31:1 「その時、──主の御告げ。──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」
31:2 主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」
31:3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
31:4 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。
31:5 再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。
31:6 エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」
一、真実の預言
ヨシヤ王がエジプト王との戦いで戦死してから、ユダの国はエジプトの支配のもとに置かれました。ヨシヤ王に代わってエホアハズが王になりましたが、エジプトはエホアハズを廃してエジプトに連れ去り、エホアハズの兄弟エルヤキムを代わりに王とし、エルヤキムの名をエホヤキムと改めさせました。エジプトがユダの王の名前を変えさせたというのは、エホヤキムが名前だけの王であり、実際はエジプトがユダを支配するようになったことを意味します。
このころ、バビロンのネブカドネザルはエジプトにまで勢力を伸ばそうとしていて、ユダに攻め込み、エホヤキムをバビロンに連れて行きました。それで、エホヤキムの子エホヤキンが王となりましたが、翌年、ネブカドネザルが再びやってきて、エホヤキンをもバビロンに連れて行き、エホヤキンの叔父マタヌヤをゼデキアと改名させ、王としました。エジプトがエルヤキムをエホヤキムと改名させたのと、同じことをしたのです。
ユダの末期の王の名前はどれも似ていて分かりにくいですが、ヨシヤ王の後の二人の王、エホアハズ、エホヤキムはエジプトに、その後のふたり、エホヤキンとゼデキアはバビロンの言うがままにされていたのです。
エレミヤは、ヨシア王、エホヤキム王、そしてゼデキア王の時代に神の言葉を語った預言者でした。ヨシア王までは、まことの神、主に対する信仰がありましたが、その後の王たちは、神の言葉に耳を傾けるような人たちではありませんでした。国が存亡の危機にあるのだから、主に頼るべきであるのに、それとは逆のことをしていたのです。王をとりまく指導者たちも堕落していました。彼らは、バビロンの力をその目で見て、知っていながら、エジプトと手を組めばバビロンの支配から逃れられるという気休めを語っていました。しかしエレミヤは、「バビロンはかならず攻めて来る。エルサレムの人々は捕虜となってバビロンに引かれていく。人々が最後の頼みとしている神殿さえも滅ぼされてしまう。だから今はバビロンに従ったほうがよい」と勧めました。
それでエレミヤは「非国民」、「売国奴」などと言われ、非難されました。また、彼らは神殿に偶像を置くなどして自ら神殿を汚していたにもかかわらず、主はご自分の神殿を敵の手に渡すことはない。だからエルサレムに神殿があるかぎり、バビロンは攻めて来ないとも言っていました。それでエレミヤは「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」(エレミヤ6:14)「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない」(同7:4)と言って、人々に真実の言葉に耳を傾けるように言いました。そのためエレミヤは投獄されたり(同32:2)、泥の穴の中に投げ込まれたりしました(同38:6)。主からの言葉を語らず、指導者や民衆に媚びて、聞こえの良いことだけを口にする預言者もありましたが、エレミヤは、決して神の言葉を曲げず、真実だけを語り続けました。人は、真実な神の言葉によってだけ生かされ、国は、真実と正義を基盤にしてはじめて立つことができるからです。聖書は、終わりの時代には「主のことばを聞くことのききん」(アモス8:11)が来ると言っています。いつの時代も、私たちは、真実な主の言葉を求めていきたいと思います。
二、愛の預言
エレミヤは「涙の預言者」として知られています。それは、エレミヤ書に次のような言葉があるからです。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」(エレミヤ9:1)「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ。」(同13:17)「あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は夜も昼も涙を流して、やむことがない。私の民の娘、おとめの打たれた傷は大きく、いやしがたい、ひどい打ち傷。』」(同14:17)こうした言葉は、主がユダの民のために泣くほどに悲しんでおられると言っているのですが、この言葉を伝えたエレミヤ自身もまた人々のために涙を流したに違いありません。
エレミヤの涙は、主の言葉を語っても人々がそれを聞いてくれないことに対する「悔し涙」ではありませんでした。真実を語ったために苦しめられるという理不尽に対する嘆きの涙でもありませんでした。エレミヤの涙は、主が人々を愛して流されたのと同じ愛の涙でした。
皆さんの子どもが、悪い人々に騙され、その仲間になり、犯罪の片棒をかつがされたりしたとしたら、皆さんの心にどんな感情が起こるでしょうか。「なんと馬鹿なことをしたのだ」という怒りの感情でしょうか。「ああ、もっと厳しく育てておけばよかった」という後悔の念でしょうか。それとも、「これでこの子の人生もおしまいだ」という絶望の気持ちでしょうか。おそらく、そのどれでもないでしょう。子どもを愛する親なら、自分の子をあわれむ悲しみの感情が、真っ先に起こってくるだろうと思います。そして、それは、自分の子どもをなんとかして立ち直らせてやりたいという積極的な思いに変えられていくことでしょう。エレミヤ書に書かれている主の悲しみは、子を愛するように神の民を愛された、父なる神の愛を示しています。
