ただひとつのこと

ヨハネ9:24-38

9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
9:26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
9:29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
9:30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

 先週は、イエスが生まれつき目の見えない人を見えるようにしたことを学びました。道端に物乞いをしている、生まれつきの盲人がいました。弟子たちは「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからか。この人か、その両親か」と、心無い議論を、この人の前でしていました。しかし、イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と言って、この人の目を開けました。イエスが言ったように、この盲人の上に、文字通り偉大な「神のわざ」が現れたのです。

 今朝は、目を開けてもらった人がその後どうなったかを学ぶのですが、ここには、「人々は盲人の目を開けたイエスを信じ、盲目だった人々と共に喜びあいました。めでたし、めでたし」とは、書いてありませんね。むしろ、盲目だった人は、ユダヤの指導者のところにつれていかれ、彼らから尋問されています。彼が生まれつき盲目であったことさえ、疑われ、両親まで呼び出されています。彼らは「どうして目が見えるようになったのか」というだけでなく、「おまえの目を開けたというイエスを何だと思っているのか」ということまで、この人に問い詰めています。それは、この時すでに、「イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めてい」(22節)て、この人の返事次第では、彼をユダヤの会堂から、つまり、ユダヤ人の社会から追放するつもりだったのです。

 一、救われた者の闘い

 このように、神のわざが現されるところには、かならず、それに敵対する力が頭をもたげてきます。光が照らされるところに、闇の力も動き出すのです。光が強ければ強いほど、その光に逆らって立つものの影が濃くなるように、世の光であるイエスが、闇の中に閉じ込められていた人に光を与えると、闇の力は怒り狂って、光を与えられた人を自分たちのところに引き戻し、光をかき消そうとするのです。みなさんも、そのようなことを経験しませんでしたか。今まで教会に行くことを許していてくれた両親が、イエスを信じようとすると、急に頑固になって、教会に行くことを許さなくなったとか、バプテスマを受けようと決心したとたんに、いろいろなことが身の回りに起こって、そのために決心がゆらいでしまったということがありませんでしたか。神のためにあかしをしよう、奉仕をしようと一歩踏み出したとたんに、大きな失敗をしてしまって、「こんなことではキリストをあかしすることもできないし、奉仕もふさわしくない」とぺしゃんこになったという経験もおありでしょう。それは、闇の王であるサタンが、神に従おうとする者に激しく抵抗してくるからなのです。サタンは、眠っているクリスチャンは少しも恐くはないのですが、私たちが、ひとたび信仰に目覚めると、私たちに向かって牙をむくのです。ペテロ第一5:8に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」とあります。神が働かれるところではサタンも働きます。私たちが、神のために何かをしようとすれば、邪魔が入ります。そういったことに驚いてはいけません。そうした邪魔は、私たちのわざが正真正銘、神のわざあることの証拠かもしれないからです。

 私たちは、悪魔が、どんなにライオンのようにほえても、それを恐れません。なぜなら、私たちには、ほんとうのライオンであるイエスが共におられるからです。聖書では、イエスは、百獣の王ライオンにたとえられています。サタンは、常に神の真似をし、自分を「この世の神」とし、イエスがライオンであるように、ライオンの真似をしてほえてみせます。しかし、それは単なる「おどし」にすぎず、本物のクリスチャンには噛み付くことができないのです。バンヤンの『天路歴程』の中に、こんな場面があります。旅人が、道の両側にライオンがいて、今にも噛み付きそうにして襲っているのをみて、一瞬たじろぐのですが、よく見ると、そのライオンには首輪があって鎖でつながれているのです。道の真中を歩きさえすれば、ライオンは、旅人に触れることはできないのです。神は、神に従う者たちを守ってくださるのです。それで、ペテロの手紙は続いて、こう教えています。「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(ペテロ第一5:9-10)神の約束を信じましょう。そして、闇のわざに負けず、光のわざを行いつづけましょう。

 二、救われた者の確信

 イエスに目を開けてもらった人は、自分に与えられた光を奪おうとするものに負けませんでした。彼の信仰が一日のうちにぐんぐんと強められていっているのが、よくわかります。彼はイエスに言われるまま、シロアムの池に行きました。そして、そこで目についた泥を洗うと、なんと目が見えるようになったのです。生まれつきの盲人ですから、「見る」という経験は、これが生まれて初めてのことでした。赤ちゃんは、生まれてから長い時間をかけて「見える」ようになっていきます。目で見てものを認識することに慣れていくのです。ところが、この人の場合、突然、光が入ってきて、空や山、町や建物、人々の映像がどっと押し寄せてきたのですから、しばらくは、何がなんだかわからず、そこでぼんやりと立ち尽くしていたことでしょう。それは大きな変化でした。そして、その変化は彼の目に起こっただけでなく、彼の内面にも起こりました。何の希望もなく、暗闇の人生を送っていた人が、光の中に立ち、新しい人生に入って行ったのです。この人を見た人々のうち、ある人は「これはその人だ」と言いましたが、別の人は「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。それほどに、彼は表情も振舞いも別人のようになりました。座って物乞いをしていた人がまっすぐに立ち上がり、おそるおそる手探りで歩いていた人が堂々と歩き出したのですから、「彼ではない、別の人だ」と言うのも無理のないことです。このように、心に光を受けた人は、別人のように変わるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)と聖書にある通りです。イエス・キリストは、このように私たちを、私たちの人生をつくりかえてくださる、力あるお方です。

