9:35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
前回、第6のしるし、イエスが生まれつきの盲人の目を開かれた奇跡を学びました。今回も同じ奇跡から、この人が目を開かれたあとに起こった出来事を辿ってみましょう。
一、「神のわざ」の実現
弟子たちは、目の見えない人を前にして、「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからか。この人か、両親か」と、心無い議論をしました(ヨハネ9:2)。弟子たちが、その答えをイエスに求めたとき、イエスはこう言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(9:3)これは、弟子たちだけでなく、この目の見えない人に対しての言葉でもあったと思います。「あなたの目が見えないのは、両親やあなた自身の罪の結果ではない。むしろ、それを通して神のわざが現われるためなのだ」と言って、この人を「障がいは罪ののろい、神の刑罰」という間違った考えから解放してくださったのです。
「神のわざが現われる」の「現われる」という言葉には、「目に見えるようになる」という意味があります。ローマ1:19-20にこうあります。「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」神は、人の肉眼では見えないお方です。しかし、神は、この造られた世界を通して、ご自身を「明らかにされ」ました。見えない神が、ご自身を、見えるようにしておられるのです。
このことで、思い出すことがあります。日本にいたときですが、群馬大学の内分泌研究所々長だった黒住一昌先生を特別集会の講師にお招きしたことがあります。科学者の立場から、聖書を語ってもらうためでした。「赤十字病院に教え子がいるので会いたい」と言われ、一緒に病院に行きました。ふつうの人は決して入れない電子顕微鏡のある部屋に案内されました。そこに先生が書かれた本がありました。先生はそれを手にとり、最初のページを見せてくれました。そこに、ローマ1:19-20の御言葉が大きく書かれていました。先生の本は電子顕微鏡のある施設なら、どこにも置かれているそうですが、肉眼では見えない世界を電子顕微鏡で見る研究者が、神の力と神性とを、そこに見出すようにと、願って、その言葉を引用したそうです。こんにち、科学技術は、急速に進歩し、発展しています。それだけに、その使い方を間違えば、人間性を損ない、世界を滅ぼしかねないものになります。科学者が創造の中に神を認め、科学を正しく用いるようになって欲しい、また、クリスチャンが科学の分野でも、神を証しして欲しいと、心から願っています。
神が、創造のみわざを通して、ご自分の目に見えないご性質を目に見えるものとして示しておられるように、イエスは、この人を通して、「神のわざ」を目に見えるものとして示されたのです。彼の目が見えないことが、神の愛、あわれみ、いつくしみ、そして力を目に見えるようにしたのです。イエスは、「盲目」という、人から見る力を奪うものを使って、人々に「神のわざ」を見せてくださった。それは、とても不思議なこと、逆説的なことですが、イエスは、それを実際に行われました。「この人に神のわざが現れるため」、イエスの言葉どおり「神のわざ」はこの人の上に表れ、彼の目は開かれたのです。
二、「神のわざ」への反対
ところが、イエスが「神のわざ」を表されると、たちまち、反対が起こりました。盲人が癒やされ、自分の家に帰ると、近所の人たちは、この人の目が見えるようになったのを見て、驚きました。彼がその人だと信じない人もありました。目が見えるようなって、表情や声までもが一変したからでしょう。人々が「では、おまえの目はどのようにして開いたのか」ときくと、彼は、「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」と、あるがままに答えました。人々は、「その人はどこにいるのか」と聞きましたが、彼は「知りません」と答えました(9:8-12)。彼は、自分の目を明けてくれたイエスに会って感謝したいと願ったでしょうが、イエスがどこにおられるかを、本当に知らなかったのです。
近所の人たちが、「その人はどこにいるのか」ときいたのは、彼らもイエスに会いたいと思ったからではありません。そのころイエスは、エルサレムでは、いわば「お尋ね者」になっていたので、近所の人たちは、この人がイエスによって目を明けてもらったというので、パリサイ人のところに連れていきました(9:13)。ほんとうなら、彼を守ってあげなければならない人たちから、彼は、「密告」されるという苦しみを受けることになったのです。
パリサイ人は、彼ばかりでなく、彼の両親まで呼び出して尋問しました。パリサイ人が、「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか」ときくと、両親は、「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう」と答えています。このころすでに、「イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放する」ことが決められていたので、両親はそれを恐れて、そんな言い方をしたのです(9:14-23)。この人は両親からもかばってもらえませんでした。
パリサイ人は両親を家に返して、本人を呼び出し、脅迫しました。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」(9:24)それに対して、彼はこう答えました。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)確かに、この人は、目を開かれるまで、イエスについて何も知りませんでした。しかし、彼は、その身にイエスの力をじかに体験した人です。「盲目であったのに、今は見える。」“I was blind, now I see.”「アメージング・グレース」の歌詞の中にも出てくる言葉です。イエスのあわれみに満ちたみわざ、きよい力に触れた者が、どうして、イエスを罪人だと言うことができるでしょう。
