は自分の地のために、ねたみを起し、その民をあわれまれた。

 今週の水曜日から「レント」が始まります。レントは、初代教会では、イースターにバプテスマを受ける人たちが、聖書の教えを学び、祈りのうちにバプテスマに備える期間でした。すでにバプテスマを受けた者は、この期間、自分が受けたバプテスマを振り返りました。イエス・キリストの十字架という救いの原点に立ち返って、さらに深く悔改め、信仰を点検する期間として過ごしました。わたしたちも、そのようなレントを過ごしたいと思います。そのために普段よりももっと聖書に親しみ、多くの時間を祈りに割きたいと思います。それが、レントのいちばんよい過ごし方だと思います。

 一、自己点検

 今朝の箇所は、レントの最初の日「灰の水曜日」に読まれる箇所です。「灰の水曜日」の「灰」は「悔い改め」を意味します。旧約時代のイスラエルの人々は、干ばつや飢饉などの災害や戦争があったとき、神殿に集まって、神に救いを嘆願しました。ヨエル書にはイナゴの群れが押し寄せて、田畑の穀物も、木の実も、ありとあらゆる植物を食いつくすという災害のことがしるされています。預言者ヨエルも、人々に、神殿に集まり、この災害が及ばないよう神に嘆願するよう、人々に呼びかけています。そのようなとき、人々は悔い改めのしるしに着物を裂き、粗布を着、灰をかぶりました。ところが、そのことが年中行事のようにして行われ、人々がそれに馴れっこになると、見た目は悔い改めているような姿をしても、内面の真実な悔改めをないがしろにしてきました。それで、神は預言者ヨエルの口を通して「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」(13節)と言われ、真実な悔改め、内面の変化を求められました。

 内面の変化にいたる真実な悔い改めは自己点検からはじまります。わたしたちは、とくに病気でなくても、年に一度か二度はドクターやデンティストに行ってチェックアップをしてもらいます。車も定期点検に出します。そのようにレントも、神に内面のチェックアップをしていただく期間なのです。そして、この自己点検で大切なことは、神の前に正直になること、心を開くこと、そして進んでそのことをすることです。これはカウンセリングの世界では、“Honest” の “H”、“Open” の “O”、“Willing” の “W” をとって “HOW”と呼ばれています。カウンセラーからカウンセリングを受けるときでさえ、正直に、心を開き、進んでしなければならないとしたら、神の前ではもっとそうだと思います。

 ところが、人間の心には、自分に都合の悪いことを否定して自分を守ろうとするものがあって、それによって、自分を正しく見ることができず、いつまでたっても、自分の間違いを直すことができないということが起こります。たとえば、自分に問題があるのに、それを他人のせいにしてしまうということがあります。「責任転嫁」というものです。自分がこうなったのは親のせいだ、上司のせいだ、政治が悪い、社会が悪い、などといって自分の問題に目を向けようとしないのです。また、自分が持っている感情を人に投影して人との関係を正しく持つことができないことがあります。鏡の前で怒った顔をすれば、鏡の中の人はあなたに怒り返し、鏡の前で微笑めば、鏡の中の人はあなたに微笑み返します。そのように、自分が他の人に向かって怒っているのに、まわりの人はみんな自分に対して怒っていると思いこんでしまうのです。多くの場合、わたしたちは他の人の姿の中に自分の姿を映しているのです。そのことに気付くのはとても大切なことです。

 「これはたいしたことではないから」という「過小評価」、「みんながしているから」という一般化、「これは必要悪なんだよ」などという「合理化」などといったものも、みな、自分の問題を隠してしまうものです。また、たとえ自分の問題を認めたとしても、その一部や特定のことだけをとりあげ、「これさえ無ければうまくいくのに」という、「矮小化」というのも、よくあることです。たとえば、怒りっぽい人は「少し怒りを我慢すれば」と言うのですが、ほんとうは、怒りの感情の中に、まだいやされていない過去の傷や、劣等感、またさまざまな抑圧された感情がひそんでいて、そのほうがもっと大きな問題であることが多いのです。ほんとうの問題を隠して、小さな問題とすりかえてしまうのです。こうしたことは自己点検の妨げになります。

 二、砕かれた心

 こうしたものを心理学で「防衛機能」といいます。心理学の知識を持つことは、自分を知るために役に立ちます。しかし、それがすべてではありません。どんなに正確に自分の心理を分析できたからといって、それで人はほんとうの自分を知ったり、自分を変えたりすることはできないからです。わたしたちを最もよく知っておられるのは神です。わたしたちを造り変えてくださるのも神です。大切なことは、この神の前に出て、神から教えていただくことです。神の前にへりくだり、教えられやすい心になることです。それはヨエル2:13には「心を引き裂く」という言葉で表されていますが、聖書には他に「心を砕く」という表現もあります。詩篇34:18に「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」とあり、イザヤ書57:15には、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む」とあります。

 「砕かれた心」ということで、思い起こすのは、エレミヤ書18章にある陶器師と粘土のたとえです。預言者エレミヤが陶器師の家に行くと、陶器師がろくろを使い、粘土で器を作っていました。ところが、作り損ねたので、陶器師はそれをもういちどねりなおして別の器を作りました。そのとき、神の言葉がエレミヤに臨みました。「この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」(エレミヤ18:6)神は陶器師、わたしたちはその手の中にある粘土です。神が、わたしたちに求めておられるのは、わたしたちが、神の手の中で形作られやすい、柔らかい粘土になることです。

