2:1 ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
2:3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
2:4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
2:6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。
一、聖書の世界観
「なぜ人は苦しむのか。」それは、いつの時代のどの国の人にも共通した疑問です。この疑問にさまざまな人がさまざまに答えてきました。聖書にも出てくるのですが、ギリシャの哲学にはストア派とエピクロス派とがありました。ストア派は、人が苦しみに遭うのは、理性を失うからで、理性を用いて自制することによって、苦しみから逃れることができると教えました。ストア派は、英語で "Stoic" と言いますが、この言葉が「禁欲的」と訳されるように、「禁欲主義」の哲学として知られています。もう一方のエピクロス派は「快楽主義」として知られており、苦しみは悪であって、苦しみのないの生活を求めるのが人生の目的であると教えてました。
インドでは釈迦が、苦しみの問題に取り組みました。「四苦八苦」という言葉があります。「大きなトラブル」という意味で使われますが、もともとは、仏教の言葉です。これは「生」「老」「病」「死」の四つ苦しみに加えて、「愛別離苦(あいべつりく)」、「怨憎会苦(おんぞうえく)」、「求不得苦(ぐふとっく)」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の四つが加わって、八つの苦しみになるというものです。「生老病死」は、生まれるも苦、老いるも苦、病むも苦、死も苦ということで、「愛別離苦」と「怨憎会苦」は、愛する人と別れるのも苦、憎たらしい奴と出会うのも苦、「求不得苦」と「五蘊盛苦」は、求めても得られないのも苦、多くの物を持ちすぎるのも苦というわけです。こうなれば、人生は何もかも苦しみということになり、この苦しみの原因は「煩悩」と呼ばれる執着心から生まれるのだから、それを捨てて、正しい物の考え方と正しい生活に励むようにと教えています。
これらの哲学や宗教には、それぞれに学ぶべきものがありますが、それは、苦しみの意味や目的についてはっきりとは語っていません。また、どんなにすぐれた教えでも、たんなる教えだけでは、現に苦しんでいる人には何の力にも慰めにもなりません。しかし、聖書は、私たちを苦しみの中で支えてくださる神を指し示し、私たちの苦しみには意味があり、目的があることを、はっきりと教えています。もし、神がおいでにならなかったとしたら、この世に起こることのすべては偶然であり、どんな苦しみにも意味がないことになります。そこには善も悪もないのですから、努力することも、良いことに励むことにも、意味がなくなります。苦しみの中で、助けを呼び求めるべきお方もなく、どんな助けもやってきません。神がこの世界を支配しておられないとしたら、そこは全くの暗黒の世界、絶望の世界となってしまいます。しかし、聖書は、創世記から黙示録にいたるまで、一貫して、神がこの世を治めておられ、私たちの人生を導いておられると告げています。私たちは、聖書から正しい世界観を身に着けたいと思います。正しい世界観から正しい人生観が生まれ、正しい人生観から、苦しみの問題をはじめ、人生の様々な問題に正しく対処する知恵が生まれるからです。ヨブ記は、ヨブが受けた大きな苦しみを通して、私たちに苦しみの意味を教えようとしていますが、ヨブ記もまた、この世界に起こることを、神が支配しておられるということを教えています。
ヨブ記の第一章は、ヨブが受けた第一の災いについて書かれていました。その地方一の富豪だったヨブは、一瞬にしてその全財産を失ってしまうという苦しみに遭いました。それは、サタンからの攻撃でしたが、この災いの中にも、神の支配がありました。神は、サタンに対して「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」(1:12)と制限を加え、ヨブのからだに触れることはお許しにはなりませんでした。ヨブ記の第二章ではヨブの受けた第二の災いが書かれています。第一の災いではヨブの持ち物が攻撃の対象でしたが、第二の災いでは、ヨブの肉体が攻撃の対象となりました。彼は、全身に悪性の腫れ物ができるという、病気になったのです。第二章で、サタンは「ヨブは財産を失っただけだから、まだ、神に対して誠実を保っているが、もし、彼自身の身に災いが起こったら、彼はきっと神をのろうに違いない。」と、ヨブから財産ばかりでなく、健康を奪い取ることを願い出ました。この時も、神は「彼のいのちには触れるな。」(6節)と言って、ヨブに与えられる災いを制限し、ヨブの身に起こることを支配しています。私たちの身の回りに起こることは、あたかも偶然に起こるかのように見えますが、実は、神のご支配のもとに起こっているのです。世界は、運命や偶然、あるいは、サタンが支配しているのではなく、神が支配しておられ、神が、私たちの人生の大切なところを、しっかりと握りしめていてくださるということが、ここから分かります。
