31:1 「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。
31:2 主はこう言われる、「つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めた時、
31:3 主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに/真実をつくしてきた。
31:4 イスラエルのおとめよ、再びわたしはあなたを建てる、あなたは建てられる。あなたは再び鼓をもって身を飾り、出て行って、喜び楽しむ者と共に踊る。
31:5 またあなたはぶどうの木をサマリヤの山に植える。植える者は、植えてその実を食べることができる。
31:6 見守る者がエフライムの山の上に立って/呼ばわる日が来る。『立って、シオンに上り、われわれの神、主に、もうでよう』と」。
一、人の不真実
日本でのことですが、高層住宅のつなぎ目に段差ができたり、ドアが開きにくくなったりなどしたため、調べてみたら、なんと基礎工事に手抜きがあり、工事結果のデータが偽造されていたということが発覚しました。そうした建物を購入した人は大きな損害を受けたわけで、それをどう補償するか、また、そこに住む人たちの不安をどう解消するかということが、大きな問題になっています。同じようなことは10年ほど前(2005年)にもありました。建築士が建物の耐震構造の計算を偽造していたという事件です。建物に使う鉄骨の量が少なくて済むような計算結果を出せば、施工業者に喜んでもらえ、そのことで自分のところに多くの仕事が回ってくる。建築はそんなことを考えて、そんなことをしたのですが、そんな設計によって建てられたところに住む人はたまったものではありません。ちょっとした地震で崩れてしまうようなら、命にかかわります。こういう「不正」、「偽装」、「ごまかし」が近年、急に増えたように思います。それは日本だけでなく他の国でも同じです。人々が目先の利益だけを求めて、「真実なこと」を尊ばなくなってきたからでしょう。
「真実なこと」が尊ばれなくなっているのは、身近かなことでも感じられます。人と人との約束が軽く扱われるようになりました。「はい、返事します」と言われ、待っていても、いつまでたっても返事が返ってこなかった。「はい、行きます」と言われて、待っていても、結局来なかったなどといったことを、皆さんも、多かれ少なかれ体験していると思います。もちろん、いろんな事情で、そのとおりにできないことがあります。そんな時は前もって連絡があったり、後からでも「すみません」のひとことでもあればよいのですが、連絡も無しにすっぽかされ、知らん顔をされると、「あの人は最初から守る気持ちがなくて約束したのかなぁ」と思ってしまうことがあります。
わたしがかかっているクリニックでは、連絡無しにアポイントメントをすっぽかしたら50ドルの罰金を払わなくてはなりません。以前はそんなことがなかったので、クリニックで書類にサインするとき、びっくりしました。アポイントメントを守らない人が多くなったので、そんなことになったのかもしれません。人の心を大切にするために、約束したことは守る。かつてあった、そんな誠実な態度が、さまざまな分野で無くなりかけているようです。世の中をうまく渡り歩くことが出来る人が良い目を見るような時代です。しかし、最終的に祝福を受けるのは、真実を求める人です。不正やごまかしは、やがては明らかになり、大きな損害となってその人に戻ってきます。
今朝の聖書、「エレミヤ書」が書かれた時代は、ユダの国が北はバビロン、南はエジプトという大国に挟み撃ちにされ、その脅威にさらされていた時代でした。国がそんなに大変な時なのに、その社会には、不正がはびこり、力のある者が力の無い者たちから金銭をむしりとり、自分の財産を増やすようなことをしていました。神は「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす」(5:1)と語られましたが、現状は「小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っている」(エレミヤ6:13)というありさまでした。
社会に真実がみられないのは、人々が神への真実をなくしたからです。ユダの人々はまことの神を知る人たちでした。なのに、彼らは、自分たちの神、まことの神を捨てて、外国の神々、偽りの神々に心を寄せたのです。まことの神を捨てて、どうしてその人の生き方の中に正義が生まれ、社会に公平が保たれるでしょうか。人々が神から離れたため、ユダの国は乱れ、滅亡への道を歩んだのです。歴史をふりかえってみると、ほとんどの国が内部の道徳的な乱れや政治の腐敗から滅びていったことがわかります。ヨーロッパやアメリカなど、信仰に基づいて建てられた国々では人々の信仰が失われていったとき、社会が乱れ、国が問題をかかえるようになりました。神は、ユダの国が滅びないよう、幾度も、幾度も「背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす」(エレミヤ3:22)と呼びかけ、人々に悔い改めを呼びかけました。しかし、人々は悔い改めを拒んだのです。間違った生き方をしていて悔い改めを拒むというのは、どんな光も受け入れないことです。それは人の心にも、社会にも深い闇を招くことになります。神を知る人々が闇の中にとどまっている。これほど残念なことはありません。
二、神の真実
では、神は悔い改めを拒んだ人々をどうされたのでしょうか。彼らを容赦なく裁かれたのでしょうか。神がそうなさったとしても、誰も文句は言えません。神は、従わなかった者たちを厳しく罰することによって、ご自分の正義を表わし、人々に神への恐れを教えることがおできになりました。しかし、神は、正義の神であるとともに、あわれみといつくしみの神です。神は、かつて、イスラエルの人々を選んで、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束されました。また、ダビデを選んで、「あなたの子孫は神の民の王となる」と約束されました。真実な神は、その約束を覚えておられ、それを反故にはされませんでした。神は、その約束のゆえに、バビロンに滅ぼされ、バビロンの国に移されたユダの人々をそこから連れ出し、ふたたびもとの場所に戻されるのです。たとえ神殿が跡形もなく破壊されたとしても、それはもういちど建てなおされるのです。人々は、まことの神に立ち帰り、まことの神を礼拝する時がやってくるのです。今朝の聖書の言葉はそのことの預言です。