 エレミヤが見たのは、陶器師がひとつの器を作り損ねたので、別の器にしたということでしたが、最高の陶器師である神がわたしたちを作り損ねるということはありません。わたしたち人間のほうが、罪のために自分を損ない、神とのまじわりから遠ざかることによって干からびて、固い、石のような粘土になってしまったのです。しかし、わたしたちが神の手の中にあるかぎり、かならず造り変えられます。ある陶芸家が「粘土は、どんなに固くなっても、火を通す以前なら、水を与えて練り直せば、必ず、もう一度使うことができる」と雑誌に書いていました。わたしはそれを読んで、すぐに、このエレミヤ書のたとえを思い起こしました。「自分の心は固すぎて、悔改めることなどできない。わたしには、もう悔い改めるチャンスなどない」と、誰も言うことはできません。神が、わたしたちになによりも望んでおられるのは、悔い改めることです。そうであるなら、神がわたしたちから悔い改めるチャンスを取り去られることは決してありません。どんなに固い心も、神からいのちの水注がれるとき、それは柔らかい粘土となるのです。それが「心砕かれる」ことであり、神に受け入れられる「砕かれた心」です。

 三、神の愛

 では、粘土に注がれる水とは何なのでしょうか。それは、神の愛です。13節に「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである」とあります。ここにある「恵み」、「あわれみ」、「いつくしみ」はすべて神の愛を指します。神の愛のさまざまな側面がそれぞれの言葉で描かれているのです。「恵み」というのは、それを受けるに値しない者にも注がれる愛、「あわれみ」とは自らの罪のために苦しんでいる者に対する愛、「いつくしみ」とは神の変わらないご性質から溢れ出た愛です。神は、たとえ、わたしたちが自分の罪のために、自分を傷つけ、苦しんでいたとしても、「それは自業自得だ」などといって、冷たく見放されるお方ではありません。苦しむ者に心をかけてくださるのです。そして、回復と祝福を約束してくださいます。ヨエル書の、きょうの箇所からあとの部分は、すべて、救いと祝福の約束です。イナゴに食い荒らされた土地に再び収穫がもたらされるばかりか、神の霊が人々に注がれるという究極の救いも預言されています。神は、人々に悔改めを促しておられる間も、その心は愛で燃えておられ、回復の言葉を語らずにはおれなかったのです。

 この熱い神の愛は、今、わたしたちに注がれています。神は言われます。「あなたがたの神、主に帰れ」と。「わたしはあなたの神だ」と言われます。わたしたちは、誰かわからないお方のところに行くのではありません。わたしを造り、わたしを愛し、わたしを罪から救い出し、わたしを生かしてくださるお方のもとに返るのです。わたしがそこから出てきたお方のところ、「わたしの神」に返るのです。

 「悔改め」と「後悔」とは違います。「後悔」とは、「あんなことをしなければよかった。あのときこうしておけばよかった」と過去を悔やむことです。しかし、「悔改め」は、自分がいてはいけないところから、回れ右をして、自分のいるべきところに返っていくことです。ルカ15章にある放蕩息子の物語は、それをみごとに言い表わしています。

 放蕩息子がブタの餌さえも腹に入れたいと思うほどに落ちぶれたとき、彼は「本心に立ち返」りました。ここは自分のいるべきところではないことに気付いたのです。放蕩息子は、自分は息子と呼ばれる資格がないことを知っていました。しかし、「立って、父のところに帰ろう」と決心します。ここには原語でも、英語でも「わたしの」という言葉が入っていてます。彼はなお、自分の父親を「わたしの父」と呼んでいます。父と自分との切っても切れない愛のつながりを見出したのです。そして、「立って、父のところへ」一歩を踏み出しました(ルカ15:17−20)。

 クリスチャンとは、罪を悔改め、イエス・キリストを信じ、バプテスマによってその信仰を言い表わした人のことです。しかし、「悔改めた」、「信じた」、「言い表わした」というのは、過去形で終わるものであってはいけません。悔改めも、信仰も、信仰の告白も生涯のものです。クリスチャンになって、行いで罪を犯すことがなかったとしても、神のみこころにかなわない思いをいだいてしまうことがあります。神への愛が冷たくなってしまっていることもあるでしょう。きよい神に近づけば近づくほど、自分の汚れが見えてきます。ですから、わたしたちには絶えず、悔改めが必要です。神の恵み、あわれみ、いつくしみが必要です。神は悔い改める者に恵みを、あわれみを、いつくしみを注いでくださいます。レントの期間の自己点検が、真心からの悔改めへと導かれるよう、ともに祈りあって、過ごしたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、わたしたちに「あなたがたの神、主に帰れ」と呼びかけてくださっています。あなたはわたしを造ってくださったわたしの神です。わたしはあなたに贖われたあなたの民です。レントの期間、わたしたちを、この本来の関係に立ち返らせてください。そして、この関係の回復のためにご自身をささげられた主イエスの救いのみわざをほめたたえるわたしたちとしてください。主イエス・キリストによって祈ります。

2/7/2016