この神の支配を信じることから、苦しみに耐える力が生まれます。主イエスは「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言いました。神以外のだれも、神を信じる者のたましいに触れることはできないのです。イエスはまた、「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイ10:29-31)とも言いました。神が、一羽の雀にさえ心をかけておられるとしたら、私たちのことを顧みられないはずがありません。私たちが、さまざまな苦しみを通らなければならなかったとしても、なお、そこには神の手があって、私たちは、神の手で支えられていのです。このことは、なんと大きな慰めでしょう。人生を神の愛の支配にまかせる時、試練や苦しみの中でも、私たちは、苦しみを乗り越えていく力を得、私たちの人生はゆるがないものとなっていくのです。
二、聖書の人間観
ヨブ記は、次に、人間が神の目から見てどんな存在であるか、つまり、人間観について教えています。第一章でも、二章でも、神は、サタンにむかって「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。」(1:8; 2:3)と言って、ヨブを自慢しています。神は、ヨブだけではなく、人間を、他のどの動物とも違って、特別な存在として造られ、ひとりびとりを、このうえなく愛しておられます。創世記に「神は…人をご自身のかたちに創造された。」(創世記1:27)とあり、詩篇には「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩篇8:4-5)とあります。聖書は、人間は素晴らしいもの、神の愛の対象であると教えています。天使と人間とを比べるなら、天使は、その力や栄光においては、人間にはるかにまさります。しかし、神は、人間をご自分の愛の対象として造り、天使を、人間に仕えるものと造られたのです。ヘブル1:14に「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とある通りです。
サタンは、人間に対する神の、この愛を妬み、絶えず、神と人とを引き離し、人間を自分の側に引っ張り込もうとしています。サタンは、神にさえなろうとして堕落した天使ですから、神に仕えることはもとより、人間のために奉仕することなどは、とんでもないことでした。サタンは、常に、人間に対しては神を悪く言い、神に対しては、人間のことを悪く言います。サタンは、第一章では、「ヨブが敬虔なのは、彼が財産に恵まれているからだ。結局は、人間なんて、神からのご利益が欲しいだけで、神を敬っているにすぎないのだ。」と言い、第二章では、「ヨブが誠実を守っているのは、財産は奪われても、自分が大丈夫だからにすぎない。人間はどこまでも利己的で、わが身がかわいいから、彼を病気にしてしまえば、きっと、神をのろうだろう。」と言っているのです。このように、サタンは常に人間を訴え続けるのです。聖書では、サタンは「日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示録12:10)と呼ばれていますが、サタンは、まるで検察官のように、人間の罪や弱さを責め続けているのです。それに対して、主イエス・キリストは、私たちの弁護人となって、昼も夜も、神の御前で、私たちのためにとりなしていてくださっています。イエス・キリストだけが、私たちをサタンの攻撃から守ってくださるお方です。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3:23)とあるとおり、人間は、堕落して、神の前に罪人となりました。しかし、人間は堕落して罪人なったとしても、サタンにはなりませんでした。天使は堕落してサタンになり、彼らには悔い改める余地は残されていませんが、人間は、堕落してもなお、神のかたちを残しており、悔い改めて罪を赦され、きよめられて神に似たものとなることができるのです。