1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
一、宗教とは
今月初め(2022年7月8日)、日本の元首相が銃で撃たれ、亡くなりました。容疑者は「統一協会」という宗教団体によって一家が破綻したため、その団体を憎み、それと関わりのあった元首相を狙ったと自供しています。この事件は間違った宗教がどんなに人の人生を狂わせ、犯罪をもたらし、社会を不安に陥れるかを物語っています。この人のしたことは決して許されることではありませんが、彼もまた、間違った宗教の被害者であったと思います。
統一協会は文鮮明(ムン・ソンミョン)が1954年に始めたもので、自分をキリストの再来であると主張していました。彼は「国際勝共連合」というものを作り、共産主義に反対する政治家と結びつき、勢力を伸ばしました。彼は本部をアメリカに移し、アメリカのメディアを買収しました。その資金の多くは日本で「霊感商法」という詐欺によって得たものでした。彼が主催した「合同結婚式」もまた、問題だらけのものでした。彼は1982年に脱税の罪を犯し、アメリカで刑に服しています。文鮮明は2012年92歳で亡くなりましたが、後継者によって今も、活発に活動しています。
統一協会はキリスト教ではありませんが、一般の人々にはそんなことは分かりませんので、普通の教会までも怪しまれました。日本では、他にも「モルモン教」や「ものみの塔」も盛んに活動していますので、日本の多くの教会は「私たちは正統的なプロテスタント教会で、モルモン教、ものみの塔、統一協会と関係はありません。これらのことでお困りの方はご相談ください」と教会案内に書くようになりました。
1995年に「オウム真理教」が「世の終わり」を演出するため、地下鉄サリン事件を起こしてからは、多くの日本人に「宗教は怖いもの」という観念が植え付けられました。そのため、その時以来、日本では福音の伝道が停滞しています。これはとても残念なことです。
英語で「宗教」は“religion” ですが、この言葉はラテン語で「結びつける」という意味の言葉から生まれたとされています。最初の“re” は、「強く」という意味ですので、“religion” は、「人が神にしっかり結びつく」という意味になります。そこから、「信心深いこと」や「礼拝」、また、「宗派」などを表すのに使われるようになりました。
宗教とは、ほんらいは、神と人とを結ぶもの、また、人と人とを結ぶものです。人は、まことの神によって造られましたから、すべての人は、神に結ばれてこそ、生きる意味や目的を見出します。また、人は、他の人と健全な関係を持つことによって幸いな人生を送ることができます。それを与えるのが宗教です。しかし、その宗教が人をまことの神ではなく偽りの神々や、邪悪な人間、組織、制度、戒律に結びつける、いや、縛りつけるものであるなら、確かに、そうした宗教は恐ろしいものになってしまいます。多くの人は間違った宗教を見て、どんな信仰も否定し、無神論者、唯物論者、世俗主義者になるのです。ある統計によると現在、世界人口の30パーセントがクリスチャンで、ムスリムと無神論者がそれぞれ15〜16パーセント、残りが仏教や諸宗教です。クリスチャンが減り、無神論者が増えていると言われています。
間違った宗教、偽物の信仰があるということは、ほんとうの宗教、正しい信仰があるということを教えています。どんなものでも本物があるから偽物が生まれるのです。ほんとうの信仰は知性を退けません。私たちは、知性を働かせ、本物と偽物とを区別し、まことの宗教、正しい信仰に立ちたいと思います。
二、誤った宗教
では、正しい宗教と間違った宗教を区別するにはどうしたらよいでしょうか。世界には数え切れないほどの宗教があり、すべてをとりあげることができませんので、きょうは、さきほど名前をあげた「モルモン教」、「ものみの塔」、「統一協会」などを念頭において話します。
間違った宗教は、当然のことですが、それが立っている教えが間違っています。聖書を使ってはいても、聖書が教えることに従わないのです。聖書以外の「教典」があって、それが聖書よりも権威があるのです。たとえば、モルモン教の場合、この宗教を始めたジョセフ・スミスが書いた『モルモン教典』が、旧約、新約に続く第三の聖書になっています。ものみの塔は、自分たちの教義に合わせて訳した聖書、『新世界訳』しか認めず、しかもそれは、組織が定めた解釈にそってしか読むことができません。「人間の解釈」が「神の言葉」よりも権威があるのです。統一協会の教典は文鮮明が書いた『原理講論』で、そこにはアダムとエバの堕落に関する荒唐無稽な物語が書かれています。聖書を神の言葉と信じ、ただ一つの最高の権威として認めることがなければ、このような「作り話」が果てしなく生まれ、人々を惑わすのです。
聖書の教えで一番大切なことは、「イエス・キリストがどのようなお方であるか」ということです。イエスは弟子たちに「人々はわたしをだれだと言っていますか」と質問しました。弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます」と答えました。イエスはそうしたことを聞いた上で、もう一度、弟子たちに尋ねました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが弟子たちを代表して答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)イエスはこの告白の上に教会を建てると言われました。人はこの告白によって救われます。この告白を持たない教会は本物の教会ではありません。モルモン教も、ものみの塔も、統一協会もイエスを神の御子とは認めていません。ヨハネ第一4:1-3にはこう教えられています。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」これは一世紀に書かれた言葉ですが、今の時代にはもっと切実なものとなっています。
間違った教えについては、すこし考えればその間違いが分かるのですが、異端的な宗教は、人々に考えさせないようにします。とくに統一協会では、若者を家族や社会から隔離し、集団生活をさせて管理し、洗脳します。若者たちは、組織の言うがままに、安っぽい壺や置物、あるいは印鑑などを高額で売りつける詐欺行為をしても、まったく罪悪感を持たず、かえって、それが「世界を救う」のだと信じ込んでしまうのです。