パリサイ人との間に、何度もやり取りがありましたが、最後に、この人はパリサイ人にこう言いました。「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(9:31-33)なんと筋の通った言葉でしょう。パリサイ人たちはこの言葉に反論することができませんでした。それで、彼を罵って、追放しました(9:26-34)。
この人は、イエスがなさった「神のわざ」によって目を開かれました。それなのに、近所の人たちから拒否され、両親から迷惑がられ、ユダヤのコミュニティから追放されました。しかし、これもまた、彼の上に表れた「神のわざ」の一つでした。この人は、イエスに反対する人々の言葉を通して、逆に、イエスへの信仰へと導かれたのです。信仰に反対されることは、すべてが悪いことではありません。信仰に反対されることによって、信仰が強くされることがあるのです。ペテロ第一1:6-7にこうあります。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」信仰への反対、圧迫もまた、「神のみわざ」の中に組み込まれていて、その役割を果たすのです。
三、「神のわざ」の結実
彼は目が見えるようになって、せっかく社会に復帰できたのに、その日のうちにそこから追放されてしまいました。では、彼は行くべきところを失ってしまったのでしょうか。いいえ、イエスが彼を迎えてくださいました。35節に「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して…」とあるように、イエスの方から、この人に近づいてくださったのです。イエスに従うものは、決して、見捨てられることはありません。イエスが迎えてくださいます。彼は、ユダヤのコミュニティからは追放されましたが、キリストをかしらとする聖徒たちの交わり、「キリストのからだ」の一員として迎え入れられたのです。
イエスは彼に言われました。「あなたは人の子を信じますか。」「人の子」とは、「メシア」、「救い主」の呼び名の一つです。彼の信仰は、一日のうちにぐんぐん成長し、イエスを信じる準備がすでにできていました。しかし、今、自分に語りかけている人が、自分の目を明けてくれたイエスであるとは知りませんでした。それで、こう尋ねました。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」(36節)すると、イエスは言われました。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37節)すると、彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝しました(38節)。
38節の「『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した」との言葉は、ヨハネ9:1から始まった第6のしるし、生まれつきの盲人の目が開かれた奇跡のクライマックスの言葉です。彼の目が開いたこと、彼が、パリサイ人のしつこい尋問にも屈することがなかったこと、それぞれが「神のわざ」の表れでした。しかし、その頂点は、彼の信仰告白と、礼拝にあります。第一のしるしの結論に「弟子たちはイエスを信じた」(2:11)とあり、第2のしるしでも、「彼自身も家の者たちもみな信じた」(5:54)との言葉で終わっています。信仰の告白と礼拝、これは、「神のわざ」が結んだ実です。
「神のわざ」が表れるとは、別の言葉で言えば、神の栄光が表れることです。そして、神の栄光は、私たちがイエスを主であると告白し、イエスを礼拝することによって、最も、輝かしく表されます。ピリピ2:10-11にこうあります。「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」イエスに目を開いてもらった人は、この御言葉の通り、イエスへの信仰を告白し、イエスを礼拝することによって、神の栄光を表す者となったのです。
彼が、その後どうなったかについて、聖書は何も語っていませんが、おそらく、イエスに従い、イエスと行動をともにしたことでしょう。彼は、開かれた目で、ラザロが生き返るのを見、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入るのを見、イエスが十字架の上で死なれるのを見、復活されたイエスを見、イエスが天に昇っていくのを見、そして、ペンテコステの日に聖霊が炎のうち降るのを見たことでしょう。その日聖霊を受けた120人のうちの一人であったかもしれません。彼は、イエスに明けてもらったその目で見たこと、イエスのことを人々に語り続けたことでしょう。イエスが彼の目を明けたのは、彼がイエスのみわざを見て、その目撃証人となり、イエスのみわざを他の人に伝えるためだったのです。
イエスは同じように、私たちの目を明け、私たちがイエスを見て、イエスへの信仰を言い表わすよう願っておられます。「あなたは人の子を信じますか。」この質問に、「主よ、信じます」と答えましょう。それによって、さらに大きな「神のわざ」を見ることができ、それを他の人に見せる者になるのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちの信仰の目を開き、あなたとあなたのみわざを見ることができるようにしてくださいました。あなたが開いてくださった目をもって、さらに大きな神のわざを見ることができ、それを証しすることができるよう、私たちを導いてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/3/2024