聖書では、ヨブ以外にも、ノアやアブラハム、ダビデが、正しい人、義人、また、神のみこころにかなうものと呼ばれています。もちろん、彼らの生涯に何の失敗もなかったとか、どんな罪も犯さなかったとかいうのではありません。きよい神の前に、罪のない完全な者はだれひとりいないことは、神ご自身がいちばん良く知っておられます。しかし、神は、その恵みによって、人間をみこころにかなうものとし、神を賛美し、神に祈り、神を愛し、神に従うことができるものにしてくださるのです。罪を認めることは、大切なことですが、人間はどこまで行っても罪人で、どうやっても正しい心を持つことができず、正しい生活をすることができないというのは、サタンの偽りです。それは人を造りかえることのできる神の恵みと力とをいやしめることになります。ある人が「サタンは、全くの偽りを言わない。いつも真理の半分だけを語って、それで人をだますのだ。」と言いました。なるほど、サタンは、人間は罪人であるということは語ります。それは事実です。しかし、神が、そのような罪人さえ、愛して、造り変え、きよめてくださるという、もうひとつの事実を、決して語らないのです。サタンのことばに惑わされることなく、聖書の真理の全体を心に留めましょう。自分が罪人であることを、真実に認めている人は、決して、「どうせ、人間は罪人だ。」と言って、そこに安住しません。罪が赦されるために真剣に悔い改め、そこからきよめられることを熱心に願い求めるのです。
クリスチャンが体験する苦しみの多くは、試練としての苦しみです。試練の目的は、神が私たちを「ご自分の聖さにあずからせる」(ヘブル12:10)ことにあります。人間が神の恵みによってきよくなることができないのなら、試練の苦しみには意味がなくなってしまいます。神のきよめの恵みに信頼しましょう。その時、私たちは、与えられた苦しみから、きよめの実を刈り取ることができるのです。
三、聖書の信仰観
最後に、この箇所から、神が、私たちの信仰をどう見ておられるかを、学んでおきましょう。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6)とあるように、神が人間に求めておられるのは、何よりも信仰です。信仰は、神と人とをつなぐただひとつの絆だからです。それで、サタンは、なによりも、ヨブの信仰を攻撃したのです。サタンは、ヨブの財産を攻撃し、彼の健康を攻撃しましたが、サタンのほんとうのねらいは、ヨブの信仰でした。財産を失い、健康を失うことによって、ヨブが信仰も失うだろうことを期待したのです。信仰の絆を断ち切ってしまえば、サタンは、ヨブを神から引き離すことができるからです。
サタンはヨブの全身を悪性の腫れ物で撃ちました。ヨブはとても人とは思えないような姿になりました。それで、ヨブの妻は、ヨブに「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」と言いました。なんとひどい奥さんだろうと、思われるかもしれませんが、ヨブの苦しみがあまりに大きいので、その姿を見てはいられなかったのでしょう。あまりにも、大きな災い、理不尽な苦しみに遭い、神を忘れたわけでなくても、感情的になってしまって、このようなことばが出てしまったのかもしれませんが、このことばの背後には、サタンの誘惑があるように思います。サタンがヨブの妻のことばによって、ヨブを誘惑したのです。サタンは、ヨブについて、「彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」と言いましたが、ヨブの妻も、「神をのろって死になさい。」と、「神をのろう」ということばを共通して使っています。しかし、ヨブは、この誘惑に負けませんでした。ヨブは、妻をたしなめて、「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。」と言いました。聖書で言う「愚かさ」というのは、神を認めないことを言います。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」(詩篇14:1)とあります。ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(10節)と言って、神への信仰を捨てませんでした。幸いを受けたから神を信じる、わざわいを受けたから神から離れる、というのなら、それは、神を神として信じているのではなく、神のご利益を信じているだけになります。ヨブは、幸いの中にも、わざわいの中にも、神が変らず、ヨブの人生を導いておられるということを認め、それを、このようなことばで言い表したのです。息子、娘たちを失い、たったひとり残された妻から、慰められるどころか、さげすまれることほどつらいことはなかったと思います。しかし、ヨブは、誰が自分を見捨てても、神が自分を見捨てることがないことを知り、信じたのです。ヨブは、サタンの二度にわたる攻撃に対しても、その信仰を曲げませんでした。