私の知り合いの牧師が統一協会から若者を救い出すために働いていましたので、日本にいたとき、少しばかり手伝ったことがあります。そのとき「洗脳」の恐ろしさを目の当たりにしました。多くの人の祈りと努力によって若者たちが理性を取り戻し、正しく神を信じ、家族のものとに返って行くのを見ました。そのうちの何人かが神学校に入って牧師になりました。どんなに世の中に偽りが満ちても、なお、神の真理の光が消えていないことを、感謝したことでした。
また、偽りの宗教では「教祖」と呼ばれる人が、絶対的な権限を持っていて、その組織を思いのままに動かします。そうした「教祖」たちは、きまって「神から示された」、「神から使命を受けた」と言うのですが、実際は自分の願望、計画を成就させるために、信者や他の人々を利用しているに過ぎないのです。こうしたことは宗教団体だけでなく、さまざまな団体で起こることです。「人権団体」を名乗っている組織の責任者が人々から集めたお金で、カリフォルニアに家を4軒も買っていた、しかも、その一つはプライベート・フライトのための滑走路まであったということがニュースになりました。そうしたことは、まさに、人々の善意を裏切る行為です。
もし、宗教者が同じようなことをするなら、それは人を裏切るだけでなく、神をも裏切ります。最初は正しい動機で始めたことでも、教会が大きくなり、牧師が有名になると、まるでセレブ気分になってあちらこちらで高い講演料を受け取ってスピーチをするようになり、その語ることが福音から離れていった人を、私は何人か知っています。それは、イエスに従う人の姿ではありません。それは伝道ではなく「宗教ビジネス」です。そういうことがあるために、人々が信仰から離れていくのです。そういう人たちが「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか」と言ったとしても、イエスは、その人にこう言われるでしょう。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:22-23)
三、正しい信仰
偽りの宗教、誤った信仰には、他にも多くの特徴があります。きりがありませんので、次に、聖書が教える「まことの宗教」について学びましょう。
ヤコブはこう言っています。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(26節)「自分の舌にくつわをかけず」というのは、たんに「おしゃべり」だということではありません。ヤコブ3章に「舌」を制御することの難しさが書かれていますが、そこに「多くの者が教師になってはいけません」(3:1)と戒められています。これは、その戒めに関連しています。人は少し物知りになると他の人に教えたがるようになります。しかし、しっかりした訓練を受け、他から学ぶ謙遜さを持たないで「教師」になってしまうと、語ってはならないことや語らなくてよいことまで口にして、聞く人を惑わせたり、躓かせたりしてしまいます。そうしたことを反省し、悔い改めないままに「教師」を続けると、いつしか間違った教えを説くようになってしまいます。自分だけが神の言葉を聞いていると考えるのは危険です。本物を正しく信じている人は、神は、自分に語りかけてくださるように、他の人にも語りかけてくださり、他の人を通しても自分を教えてくださることを認めます。謙虚に、それに耳を傾けます。
次に、まことの宗教は人々に仕えるものです。27節は「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話を…することです」と教えています。「みなしご」と「やもめ」は、聖書では、社会的に弱い人々を代表しています。旧約聖書にはくりかえし、「みなしご」や「やもめ」を保護すべきことが命じられています。それは、神が「みなしごの父、やもめのさばき人」だからです(詩篇68:5)。本物の信仰を持った人たちは、神の愛を伝える宣教と、それを示す福祉の働きを、世界の各地で進めてきました。日本で孤児院を作り、ライ患者のために働き、戦後の1953(昭和33)年まであった遊郭から女性たちを救済したのは、みな、クリスチャンでした。今でこそ仏教の人たちも加わるようになりましたが、自殺防止の「いのちの電話」や尊厳死のための「ホスピス」もみなクリスチャンの働きでした。日本では数少ないクリスチャンがそうしたことをしてきたのです。日本には、「福祉」を看板に掲げている政党を持っている大きな宗教団体があるのですが、その団体が弱い立場にある人たちのために何かをしたとは、少しも聞きません。ある人を病院にお見舞いに行ったとき、その団体の会員が、同じ会員で病気になった人に対して「おまえが病気になったのは信心が足らないからだ」と責めているのを見たことがあります。その時、愛のない宗教はほんとうの宗教ではないと思いました。
そして、本物の信仰は「この世から自分をきよく守る」ものです。「愛」と共に「聖さ」がまことの宗教の特徴です。聖書は「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」(ペテロ第一2:15)と教えています。「聖い」といってもそれは、たんに「とりすましている」ことや「敬虔ぶる」ことではありません。本物の愛が「聖い愛」であるように、本物の「聖さ」は「愛にあふれた聖さ」です。それは、人を退ける冷たいものではなく、人を引き寄せる温かいものです。そのような聖い愛、温かい聖さは、イエスのうちにあり、そのお姿に表れています。つねにイエスを見上げ、イエスに倣う者でありたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、偽りの満ちたこの世で、信仰者までもが、間違ったものに傾いてしまいかねない時代となりました。あらゆる面で物事を正しく識別することが必要ですが、最も大切な信仰の面で、正しくあることができますよう、私たちと、人々を教え、導いてください。愛をもって真理を語ることよって、まことの信仰を証しすることができるよう、助けてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
7/31/2022