信仰と行い

ヤコブ2:14-19

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2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 一、頭だけの信仰

 さて、きょうは、「ヤコブの手紙」から、信仰と行いについて書かれているところを学びます。人は、イエス・キリストの福音を聞いて、信じて、救われるのですが、「信じる」とはどうすることでしょうか。イエス・キリストの福音を信じる「信仰」とはどんなものなのでしょうか。「信仰とはどんなものか」を学ぶ前に、それが「どんなものでないか」を学んでおきましょう。本物の「信仰」でないものに三つのものがあります。「頭だけの信仰」、「感情だけの信仰」、そして「利益だけの信仰」です。

 「頭だけの信仰」というのは、イエス・キリストの福音について、それを知識として知っているだけというものです。もちろん、信仰に知識がいらないわけではありません。むしろ、聖書は私たちに「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と教えています(ペテロ第二3:18)。私たちの信仰は盲信でも迷信でもありません。確かな事実、正しい知識に基づくものです。しかし、「イエス・キリストを知る知識」とは、たんに聖書の物知りになることや、神学を勉強するといったものではありません。人が人を知るということが、その人の経歴を調べるなど、その人のデータを集めることではないのと同じです。そんなデータを集めるのは、人材派遣会社や会社の人事部がやることであって、それは、人を人格として知ることとは違います。イエス・キリストを知るとは、友と友とが心を打ちあけあって語りあい、お互いの内面を知り合うことに似たものです。

 聖書や神学は、信仰を持たない人によっても研究されており、その研究の中には優れたものも多くあります。聖書が歴史的に正確で、新約聖書が紀元一世紀には成立しており、イエス・キリストの復活が信じられていたことを証明する研究が数多くあります。なのに、そうしたことを研究している人がイエス・キリストを信じていないのです。とても残念なことです。信仰には知識が必要ですが、知識だけでは信仰にはならないのです。

 きょうの箇所の19節に「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています」とあります。これは、イエスが宣教を開始されたとき、悪霊が「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」(マルコ1:24)と叫んだことを指しています。悪霊は、イエスを特別なお方として知っていましたが、悪霊の持っていた知識は、彼らを救いませんでした。それで、「頭だけの信仰」は「悪霊の信仰」とも呼ばれてきました。神は人が悪霊と同じようになることを望んではおられません。だれもが悔い改めて救われるようにと願い、福音によって信仰に招いてくださっているのです。

 二、感情だけの信仰と利益だけの信仰

 次に「感情だけの信仰」ですが、これは、表面的で一時的な感情の動きだけで終わってしまうもののことを言います。「キリスト教」へのあこがれや好意といったものは、このカテゴリーに入ります。最近(2017年)、「日本研究」のため群馬大学で学んでいるイタリア人留学生が、群馬大学の学生の宗教意識を調査したものを見つけました。それによると、「あなたが信仰している宗教も含めて、親しみを感じる宗教はどれですか」という質問に、20パーセントが「仏教」と答えていました。その次に多かったのが「キリスト教」で10パーセントありました。結婚式は「キリスト教式で」と言う人や十字架のペンダントを身に着ける人も大勢います。十字架のペンダントは「イエス・キリストの十字架と復活によって私は救われた」ことのリマインダーや信仰の告白として身に着けるのには意味がありますが、悔い改めて福音を信じていなければ、それは、たんなるファッションや、神社でもらってくる「お守り札」と同じようなものになってしまいます。

 このような、一時的、感情的な信仰は、「種蒔きの譬」の「岩地に落ちた種」に描かれています。その種は芽を出しても、根がないために枯れてしまいました。福音を聞いても、その心が岩地のように固いままなので、福音がその人のうちに根付かないのです。キリスト教に対する表面的な共感と、悔い改めてイエス・キリストを自分の人生に受け入れることとは違うのです。

 第三の「利益だけの信仰」は、英語では「奇蹟の信仰」と言います。イエスが、5千人もの人々にパンを与えた後、その奇蹟を体験した人々が、イエスを追いかけ、同じ奇蹟をしてもらおうとしたことから、そう呼ばれるようになりました。イエスが人々にパンを与えたのは、イエスこそ「いのちのパン」であること、つまり、人々に永遠のいのちを与えてくださるお方であることを示すためでした。イエスは、この奇蹟によって、イエスが罪の中に死んでいる者を生かしてくださるお方、信じる者に永遠の命を与える救い主であることを、人々が信じることができるようにしてくださったのです。それなのに、人々は永遠の命という最高の恵みではなく、パンで胃袋を満たすという一時的な満足しか求めなかったのです。イエスは彼らに「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(ヨハネ6:27)と言われましたが、この言葉は、「奇蹟の信仰」、日本人に分かりやすく言えば「ご利益信仰」に対するイエスの悲しみがこもった言葉でした。イエスは、私たちに、このような間違った信仰ではなく、まことの信仰を持つようにと教えておられます。

