2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブを足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取り、それでからだを引っかいた。彼は灰の中に座っていた。
2:9 すると、妻が彼に言った。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」
2:10 しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。
ヤコブ5:11に、「ヨブの忍耐」という言葉があります。こう書かれています。「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。」聖書は、「忍耐」を誰もが身につけるべきものとして教えており、ヨブを「忍耐した人」の手本としています。では、ヨブは何を、どのように「忍耐」したのでしょうか。「忍耐」についてヨブから学ぶことは多くありますが、きょうは三つのことをとりあげました。
一、信仰を保つ忍耐
第一は、ヨブが信仰を保つために忍耐したということです。
ペリー提督は7回、北極を目指しましたが、すべて失敗しました。しかし、8回目に北極点に到達しました。エジソンは電球のフィラメントを見つけるのに、なんと1600もの材料を試しました。オスカー賞で有名なオスカー・ハマスタインがミュージカル「オクラホマ」で成功するまで、6回のショウはすべて失敗でした。しかし、その後「オクラホマ」は2248回ものショウを重ねることになりました。あきらめないで忍耐すれば成功するという実例です。ヨブの場合は、成功を目指しての忍耐ではなく、彼の身の上に突然襲いかかった災難の中で、神への信仰を保ち続けようとした忍耐でした。
ヨブに臨んだ最初の災難は、一瞬にして彼の全財産が奪われ、10人の子どもたちが亡くなってしまうというものでした。ヨブは、そんな災難が臨んだときも、「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)と言って、神への信仰を保ちました。
この第一の災難に続いて、第二の災難がヨブを襲いました。それは、ヨブの全身、頭のてっぺんから足の裏まで、悪性の腫れ物ができ、それがヨブだとは分からないほどにヨブの姿が変わってしまうというものでした。ヨブはその痛みと痒みを和らげるため、灰の中に座わりました。
人は、事業に失敗して無一物になったとしても、健康と気力があれば、やり直すことができます。しかし、そんなときに、健康が奪い去られたら、気力だけではどうにもならなくなります。また、たとえ身体が健康であっても、心がくじけてしまったら、そこから立ち上がれなくなります。しかし、心身が痛めつけられても、神への信仰があれば、人はそんなときも支えられます。ヨブは、身も心も大きな苦痛の中にありましたが、神への信仰を守り通しました。ヨブは信仰を守ることによって大きな苦しみの中でも、神に守られ、支えられたのです。
身も心も弱まるとき、私たちを支えるのは信仰です。申命記33:27に「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある」という言葉があります。神の「腕」は神の全能の力を表しています。家族が幸せで、仕事にも成功し、社会的にも栄え、健康で何不自由ないときだけ神の腕が伸ばされているのではありません。不幸に突き落とされ、失敗を重ね、人々から見向きもされず、身体の自由がきかなくなったとしても、神の「永遠の腕」、変わらない腕は私たちを下から支えるのです。神の腕が上にだけでなく、下にもあるというのは、なんと幸いなことでしょう。「信仰を保つ」とは、神の全能の力に信頼することです。
詩篇139:8に「たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます」とあります。ある人が、「日々の聖句」ウェブ版のコメントにこんな書き込みをしました。「親しくしている人が、末期癌の宣告を受けました。今までの信仰がすべて吹っ飛んでしまって、もう死ぬしかないとあきらめたとき、『私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます』との御言葉が聞こえ、びっくりして床をたたみ、悔い改めたということです。その人は病気を克服し、神の恵みを今、証ししています。」(2025年6月3日)ヨブはもうこれ以下はないと思えるようなどん底につき落とされました。あと一歩で死の世界というところにいました。しかし、ヨブは、そこにも神がおられ自分を生かしておられる。神は、自分を知り、ごらんになっておられることを見出したのです。信仰は、どんな時にも私たちを支える力です。すべての人が、とりわけ、苦しむ人が信仰を持ち、信仰を保っていてほしいと心から願います。
