2:12 主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
2:13 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。
2:14 神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。
今週の水曜日から40日間の「レント」が始まります。「レント」という言葉を聞いて、「いったい40日の間、何をレントするのですか? アパートの部屋ですか? 事務所ですか? それとも車ですか?」と言った人がいますが、その「レント」は "r-e-n-t" の「レント」です。教会で守る「レント」は "l-e-n-t" と綴ります。これは "long" という言葉から出たもので、イースターを前に日が長くなっていく時期を表わします。
レントは「灰の水曜日」からイースター前日の土曜日までの期間です。でも、数えてみると、40日ではなく、46日あります。それは、6回の日曜日が入っているからで、日曜日を除くとちょうど40日になります。イエス・キリストのご受難を思い見るのが、レントの主な目的ですので、主の復活を祝う日曜日を除いた40日が「レント」となったわけです。
レントが40日間なのは、聖書で「40年」が「一世代」を表わすように、「40」という数がひとつのまとまりある単位となっているからです。主イエスは復活ののち40日にわたってご自分の生きておられることを示され、それから天にお帰りになりました。イースターの期間が40日続くように、イースターに備えるレントも40日続くのです。
一、自己点検の40日
このレントの期間、私たちは何をするのでしょうか。レントの期間にはコーヒーを飲まない、チョコレートを食べないなど、自分の好きなことをあきらめるという慣わしがありますが、もし、それがお酒をやめる、タバコをやめる、すぐ怒るのをやめる、悪い言葉を口にするのをやめるなど、からだにも心にも悪いものをやめるのであれば、それは良いことです。しかし、益にも害にもならないことをやめたからといって、それが神に喜ばれるとは思われません。レントは「我慢比べ」の期間ではないからです。
今朝の箇所は、レントの最初の日「灰の水曜日」に読まれる箇所です。「灰の水曜日」の「灰」は「悔い改め」を意味します。旧約時代のイスラエルの人々は、干ばつや飢饉などの災害や戦争があったとき、神殿に集まって、神に救いを嘆願しました。ヨエル書ではイナゴの群れが押し寄せて、田畑の穀物も、木の実も、ありとあらゆる植物を食いつくすという災害のことがしるされています。預言者ヨエルも、人々に、神殿に集まり、この災害が及ばないよう神に嘆願するよう、人々に呼びかけています。そのようなとき、人々は悔い改めのしるしに着物を裂き、粗布を着、灰をかぶりました。ところが、人々が年中行事のようにして行われ、人々がそれに馴れっこになると、真実に悔い改めるよりも、悔い改めたふりをするようになりました。灰をかぶって粗末なものを身につけ、断食してやつれた姿になれば、見た目は悔い改めているように見えるでしょうが、内面に悔い改めがなければ、そうした姿は自分をごまかすだけのもので終わってしまいます。祈りのための集まりがたんなるイベントになり、悔い改めが外面だけのパフォーマンスになってしまいます。それで、神は預言者ヨエルの口を通して「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ」と言われただけでなく、「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」(12-13節)と言われたのです。神は、この言葉によって、「衣服」、つまり外側のものではなく、「心」、内面の変化を私たちに求めておられるのです。
内面の変化にいたる真実な悔い改めは自己点検からはじまります。私たちは、年に一度はドクターやデンティストに行ってチェックアップをしてもらいます。車も定期点検に出します。そのようにレントは、私たちの内面のチェックアップを、神にしていただく期間です。このチェックアップでは、二つの "Q" が問われると思います。ひとつは、自分がどれだけのことを達成したかという分量("quantity")のチェックアップ、もうひとつは、それをどんな動機でしたかという品質("quality")のチェックアップです。教会生活のことを例にあげれば、一年52回の礼拝をどれだけ数多くを守ったか。年12回の主の晩餐は、祈り会はどうだったか。聖書の通読がどこまで進んだかなど、数字で量れるものが、"quantity" のチェックアップです。けれども、礼拝や主の晩餐を通して神との関係はより親密なものになっているか。聖書を読み祈るときさらに深く神ご自身を知る者となっているだろうかといった、数字では量れないものが "quality" のチェックアップです。"Quantity" のチェックアップはある程度は自分だけでもできますが、それをどれだけ真心を込め、神に信頼してしたかという "quality" のチェックアップは神にしていただかなければ出来ません。