 三、まことの信仰

 では、まことの信仰とは、どういうものでしょうか。私は、信仰を表すのに、三角形を書き、底辺と、真ん中と、頂点の三つに分けます。底辺に来るのは「知識」です。これは、聖書や神、救いについての知識です。信仰に正しい知識は必要で、それは多いほうがよいに決まっています。三角形は底辺が広ければ安定するのと同じです。その上に来るのは「理解」です。知識は客観的なものですが、「理解」は主観的なものです。「イエス・キリストが十字架で死なれ、三日目に死人のうちから復活された」というのは、客観的な知識です。しかし、知識だけでは信仰にはなりません。知識によって知った事実、真理が、自分のためであったと分かる必要があります。イエスの十字架が私の罪の赦しのためであり、復活が私を救うためであったと分かること、つまり、客観的な知識が、「私のため」という主観的な理解に至る、これが信仰です。ローマ4:25に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」とあって、「私たちのため」「私のため」という言葉が入っています。使徒信条も「私は…信じる」と言っています。こうした言葉は単なるステートメントではありません。この「私」は、神を「私の神」として、イエス・キリストを「私の主」として、聖霊を「私の助け主」として信じますという信仰の告白なのです。

 そして、この三角形の頂点には「信頼」という言葉が入ります。「信頼」とは、人格的なものです。イエス・キリストを「私の救い主」「私の主」として受け入れたなら、その時から日々、イエス・キリストに信頼しながら、一日一日を人生の最後まで歩んでいくのです。そうです、「日々」です。「毎日」です。今日は信頼するが、明日は信頼しないというのは、本当の信頼ではありません。信仰は決して一時的なものではありません。気分がいいから信じる、気分が悪いから信じない、都合のよいことが起こったから信じる、思いどおりにならなかったから信じないといったものではありません。今、目に見えるところがどうであれ、神が、ご自分のひとり子イエス・キリストを私たちに賜ったほどに私たちを愛してくださっている、この事実を確信して、天の父である神をほめたたえ、私たちの主イエス・キリストに信頼し、私たちの助け主、聖霊に委ねて生活し、人生を生きること、それが信仰です。

 きょうの箇所は、まことの信仰は、頭だけのものでも、感情だけのものでも、また、言葉だけのものでもない、それは実際の行いとなって生活に現われてくるものだということを言っているのです。18節に「行いのない信仰」という言葉がありますが、ここで言う「行い」は決して、何かの儀式を繰り返したり、特別な決まりに従うといった宗教的な「修行」のことではありません。来世の幸福を保証するために行う「善行」のことでもありません。そういった「行い」で人は救われません。罪の問題は、そうしたことで解決するほど簡単なものではないからです。人を罪から救ってくださるお方はイエス・キリストの他なく、私たちが救われる手段は、イエス・キリストを信じる「信仰」の以外にありません。「行い」から「救い」は生まれません。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)とある通りです。しかし、「救い」からは「行い」が生まれます。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)とあります。ですから、「行いのない信仰」とは、本当の信仰ではないということになります。

 自分の「行い」を振り返ってみて、「私は大丈夫」と言うことができる信仰者はだれひとりいないでしょう。信仰が深まれば深まるほど、より謙虚にさせられ、自分の足らなさが見えてくるものです。自分の信仰が「行い」を生み出しているだろうかと反省してみることは大切なことですが、あまりにもそのことだけにこだわると、「信仰によって救われる」という恵みを見失ってしまいます。信仰は行いを生み出すのですが、信仰から直接行いが出てくるのではありません。イエス・キリストを信じる信仰が救いをもたらし、その救いから行いが生まれるのです。「信仰」と「行い」の間に「救い」があることを、そこにイエス・キリストがおられることを忘れないでください。行いの足らない自分であるからこそ、キリストに信頼するのです。信仰によってキリストにつながってこそ、行いの実を結ぶことができるのです。

 まことの信仰は神からの賜物です。そしてすべての賜物は神から来るのです(ヤコブ1:17)。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)と言ってイエスに願った人のように、信仰を求めましょう。神は信仰を求める者を拒むことはありません。神は「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる」(ヤコブ1:5)お方です。自分の足らなさを知って、神に求めましょう。神は求める者に答え、その人を満たしてくださいます。

 (祈り)

 父なる神さま、きょうは、あなたが求めておられる信仰がどんなものであるかを学びました。生まれながらの私たちの信仰は、信仰とは呼べないようなもので、あなたのみこころにかなうものではありません。そのこと認めて、まことの信仰を求めるとき、あなたはそれを私たちに与えてくださいます。そして、私たちの小さな信仰を養い育ててくださいます。私たちを、なおも、まことの信仰に導いてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。

1/31/2021