父なる神とともに、御子イエスも、その民のために涙を流されました。イエスが弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と聞いたとき、弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています」と答えました(マタイ16:14)。イエスを「エレミヤ」だと言った人々は、イエスがしばしば、人々のために涙されたことを見て、「涙の預言者」エレミヤと結びつけたのだと思われます。ヨハネ11:35は「イエスは涙を流された」と言っています。これは英語では “Jesus wept.” で、ふたつの単語しかない聖書で一番短い節です。聖書を章と節に区分した人が、この言葉を独立した節にしたのは、この短い言葉の中にイエスの愛が凝縮されていることを見抜いたからだと思います。
父なる神、子なる神とともに、聖霊なる神も悲しまれます。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけません」とある通りです。たとえうわべだけは信仰者らしくふるまっていても、内面にそれとは逆の思いを持っているなら、私たちのうちに住まわれる聖霊は、それをご覧になって、悲しまれるのです。しかし、聖霊の悲しみもまた、私たちのための悲しみ、私たちを愛するゆえの悲しみです。私たちが聖霊と共に自分の罪を悲しみ、悔い改めるなら、私たちはその罪からきよめられ、再び喜びと祝福を取り戻すことができるのです。悲しみの涙の背後にある主なる神の深い愛は、預言者エレミヤ以来、今にいたるまで、私たちに告げ知らされています。
三、希望の預言
エレミヤ31:16で、主はこう言われました。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主の御告げ。──彼らは敵の国から帰って来る。」ユダの人々のために涙を流してくださった神が人々には、「泣くな」と言っておられるのです。エルサレムがバビロンに滅ぼされ、人々はバビロンに連れて行かれます。しかし、その刑罰は永遠ではありません。きよく、正しい神は、罪を犯した人々を裁かなければなりませんが、その刑罰が終わったとき、神の民を回復させてくださるのです。主は「彼らは敵の国から帰って来る」と言われました。涙が喜びに変わる日が来ると言われました。主はエレミヤを通して最初に「真実な預言」を、次に「愛の預言」をお与えになりましたが、ここでは「希望の預言」を与えておられるのです。
エレミヤ29:11にこうあります。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ。──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」主は、偽りの預言者たちが「平安だ、平安だ」と言って安心しきっているとき、エレミヤを通して「わざわい」が来ると警告されました。しかし、人々が「わざわいだ、わざわいだ」と言って絶望しているとき「平安」を宣言し、人々に希望をお与えになりました。人の目には、わざわいしか見えない時でも、主は私たちのために将来の平安を準備しておられるのです。私たちも、たとえ、苦しみしか見えない時でも、主のご計画に従って生きるなら、私たちは、必ず、希望ある将来へと導かれるのです。
主は、この希望を確かな契約として人々に与えてくださいます。バビロンに捕らえられた民が帰って来る時、神は、もういちど、彼らの神となり、彼らが神の民となると、エレミヤ31章は告げています。つまり、神と神の民との契約が更新されるというのですが、それは、エレミヤ31:31に「見よ。その日が来る。──主の御告げ。──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」とある通り、「新しい契約」と呼ばれるほどのもので、今までのものとは違っていると言われています。その契約の内容は、主が人々の神となり、人々がその民となるというもので、それは、以前の契約と変わるものではありません。契約の当事者である主は変わることはありません。変わるのは人間のほうです。実際、神の民は契約に背く者へと変わってしまいました。しかし、主は、そうした神の民を造り変えて、神の契約を心に刻み、そこから離れない者にすると言われました。バビロンから帰って来る人々との契約が「新しい契約」と言われるのは、そのためです。実際、それまで偶像礼拝をしていたイスラエルの人々は、バビロンから帰ってきた時には偶像から離れ、二度と偶像礼拝をしませんでした。
けれども、新しい契約が完全な形で成就したのは、イエス・キリストによってです。イエス・キリストが全人類の罪の赦しのために十字架でご自分を捧げられたことによって、私たちに完全な赦しが与えられました。キリストの復活と昇天ののち、聖霊が信じる者のうちに住み、信じる者を内側からきよめてくださいました。エレミヤ31:33-34に「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──主の御告げ。──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」とあることが、イエス・キリストによって、聖霊を通して、今の「新約」の時代に成就したのです。
この新しい契約は、主の愛から生まれたものです。主は言われます。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(3)主は、永遠の愛で私たちを愛し続け、決して裏切らないと約束し、それを変わらない契約とされました。主は真実と愛をもって私たちに語り続けておられます。「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と。私たちも主に答えましょう。「あなたは私の神、私はあなたの民です」と。
(祈り)
永遠の愛で、私たちを愛してくださる真実な神さま。今朝も、あなたの真実と、愛と、希望の言葉を聞かせてくださり感謝します。あなたの預言は、イスラエルの歴史の中で証しされ、イエス・キリストによって成就し、聖霊によってより確かなものになりました。私たちを真実と愛と希望をもたらす新しい契約に生きる者としてください。キリストの恵みにより、聖霊の力によって、そのことを成し遂げてください。主イエスのお名前で祈ります。
11/3/2019