家庭生活の場合も、その "quality" は、どれだけの時間を家族といっしょに過ごしたか、何回家族のヴァケーションを持ち、夫婦だけのデナーを持ったか、子どもの学費にどれだけ出費したかなどという "quantity" とは必ずしも一致しません。仕事の都合でなかなか家族のために時間を裂くことができなくても、家族が互いに信頼しあい、互いの足らないところを赦しあい、補いあっていくなら、日常の会話や共に祈る中に、たとえ短くでも "quality" の高い時間を持つことができるでしょう。
レントの期間、神との関係からはじめて家族との関係、職場での同僚や友人との関係、教会の兄弟姉妹との関係などについて、神に探っていただきましょう。間違っていたところがあれば、神の前に素直に悔い改めましょう。もし人にお詫びすべきことがあったら、勇気を出してお詫びしましょう。そして、そのことが出来るように神の助けを祈り求めましょう。悔い改めは、それによって人生が一変してしまうようなドラマチックな出来事ばかりとは限りません。悔い改めは身近なことから、小さなことから始まります。それが積み重ねられて私たちの人生が変えられていくのです。それによって家庭が変わり、職場が変わり、教会が変わっていくのを見ることができます。それこそが、「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」と教えられていることなのです。このレントが私たちが変えられ、私たちのまわりが変えられていく、その第一歩となるよう、祈り、願いましょう。
二、神に近づく40日
レントの40日は、旧約時代の神の民、イスラエルの人々がエジプトから救われたのち40年間荒野を旅したことにちなんでいます。レントは荒野の40年の一年を一日に置き換えて、40日の間、イエス・キリストのご受難の足跡をたどる信仰の旅です。イスラエルの人々の四十年の旅のゴールが約束の地であったように、私たちの信仰の旅にもゴールがあります。それは、イエス・キリストの復活です。キリストの復活によって私たちも癒され、生かされ、救われるという恵みです。レントの旅は前向きな信仰の旅です。
「自己点検」や「悔い改め」というと、とかく「後ろ向き」なものという印象が持たれます。そして、そういうことを要求なさる神はただ厳しいだけのお方だと誤解されますが、決してそうではありません。ほんとうの悔い改めは、過去を「後悔」することではなく、将来に向って踏み出すことです。それがなければ私たちはいつまでも過去の失敗にとらわれ、後悔し続け、自分を変えていくことができません。神が私たちに悔い改めを迫っておられるのは、私たちを愛して、私たちを過去の束縛から解放するためです。聖書をよく読むなら、神の厳しいお言葉の中にも、かならず神の愛の表現を見ることができます。
今朝の箇所にも「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである」(13節)とあります。「恵み」、「あわれみ」、「いつくしみ」といった言葉はすべて神の愛を表わす表現です。今朝はその中から「あわれみ」と「恵み」について考えてみましょう。
「あわれみ」とは、「私たちが受けて当然の刑罰を、神が控えてくださること」です。神が、神に逆らったものに与える刑罰を控えてくださることの中に神の「あわれみ」があります。イスラエルは、どれほど、このあわれみによって救われてきたことでしょうか。イスラエルの人々は常に、神の臨在に触れ、神の言葉を聞いていたのに、何度も何度も神に逆らいました。そのため国は北王国イスラエルと南王国ユダに分かれ、イスラエルはアッシリアに、ユダはバビロンに滅ぼされてしまいました。あれほどの大きな神のお力に導かれてエジプトの奴隷から救い出されたイスラエルが再びバビロンの奴隷になったのは、ほんとうに悲しいことでした。