二、神の答を待つ忍耐
ヨブの忍耐の第二は、神の答えを待つ忍耐でした。ヨブは忍耐して神の答えを待ちました。
神は、私たちのすべてをご存知です。私たちの人生に起こる幸いもわざわいも、その手の中に握っておられます。それらは神のみこころの中にあります。しかし、私たちは神のみこころの全部を知ることができません。それで私たちは、願い求めた幸いを、神が与えてくださるときには、ありがたく受けとりますが、試練がやってくるときには、なぜ、こんな苦しみがやってきたのだと、驚き慌ててしまうのです。人生には幸いもあればわざわいもあることを承知していても、また、試練には意味があり、目的があることを頭では分かっていても、実際に試練がやってきたときには、「なぜ、私なんですか」(Why me?)と言いたくなることがあるのです。
ヨブは、彼の身に起こった過酷な試練の背後に神がおられることを認めました。そして、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と言って、神のなさったことを受け入れています。しかし、だからといって、ヨブは、自分に与えられた苦しみの意味を知ることまでも放棄したのではありません。誰しも、試練が大きければ大きいほど、「なぜ、こんなことが、私の身に起こったのか。それを知りたい。神よ、答えてください」との思いが大きくつのることでしょう。ヨブも同じでした。
ヨブ記3章には「ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った」(3:1)とあります。ヨブは決して神を呪うようなことはしませんでしたが、自分の苦しみがあまりにも大きかったので、そんなことを言ったのでしょう。その中で、ヨブは、「なぜ」、「なにゆえ」という言葉を繰り返しています。それはたんなるつぶやきではりません。「主よ、なぜですか」と、真剣に神に問いかける言葉でした。
ヨブ記4章以降は、ヨブを見舞いにきた三人の友人が一人づつヨブに向かって語り、それにヨブが答えた言葉が延々と書かれています。そのヨブの言葉には、ヨブが友人にではなく、神に訴え、祈っている言葉が多くあります。ヨブは、「何のために私と争われるのかを教えてください」(10:2)、「神が私に答えることばを知り、神が私に言われることをわきまえ知りたい」(23:5)と神に語りかけ、神の答えを求めています。
ヨブ記の最後には、神がヨブに臨み、ヨブの切実な求めが満たされたことが書かれています。しかし、そこに至るまでは、ヨブの心には答えのない疑問があり、身の周りには納得のいかない出来事がありました。けれどもヨブは忍耐によって、最後には神の言葉による解決を得ました。私たちは、神のみこころが分からないとき、「みこころなんてどうせ分からないのだ」などと考えてしまうことがあります。しかし、それでは、試練のときに何の助けにもなりませんし、試練を通して学ぶことも、それによって神に近づくこともできません。試練のときにこそ、みこころを、神の愛のみこころを、もっと真剣に祈り求めたいと思います。
三、理解してもらえない忍耐
最後に、人々から理解されないことに耐えなければならないことを学びましょう。
病気や災害、事故や犯罪の被害、家族の問題や依存症の問題で苦しむ人たちが、それぞれのサポート・グループに参加すると、自分と同じ苦しみと闘っている人が大勢いること発見し、励ましを受けて、解決へのステップに進むようになりますが、それまでは、「私の、こんなに大きな苦しみは誰も分かってくれない」と思い込み、自分に閉じこもってしまうことが多いものです。けれどもヨブは、そんなふうに自分に閉じこもりませんでした。友人たちに強い言葉を使いましたが、意地を張ったわけではありませんでした。ヨブの心は神にも人にも開かれていました。それなのに、ヨブは人に理解されませんでした。ヨブはそのことにも耐える必要がありました。
