33:14 「見よ。その日が来る。──主の御告げ。──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。
33:15 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。
33:16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」
一、預言のことば
今日は、アドベント(待降節)の第一日曜日です。「アドベント」とは文字通りには「到来」という意味があります。何かがやって来る、誰かがやって来る、指折り数えて待っていた、その日、その時がやって来るということです。神の民は、常に、神の国の到来を、救い主のあらわれを、解放と回復の時を待ち望んできました。特に暗い時代には、熱心に、救いの日を待ち望みました。
旧約時代の預言者エレミヤの生きた時代は、とても暗い時代でした。ユダヤの人々は、ダビデとソロモンの時代、平和で豊かでしたが、ソロモンの後、国が南北に分かれ、苦しい時代を通りました。それでも、それぞれは独立を保っていたのですが、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南王国ユダもバビロンに攻められ、王も指導者も捕虜としてバビロンに連れていかれました。バビロンから多額の貢物を要求され、国としての独立が保てなくなっていました。バビロンに逆らったユダは、ついに、首都エルサレムをバビロン軍によって包囲されてしまいます。
その時、預言者の多くは「心配するな。エルサレムに神殿がある以上、神はエルサレムを守ってくださる。だから、バビロンに立ち向かおう」と言っていました。そんな中で、エレミヤひとりが「バビロンに逆らってはいけない。そのくびきを負え」と預言しました。そのため、エレミヤは、捕まえられ、「監視の庭」というところに閉じ込められてしまいました。
「エルサレムに神殿がある以上、神はエルサレムを守ってくださる」というのは、いかにも、信仰的、愛国的な言葉です。それは人々の耳には、勇ましい言葉として、聞こえの良いものだったでしょう。しかし、それは神からのことばではありませんでした。その時のユダの国には、もはや真実な信仰が消え、ほんとうに国を思う人が途絶えていたのです。そんな中でエレミヤが神から聞いたとおりに預言のことばを語るのは、命がけのことでした。多くの預言者が時代に逆らって真実な神のことばを語ったため、苦しみを受けました。エレミヤもまた、捕まえられ、「監視の庭」に閉じ込められたのです。そればかりか、その庭の深い穴に、縄で縛られ、吊り降ろされ、泥の中に沈められました。しかし、人々がエレミヤを苦しめたことは、そのままユダの国にやって来る災いを示す預言となりました。やがてエルサレムが滅ぼされ、人々は、縄で縛られ、捕虜となってバビロンにひかれていく、栄光ある神の民なのに、泥まみれの辱めを受けるということを表わすものとなったのです。
神のことばは、それに逆らったからといって、それを押しとどめることはできません。神のことばを語る預言者を苦しめたからと言って、神のことばが力をなくすわけではありません。神のことばは、それに逆らった者に裁きとなって成就し、預言者を苦しめた者たちに災いとなって返ってくるのです。神のことばを常に聞いている私たちですが、それに慣れてしまって、神のことばを軽く扱っていないか注意したいと思います。
神のことばは、それを侮る者には厳しく立ち向かいますが、それを信じ、受け入れる者には、神の恵みと幸いを与えます。エレミヤは、偽りの預言者のように、人を喜ばせる言葉、気休めの言葉を語りませんでした。はっきりと、人々の罪を責め、神の裁きを宣告しました。しかし、同時に、神がその罪を赦し、人々を回復してくださる、その日、その時が必ず来ると預言し、人々に希望を与えました。やがて、ユダの国は滅び、王が途絶え、人々は他の国で奴隷となっていきます。しかし、神は、そこから人々を救い出し、もとの町に連れ帰ってくださいます。33章の6節から次のように書かれています。
見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダの捕われ人と、イスラエルの捕われ人を帰し、初めのように彼らを建て直す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。(エレミヤ33:6-8)いったい、歴史の中で、一旦滅びた国が再び興るということがあったでしょうか。どんなに力ある大帝国も、歴史の舞台から姿を消していきました。しかし神は、一旦滅びたエルサレムをもう一度よみがえらせると約束され、そのとおりのことをなさいました。しかも、その回復は、たんに政治的、経済的なものではなく、霊的なものでした。神に逆らい、神に滅ぼされた国が、神によって赦され、祝福され、再び神に従順な国になるというのです。イスラエルとユダの復興は、イエス・キリストによって私たちにもたらされた神の国を指す預言です。イエス・キリストの神の国は、ユダヤの人々だけに限らず、どの国のどんな人にも開かれています。どんな人でも、どんな状態に沈んでいたとしても、そこから解放され、神の義と愛とが支配する神の国の喜びの中に生きることができます。神の恵みによって赦され、いやされ、きよめられて、本来の自分へと回復していくのです。