この預言は紀元前538年に実現しました。この預言は神の真実によって成就しました。神は言われます。「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(3節)ここで、神は、イスラエルをご自分の「配偶者」にたとえ、まるで夫が妻を愛するように愛してきたと言っておられます。ところが、「妻」であるイスラエルは、何度も夫を裏切り、他の男性に走りました。つまり、まことの神を捨てて、偶像礼拝にふけったのです。それでも神はイスラエルを待ち続け、イスラエルに誠意を尽くし続けました。神の、この真実な愛がイスラエルに回復をもたらしたのです。
この愛は、わたしたちにも同じように注がれています。バビロンに囚われていたユダの人々が解放されたように、罪に囚われていたわたしたちも、イエス・キリストによって解放されるのです。ユダの人々が自分たちの土地に帰っていったように、わたしたちも、まことの神を信じ、キリストに従って生きる、本来の生き方へと、イエス・キリストによって立ち返ることができるのです。
偽りのものは、しばらくは魅力的に見えても、いつか消えてなくなります。しかし、真実なものは、決して無くなりません。神の真実は変わることがありません。聖書に「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」(テモテ第二2:13)とあります。神は常に真実です。真実であることは神の本性なのです。神が真実であるからこそ、神の言葉も真実であり、それは必ず成就するのです。神が真実であるからこそ、神の愛も真実であり、それは決して変わることがないのです。わたしたちは、この神の真実によって、救われているのです。
三、真実への応答
真実な神がおられる。それで、そこに信仰が生まれます。神が真実でないなら、わたしたちは、何をも信じることができません。偽りの神々、きまぐれで、あてにならない神々には、誰も信頼を寄せることはできません。真実な神がおられなければ、そこには真実な信仰は生まれません。「いわしの頭も信心から」という言葉があります。人間のまごころがあれば、信仰の対象は何でもよいのだというわけです。真実なものがなくても、人間のまごころがあれば信仰が成り立つというのです。しかし、聖書は「神は真実である」と言っています。真実な神から真実な信仰が生まれると教えています。
ギリシャ語では、神の「真実」とわたしたちの「信仰」とは同じ言葉で表わします。つまり、信仰とは、真実な神に信頼すること、神の真実にわたしたちの側の精一杯の真実で答えることなのです。信仰の決断を後回しにしている人がこんなふうに言いました。「信仰を持ったとしても、果たして最後まで信仰を保ち続けられるかわかりません。途中でギブアップしてしまう、いいかげんな信仰を持つくらいなら、最初から信仰を持たないほうがいいと思います。」その人は信仰を真面目に考えていましたが、信仰を人間の真実だけで成り立つものと考えていました。神の真実にくらべて人間の真実は小さなものです。わたしたちの精一杯の真実にも、何かの不足があり、不純なものが混じることがあります。この人はそのことがわかり、人間の真実の限界を素直に認めました。自分の真実で自分を支えることが信仰なのではなく、神の真実によって支えられていくのが信仰であることが分かって、信仰の決断の一歩を踏み出しました。
ヨハネ第一1:9に「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」とあります。「神は真実で正しいかたであるから」と言われていますが、神が「真実で正しい」お方であるなら、わたしたちの罪や不義を見逃すことなく、お裁きになって当然です。しかし、神の「真実」には、愛が含まれています。あわれみが、恵みが含まれています。神は、イエス・キリストの贖いのゆえにわたしたちを赦すと約束された、その約束に真実であるゆえに、わたしたちの罪を赦してくださるのです。罪の赦しもまた神の真実に基づいています。そして、それは神の真実に基づいているゆえに、確かなものなのです。しかも、神は、罪を赦してくださるだけでなく、そこからきよめてくださり、わたしたちをより神の真実へと近づけてくださるのです。
自分の罪を認める者が罪を赦される。自分の不真実を正直に認める者が真実なものにされていく。自分の無力を認める者が強められる。自分の不完全さを認める者が完全なものにされていく。聖書にはそんな逆説がたくさんあります。信仰生活は、何の失敗もない、真実一路の生活ではありません。そこには誘惑も、試練も、つまづきも、迷いもあります。自分の不真実さを思い知らされるときもあります。しかし、神はそんなわたしたちにも常に真実です。わたしたちはこの神の真実に信頼して、真実な者とされていくのです。
わたしたちは、この神の真実への応答を「アーメン」という言葉で言い表わします。「アーメン」とは、「真実、そのとおりです」という意味です。祈りの最後に「アーメン」と言うのは、「真心から祈ります」という意味で、それはとても力強く、麗しいものです。しかし、時によっては「アーメン」と言いにくいことがあります。祈っていながらも、神が聞いてくださるという確信を持てないときがそうです。また、捧げられた祈りがあまりにも立派に聞こえ、わたしにはその通りに祈れないと感じるときもあるでしょう。「主の祈り」の最後は「アーメン」なのですが、自分の心が「主の祈り」についていかず、口先だけで祈ってしまったと感じるときもあるでしょう。しかし、そんな時でも「アーメン」と唱えたいと思います。たとえ自分の真実が足らなかったとしても、神は、神の真実のゆえにこれを聞いてくださる。そう信じて、神の真実、神の「アーメン」に頼りながら、祈りをささげていきたいと思います。
(祈り)
真実な神さま、あなたはその変わらない真実で、わたしたちを救ってくださいました。わたしたちの目を常にあなたの真実に向けさせてください。あなたの真実なお言葉に「アーメン」と答え、主が授けてくださった祈りを心から「アーメン」と唱えて祈る者としてください。「アーメン」であるお方、イエス・キリストのお名前で祈ります。
11/1/2015