誰もが配偶者には、一番の理解者であってほしいと願うものですが、ヨブは妻に理解してもらえませんでした。ヨブの妻は変わり果てた夫の姿を見て言いました。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」(2:9)ヨブの妻は、夫のあまりにも変わり果てた姿に気が動転して、そんなことを言ってしまったのでしょう。それを聞いたヨブは妻をたしなめていますが、そのときどんなに悲しい思いをしたことかと思います。
ヨブの三人の友人も同じでした。彼らは、ヨブを見舞い、上着を裂き、ちりをかぶって、7日の間ヨブと苦しみを共にしました。しかし、彼ら三人が三人とも、ヨブに語ったのは、「ヨブよ、あなたの隠れた罪を思い出し、それを言い表して神に赦しを請いなさい」ということでした。彼らは「苦しみは罪の結果であり、試練は懲らしめのためである」という考えしか持っていませんでした。
もちろんヨブも人間である以上、どんな罪もないということではありませんが、ヨブは、「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1:8、2:3)と神が二度までも言った人です。ヨブが受けた苦しみは彼が犯した何かの罪のためではありませんでした。ヨブの苦しみは「正しい人の苦しみ」でした。人は自分の罪や愚かさによって苦しみを招いてしまうことがありますが、神を恐れ尊んで正しい生き方に励んでいても、苦しみにあうことがあるのです。神を認めない時代では、神を信じ、神に従うことが苦しみになることがあるのです。間違ったことがあたりまえになっている社会をまっすぐに生きようとすればどこかでぶつかってしまうのです。ヨブは、「なぜ正しい人が苦しむのか。その苦しみにはどんな意味があるのか」を問うたのです。だが、ヨブの友人たちは「正しい人の苦しみ」について何も知らず、ヨブを自分たちの考えの枠組みの中でしか見ていなかったのです。
それで彼らはヨブに対して的外れな議論をしたのです。そのことから、苦しむ人に対して的外れなことを言って、結局、その苦しみを増やしてしまう人のことを、英語で “Job's comforter”(ヨブの慰め手)というようになりました。ヨブ記からは、私たちが、そうした「慰め手」にならないようにとの教訓も学んでおく必要があります。ともかく、ヨブは友人たちにも分かってもらえないことを耐えたのです。
人から誤解されるとき、「神が分かっていてくださるから大丈夫」、私たちはそう思って自らを慰めます。しかし、人間は、文字通り「人と人の間」で、人間関係の中で生きている存在ですから、誰かに理解してもらいたい、分かってもらいたいとの願いを持つのは当然です。神も、私たちのそうした思いをご存知です。ヨブ記を最後まで読むと、ヨブの正しさが証明され、友人たちもそれを理解し、ヨブが友人たちのためにとりなし、ヨブと友人たちの間に和解が成立したことが書かれています。ヨブは、「人に理解されない苦しみ」を味わいましたが、しばらくの間の忍耐によって、より一層人々に分かってもらい、人々との交わりを取り戻しています。
神を信じる私たちも、試練にあって、信仰を失ってしまいそうになったり、神のみこころが分からなくなったり、また、人々から誤解を受けることがあります。しかし、神は、それらすべての中で私たちを支え、教え、やがてすべてを「益」に導いてくださいます。そのことを信じて忍耐を働かせましょう。もし、自分には忍耐が欠けていると思うなら、「忍耐を与えてください」と祈り求めましょう。神は、私たちが何かに欠けているからといって、それを責められません。神は私たちに足らないものを喜んで満たそうと待ち構えおられます。神が悲しまれるのは、私たちがそれを神に求めないことです。試練のとき、忍耐を祈り求めましょう。それによって試練を乗り越え、「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。/それにより 私はあなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)と言うことができる者となりたいと思います。
(祈り)
慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主なる神さま、あなたはヨブの忍耐に応え、彼の健康を回復し、その財産も先の倍にまで増やしてくださいました。私たちも、試練のとき、ヨブの人生の結末を思い起こし、彼の忍耐に倣うことができますよう助け導いててください。主イエスのお名前で祈ります。
7/13/2025