14-16節は、人々を神の国へと導く、救い主を預言しています。
「見よ。その日が来る。──主の御告げ。──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」この箇所で「正義の若枝」と呼ばれているのはキリストのことです。王であり、主であるキリストは、人々を罪の奴隷から解放し、ご自分の民とし、その先頭に立って導いてくださるのです。
イスラエルの人々はエレミヤの預言のことばによって希望を抱き、主を待ち望み、ついに、預言の成就を見ることができました。私たちも、どんな苦しみの中でも、神のことばを信じ続けるなら、それが、明日を切り拓く希望となるのです。
二、希望のことば
神のことば、預言のことばは、じつに、信じる者には希望のことばです。エレミヤ29:11に「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ。──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」とあります。じつに神のことばは、私たちに「将来と希望を与える」ものです。神のことばがなければ、私たちは、将来に希望を持ち、救いの日を待ち望むことができません。
「待ち望む」、それは、信仰のことがらですが、考えてみれば、私たちの人生は、常に、何かを待ち望んで過ごしています。小さいこどものころは、幼稚園や学校に行く日をわくわくしながら待っていたことでしょう。成人した後は、学校を終えて社会に巣立つのを待っていたことでしょう。やがて、生涯のパートナーに巡り合い、結婚の日を待つ。子どもが与えられ出産の日を待つ。そして、今度は自分の子どもが学校に行く日、社会に巣立つ日、結婚して独立する日を待つ。このように、私たちは、やがてやってくる、さらに良いものを待ち望んで、過ごしているのです。
「明日はきっと良くなる。もっと明るくなる。」そんな確信があるから、たとえ今、どんなに辛いこと、苦しいことがあっても、それに耐えることができるのです。病気で入院することがあっても、必ず良くなるという希望があれば、退院する日を待ち望んで、痛みをこらえることができます。けれども、その病気が治らないもので、どんどん悪くなっていくとしたら、天国の希望がないかぎり、病気の人も、看病している家族も、毎日がどんなに辛いものになることでしょうか。
神を信じる者が、様々な困難なこと、とりわけ、自分の力でどうにもならないことで苦しむとき、もし、そこに明日への希望が、将来に関する神の約束がなかったら、どうやって困難を乗り越え、なおも、神に頼って生きていくことができるのでしょうか。希望を捨て、あきらめの中に生きるしかありません。信仰者に希望を与え、神を待ち望ませるのは、神のことばです。詩篇130:5に「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます」とあります。暗い時代であればあるほど、また、自分の人生で一番の谷底と思えるような時であればあるほど、その暗闇を照らす光、神のことばをしっかり握りしめていたいと思います。
iPhone や iPad などの新製品の発売日には、販売店の前に長い列ができます。徹夜で並ぶのだそうです。でも、その人たちは、どんなに寒かろうが、眠かろうが、平気です。誰よりも早く新しいものを手に入れたいという熱心があるからです。人々が地上の小さなことにさえ、それほどの熱意をもって行動するのだとしたら、神を信じる私たちは、霊的なことにおいて、それ以上に熱心でありたいと思います。ぼんやりと時を過ごす人にも、熱心に神を待ち望んで、励む人にも、一年は365日、一日は24時間、一時間は60分で、かわりはありません。しかし、主を待ち望む者には、その一時間が、一日が、また一年が密度の濃いものとなり、充実したものとなり、やがて来る、救いの日に、大きな喜びをもたらすものとなるのです。
今、困難な課題を抱えている人は、あきらめず、投げやりにならず、神がその困難の中に道を切り開き、明日に向けて進ませてくださることを、信じ、祈り求めようではありませんか。神は、「わたしは傷をいやす。建て直す。赦す」と約束しておられます。神はじつに回復の神です。今、特に大きな問題もなく、恵まれた生活を与えられている人は、そのことを感謝しながら、それを生かして神のために働くことができます。与えられている時間や能力、リソースを生かして、より価値あるもの、霊的なものを求めて進んでいただきたいと思います。「見よ。その日が来る。」そう信じて、神の救いの日を待ち望んだ信仰者たちに倣い、今週も、この礼拝から、明日に向かって歩み出しましょう。
(祈り)
父なる神さま、今朝、私たちは、「希望のキャンドル」に灯をともしました。「希望のキャンドル」は「預言のキャンドル」とも呼ばれます。あなたのことばが、私たちに希望をもたらすからです。旧約の神の民が、預言のことばによって救いの日を待ち望んだように、私たちも、みことばによってあなたを待ち望むことができますように。このアドベントに、あなたを待ち望むというレッスンをしっかり身に着けることができるよう、私たちを導いてください。救い主キリストのお名前で祈ります。
12/2/2012