けれども、神は、イスラエルをあわれんで、「第二の出エジプト」とも言うことができる「バビロンからの帰還」を遂げさせてくださいました。見捨てられて当然のイスラエルでしたが、神の「あわれみ」がイスラエルを滅びたままにさせませんでした。イザヤ54:7で、神は「わたしはしばしあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める」と言われ、その通りのことをなさいました。イザヤ63:9には「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」とあります。神は、苦しむものを、「それがお前の受ける当然の報いだ」と言って、冷たく見放されるお方ではありません。神もまた、人々の苦しみを苦しんでくださるのです。神の、こうしたあわれみの心は、ホセア11:8にこのように表現されています。「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのようにすることができようか。どうしてあなたをゼボイムのように扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。」別の訳では「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」とあります。これ以上に神のあわれみを表わす言葉はないでしょう。この言葉を聞くとき、私たちの胸も熱くなります。
もうひとつの言葉、「恵み」は、「あわれみ」と対になって使われます。「あわれみ」が「私たちが受けて当然の刑罰を神が控えてくださること」であるなら、「恵み」は「私たちが受けるにふさわしくない特権を神が与えてくださること」だと言うことができます。英語で言えば、"Mercy holds back what we deserve." "Grace gives us what we do not deserve." です。
主イエスの譬えに出てくる放蕩息子は、父親の財産を浪費し、その面子を丸潰しにしたのですから、決して父親の家には帰れなかったはずです。しかし、放蕩息子の父親は、自ら走り寄って彼を迎えました。息子は父親の「怒り」を受けて追い払われるのが当然だったのに、父親の「あわれみ」によって家に迎え入れられました。そればかりでなく、「恵み」によって、彼に晴れ着が着せられ、履物が履かされ、指輪が与えられました。これは、彼に息子としての特権が与えられたことを意味します。この息子は父親の「あわれみ」によって当然の懲らしめを受けなかったばかりか、父親の「恵み」によって、彼にはふさわしくない特権を与えられたのです。
この譬えの放蕩息子は、私たちのことで、父親は父なる神のことです。私たちも、放蕩息子と同じような者だったのに、父なる神の「あわれみ」によって罪を赦していただいたばかりか、「恵み」によって、神の子どもとしていただきました。神は、「あわれみ」によって私たちを罪の報いからまぬがれさせてくださっただけでなく、「恵み」によって天の御国を受け継ぐものにしてくださったのです。この神の「あわれみ」と「恵み」はイエス・キリストの十字架の中に形をとって示されています。
神は「あわれみ」を求める者に「恵み」を差し控えることはありません。私たちが受ける苦しみの中には、自分の身から出たもの、自分の大きな失敗によるものである場合があります。そんな場合でも、神の「赦し」を求め、「あわれみ」を求め、「この苦しみを取り除いてください」と祈りましょう。私たちがそうすることを神は願っておられます。「こんな私がそんな幸せを願っていいのだろうか」と躊躇する必要はありません。神はあなたを祝福したいのです。神の「恵み」を大胆に求め、「私を苦しみから解放してください。幸いな日々を、もう一度与えてください」と祈りましょう。「あわれみ」を求める者に、神が「恵み」をもって臨んでくださらないわけがありません。
聖書に登場する、ほとんどすべての信仰者は、神の「あわれみ」を呼び求め、その「恵み」を受けた人ばかりです。最初から立派で非のうちどころのない人など誰もいません。人の目にはそう見えても、神の前では、人はみな欠けだらけの罪びとなのです。そんな私たちが自己点検を始めると、自分のみすぼらしさ、小ささに落胆し、苦しくなってしまうかもしれません。真面目な人ほど、神に対しても人に対しても自分が至らない者であるということを強く感じ取るものです。しかし、そのようなときこそ、神の「あわれみ」と「恵み」を覚えましょう。主イエスの十字架のうちにある「あわれみ」と「恵み」を見つめましょう。レントの旅は「あわれみ」と「恵み」に満ちた神のふところに帰っていく旅です。主イエスは、私たちのレントの旅を共に歩んでくださいます。そのことを信じて、一緒にこの旅を歩み出しましょう。
(祈り)
神さま、私たちは、このレントに自己点検の40日、また、あわれみと恵みに豊かなあなたに近づく40日を始めようとしています。私たちが霊的な荒野から、あなたのあわれみと恵みに満ちた豊かな地へと進んでいくことができますように。主イエスの十字架に示されたあわれみと恵みをもって導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/2/2014