2:12 「しかし、今、──主の御告げ。──心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」
2:13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。
2:14 主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。
2:15 シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。
2:16 民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。
2:17 主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか。』と言わせておいてよいのでしょうか。」
一、私たちの悔い改め
今朝の聖書は「灰の水曜日」に読まれる箇所です。レントの最初の日が「灰の水曜日」と呼ばれるのは、この日、額に灰を塗るならわしから来ています。「灰」は、人間が塵から造られ、再び塵に返っていく存在であることを覚えて、神の前にへりくだることを意味しています。また、それは悔い改めを意味します。古代の人々は悔い改めるとき、断食し、荒布を着、灰をかぶりました。さらに、「灰」はきよめを意味します。旧約時代には祭壇で焼いた犠牲の灰がきよめのために使われました。灰の水曜日の「灰」には、その日からはじまるレントの期間が、神の前にへりくだって悔い改め、きよめを求める期間であるようにとの祈りがこもっているのです。
額につけた灰は顔を洗い、シャワーを浴びれば消えてしまいます。灰は消えても、心の中の、へりくだり、悔い改め、きよめを求める祈りは消してはなりません。むしろ、レントの日数を重ねるにつれて、深められていくのでなければなりません。
旧約の時代、イスラエルの人々は、飢饉や疫病にみまわれたり、敵に攻められたりしたとき、聖会を開き、神に救いを願い求めました。しかし、そうした聖会が、年中行事になり、それに馴れっこになってくると、人々は、真実に悔い改めるよりも、悔い改めたふりをするようになってきました。大げさに着物を裂き、悔い改めの祈りをするのですが、心の中には何のへりくだりも、罪に対する悲しみも、きよめへの飢え渇きもなく、預言者ヨエルの時代には、聖会はイベントになり、悔い改めがパフォーマンスになってしまっていたのです。
同じ危険は、現代にもあります。アメリカの教会では、いつもどこかで、大掛かりな集会が企画されています。それぞれ、クリスチャンの成長や伝道の拡大、リバイバルやきよめを求めて行われるのですが、そこに霊的なものが保たれていなかったり、参加する人が霊的に整えられていないと、そうしたものも、たんなる人の集まりで終わってしまうことがあります。たしかに、おおぜい人が集まるところには人を興奮させるものがあり、それによって何かしら満たされた気分になるものです。そういう集まりに繰り返し参加しているうちに、自分の内面がどうであれ、集会のプログラムどおり、機械的に応答してしてしまうようなこともあります。意図的ではないと思いますが、この世の人たちが使う「ムード・コントロール」の手法が知らず知らずのうちに教会の集まりの中にも取り入れられ、聖霊の働きが心理学的なものに置き換えられることがあります。そうなると、人間の言葉と音楽だけが虚しく鳴り響き、形だけの宗教ショーが展開されるようになってしまいます。そこには、みかけの「悔い改め」や「献身」はあっても、ほんとうのものはありません。ヨエル2:13は「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ」と教えています。静けさの中から語りかけてくださる細い神の声を聞き分け、深い「悔い改め」をささげる、そんな「聖会」を招集するよう、神は、今朝の箇所で呼びかけておられるのです。
聖書には「心を引き裂く」という表現のほか、「心を砕く」という表現もあります。詩篇34:18に「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」とあり、イザヤ書57:15には、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む」とあります。「心を砕く」というのは、神の前にへりくだり、教えられやすい心になることを意味しています。岩のように固い心が砕かれて砂のように柔らかくなることです。ところが、日本語では、「心を砕く」という場合、「わたしは子どもの教育に心をくだいています」などのように、「いろいろと気を遣う。心配する」という意味で使われます。しかも、それは「人」や「ことがら」に対してです。人に対して「心を砕いて」接することは良いこと、素晴らしいことです。しかし、そのことにだけ心が向いて、ほんとうは第一にしなければならない、神に対して心を砕くことが後回しになっていないかと、反省させられます。
毎年巡ってくるレントがお決まりの年中行事にならないために、「着物ではなく、心を引き裂き」、神の前に「心を砕く」、ほんとうの悔い改めに導かれたいと思います。
二、神のあわれみ
「悔い改め」と聞くと、多くの人は何か否定的なもの、消極的なもの、後ろ向きなものというイメージを抱きますが、聖書は、「悔い改め」をそれとは逆のこととして描いています。ヨエル2:13は「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ」と言っています。神に立ち返るのですから、これ以上に肯定的、積極的、前向きなものはありません。私たちが心を裂くのは、そこから悪いものを出して、再び美しく繕ってもらうためであり、心を砕くのは、柔らかい粘土になって、神の作品として作り直してもらうためです。悔い改めは決して悲しいもの、暗いものではなく、喜ばしいもの、明るいものなのです。主イエスは、地上でひとりでも悔い改める人がいたらなら、天で大きな喜びがわきあがると言われたではありませんか。悔い改めを嫌なもの、不必要なものと思わせるのは、人が神に立ち返るのを妨げようとする闇の力がしていることです。悔い改めは、イエス・キリストを信じるとき一度しておけば、あとは二度としなくて良いなどと言うのも、クリスチャンの成長をにがにがしく思う、この世の声でしかありません。