これは、ヨブの罪に対する勝利でしたが、同時に神のサタンに対する勝利でもありました。神は、ヨブを信頼して、サタンにヨブを打つことを許したのですが、ヨブは神の信頼に答えたのです。人間が神を信頼するというのが普通で、神が人間を信頼するというのは、耳慣れないことかも知れませんが、実は、私たちが神に信頼する信仰は、神が私たちを信頼してくださっている、神の私たちに対する真実に基づいています。神は、私たちに数多くの恵みを注いでいてくださっていますが、それは、私たちが神の恵みを信仰をもって受けとめると、神が私たちを信じていてくださっているからです。もし、誰ひとり、イエス・キリストを受け入れないとしたら、神が、ご自分の御子を地上に遣わし、十字架に死なせたことは、まったく無駄なことになってしいます。神は、人間が、イエス・キリストを信じる信仰を持つであろうと、信頼し、また期待して、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。ある人は、神は全能なのだから、人間に信頼したり、期待したりせずに、人間を信じさせれば良いではないかと考えるかもしれませんが、信仰は、決して、他から強制されるものではありません。神は、私たちのこころに信仰が芽生えるよう、私たちの心を整えてくださいます。また、たとえ、私たちが不信仰であったとしても、「不信仰な私を助けてください。」と祈るなら、信仰を増し加えてくださるお方です。しかし、神は、決して私たちを無理やりに信じさせるようなお方ではありません。神は、真実に、私たちに信仰を求め、私たちの信仰の応答を待っていてくださるのです。
神がまず、私たちを信頼してくださっています。ことことを知って、神の信頼に答えようとすることが、私たちの信仰なのです。聖書は「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第一10:13)と教えています。その人に与えられた試練が大きければ大きいほど、神のその人に対する信頼は大きいのです。神はその人が、かならずその試練に耐えることができると信じていてくださっていればこそ、その試練をお与えになったからです。「神は真実な方ですから」と言われていますが、ここで使われている「真実な」という言葉は、「信仰」と訳されている言葉から出た言葉です。信仰とは、神の真実に、信頼し、それに答えることなのです。私たちの真実は、神の真実に比べれば、なんともちっぽけで頼りにならないようなものかもしれません。しかし、神の大きな真実に結び合わされる時、それは、誰も切り離すことのできない、神との絆となるのです。
ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言いましたが、私たちは、いざ苦しみに遭うと、「神がいるなら、なぜ、こんな苦しみに遭うのか。」とつぶやいてしまうかもしれません。神のみこころが見えない時、「神が苦しみさえも用いてくださる。」ということが、かえって、うっとしく感じられ、いっそ、それを運命だと思ってあきらめたほうが気が楽になると考えたりするかもしれません。しかし、そこには何の答えもなく、そこからは何の良い結果も生まれません。苦しみの中でただ悶々と暗い心のままで生きるとしたら、何とみじめなことでしょう。どんな苦しみもない人など地上にはいません。人は形は違っても、何らかの苦しみに出逢いますが、その苦しみをどう受けとめるかによて、結果が違ってきます。神は、苦しみの中にある人に、大きなことを求めはしません。ただひとつ、信仰を求めておられます。たとえ、苦しくても、神の真実にすがりついていく、神が私を信頼してくださっているのだから、私もまた神に信頼していく、そのような信仰によって、かならず、道が開かれ、神の真実をほめたたえることができるようになります。神を信頼する力、それは、神の真実が持つ力です。神の真実にむかって、私たちの信仰の手をさしのばそうではありませんか。神が、その手を握りしめてくださるのです。
(祈り)
神さま、あなたの真実こそ、苦しみの中での私たちの光です。その光をもって、私たちの苦しみの意味を知らせてください。真実なあなたに、私たちの精一杯の真実をささげます。真実な神、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
8/8/2004