ヨエル2:13の後半に「あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」とあります。「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」というのは、どれも、神の愛を表わす表現です。ひとくちに「神の愛」といっても、それはさまざまな側面を持っていていますが、今朝はその中から「あわれみ」と「恵み」に目を留めたいと思います。
「あわれみ」とは、「私たちが受けて当然のものを、神が控えてくださること」と定義することができます。神に逆らった者が受けて当然の裁きやわざわいを思い直し、それを控えてくださること、それが、神の「あわれみ」です。
イスラエルは、どれほど、このあわれみによって救われてきたことでしょうか。イスラエルの人々は神の力強いみわざによってエジプトから救われ、常に、神の臨在に触れ、神の言葉に聞いていたのに、何度も何度も神に対して不平不満を抱き、神に逆らいました。そのため、神は、イスラエルを滅ぼしてしまうと言われましたが、モーセの必死のとりなしによって、イスラエルをあわれんで、その裁きを思い直してくださいました。
イスラエルが約束の地に入ってからも、人々は神から離れ、神に逆らいました。イスラエルが王国になってからもそうでした。そのため、イスラエルはアッシリアに、ユダはバビロンに滅ぼされてしまいました。あれほどの大きな神のお力に導かれてエジプトの奴隷から救い出された神の民が再びバビロンの奴隷になったのは、ほんとうに残念なことです。
けれども、神は、神の民をあわれんで、「第二の出エジプト」とも言うことができる「バビロンからの帰還」を遂げさせてくださいました。イスラエルは神に見捨てられて当然でした。しかし、神の「あわれみ」が、そうはさせませんでした。イザヤ54:7で、神は「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める」と言われましたが、神はその通りのことをなさったのです。また、イザヤ63:9には「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」とあります。神は、神の裁きを受けて苦しむものを、「それがお前の受ける当然の報いだ」と言って、冷たく見放されるお方ではありません。神もまた、その苦しみを苦しんでくださるのです。神の、こうしたあわれみの心は、ホセア書11:8にこのように表現されています。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」――「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」これ以上に神のあわれみを表わす言葉はないでしょう。この言葉を聞くとき、私たちの胸も熱くなります。
三、神の恵み
神の愛を表わす、もうひとつの言葉、「恵み」は、「あわれみ」と対になって使われます。「あわれみ」が「私たちが受けて当然の刑罰を神が控えてくださること」であるなら、「恵み」は「私たちが受けるにふさわしくない特権を神が与えてくださること」だと言うことができます。英語で言えば、"Mercy holds back what we deserve." "Grace gives us what we do not deserve." です。
主イエスの譬えに出てくる放蕩息子は、父親の財産を浪費し、その面子を丸潰しにしたのですから、決して父親の家には帰れなかったはずです。しかし、放蕩息子の父親は、自ら走り寄って彼を迎えました。父親の「怒り」を受けて追い払われるのが当然だったのに、父親の「あわれみ」によって家に迎え入れられました。そればかりでなく、「恵み」によって、彼に晴れ着が着せられ、履物が履かされ、指輪が与えられました。これは、彼に息子としての特権が「恵み」によって与えられたことを意味します。「あわれみ」は、罪ある者に与えられる当然の裁きを控え、「恵み」は、罪ある者が受けるにふさわしくない特権を与えるのです。
この譬えの放蕩息子は、私たちのことで、父親は父なる神のことです。私たちも、放蕩息子と同じような者だったのに、父なる神の「あわれみ」によって罪を赦され、その「恵み」によって、神の子どもとしていただいたのです。神は、私たちの罪を赦してくださっただけでなく、私たちを天の御国を受け継ぐものにしてくださったのです。神は、その「あわれみ」によって、私たちを罪の結果から引き戻し、その「恵み」によって天の宝を与えてくださったのです。
哀歌3:22に「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」とあるように、聖書では、神の「あわれみ」と「恵み」が組み合わさって使われています。神は、神の「あわれみ」を求める者に「恵み」を差し控えることはありません。私たちが受ける苦しみの中には、自分の身から出たもの、自分の大きな失敗によるものである場合があります。そんな場合でも、神の「赦し」を求め、「あわれみ」を求め、「この苦しみを取り除いてください」と祈って良いのです。そうすることを神は願っておられます。「こんな私がそんな幸せを願っていいのだろうか」と躊躇する必要はありません。神はあなたを祝福したいのです。神の「恵み」を大胆に求め、「私を苦しみから解放してください。幸いな日々を、もう一度与えてください」と祈って良いのです。「あわれみ」を求める者に、神が「恵み」をもって臨んでくださらないわけがありません。
聖書にも、私たちの身近かにも、神の「あわれみ」を呼び求め、大きな「恵み」を受けた人が大勢います。このレントの期間、「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ」との言葉を聞き続けましょう。そして、そう呼びかけてくださる「私たちの神、主」が、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」お方であることを、しっかりと確信していきましょう。
(祈り)
あわれみ豊かな神さま、今朝、あなたの「あわれみ」と「恵み」を思い見るときを与えてくださり、感謝します。あなたの愛の二つの側面を思い見るだけでも、私たちの心は、どんなに励まされ、勇気づけられることでしょうか。どうか、私たちにあなたの愛の豊かさを日々、思い見ることができるよう、助けてください。人間の知恵、知識、感覚ではとらえきれないほど、あなたの愛は大きいのですが、あなたの愛は、私たちの生活のどんな小さいと見えるところにも働きます。あなたの「あわれみ」の愛、「恵み」の愛を、ことあるごとに呼び求めて生活する、私たちとしてください。主イエス・キリストによって祈ります。
2/17/2013