 この人は「どうして見えるようになったのか」と人々から、何度も聞かれ、そのつど、自分の身に起こったことを答えています。「誰が目を開けたのか」という質問には「イエスという方だ」と答え、「彼はいったい何をしたのか」と聞かれては、「地面につばきをして泥を作り、それを私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました」と答え、「それでおまえはどうしたのか」という質問には、「それで、行って洗うと、見えるようになりました。」(11節)と答えています。イエスがつばきをして泥をつくり、彼の目に塗ったのには意味がありました。つばきは口から出るもので、神のことばを表わします。神は、この世界を「ことば」によって造り、人間を土のちりから造りましたが、イエスがつばきをして泥をつくったは、そのような神の創造のわざを表わします。イエスは、そうすることによって、ご自分が彼の手や足、そして耳や目を造られ、イエスは創造者であるゆえに彼の目を開けることができるのだと言おうとされたのです。この人が目を洗ったシロアムの池の「シロアム」というのは、7節に説明があるように、「遣わされた者」という意味です。イエスは、私たちの救い主として神から遣わされたお方です。これはイエスが神から「遣わされた者」、キリストであることを示しています。しかし、この時点で、この人は、そのようなことを理解していたわけではありません。しかし、人々が何度聞いても、ユダヤの指導者たちが、何度問いただしても、彼の答は変わりませんでした。ユダヤの指導者たちが、二度目に彼を呼び出し、彼の目が見えるようになったことさえも否定しようとし、イエスを罪人であると断定した時、彼は言いました。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25節)

 彼には、自分の身に起こったことの意味を全部理解することはできませんでした。「なぜ目が開いたのか」という質問は、「なぜ生まれつき盲目なのか」という質問とおなじくらい難しい質問で、すぐには答えられませんでした。また、「おまえの目を開けたイエスは何者なのか」と言われても、彼は、まだイエスについてほとんど知りませんでした。なにしろ、イエスに出会ったのは、これが始めてのことだったからです。しかし、彼は、ただひとつのこと、「かっては盲目であったのに、今は見えるということ」は知っていました。これは、誰から、なんと言われようと否定することのできない事実でした。彼は、自分の身に起こった事実に基づいて、キリストを確信していくのです。これは、私たちも同じです。私たちも、かっては、神を知らず、神の恵みが見えず、霊的に盲目であったのですが、イエス・キリストを信じた今は、目が開かれて、神の恵みを知り、神の栄光を見るものになりました。聖書を学び、それを理解することは、信仰の確信に役だちます。実際、私たちは、私たちの信仰を養うために聖書を学んでいるわけです。しかし、単なる知識は人を救いませんし、まして、それは信仰の確信を与えるものとはなりません。私たちの信仰の確信は、「かっては盲目であったのに、今は見える」という事実です。罪に悩んでいた者が、罪を悔い改め「イエス・キリストを信じます」と告白して、罪のゆるしを受けた、その体験、その事実にもとづいています。孤独の中にあった者が、神のもとに立ち返り、神の子として受け入れていただいたという、その体験、事実が、信仰に確信を与えるのです。クリスチャンホームで育ってこられた方々は、生まれた時から、信仰の環境の中にあって、なんの抵抗もなく、神を受け入れ、キリストを信じた方が多いと思います。ですから、何年何月何日、あの場所でイエス・キリストを信じたという体験が無い場合もあります。しかし、その場合でも、今、イエス・キリストを信じて喜びにあふれているという現実があります。「今は見える」と言うことができるのです。聖歌に「神なく、望みなく、さまよいしわれも、救われて主をほむる、身とはせられたり。われ知る、かっては目みえざりしが、目をひらかれ神をほむ、今はかくも」(451)とあるように、救いの体験が、私たちの確信の基盤です。たとえ、他のことはまだ十分にわからなくても、「ただ一つのこと」を知るなら、その上に、みことばと御霊によって、信仰の確信を築き上げていくことができるのです。

 三、救われた者の保証

 目の見えなかった人は、この確信に立って、イエスへの信仰を育てていきました。ユダヤの指導者が彼をののしり、おどしても彼はひるまず、イエスを否定しませんでした。ユダヤの指導者たちは、彼におどしが効かないことを知ると、「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」(34節)と言って、彼を追い出しました。彼らも、彼が盲目に生まれついたのは彼の罪のためだと考えていたのです。このような言葉を背中にあびせられても、彼の心の中には、きっと「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」というイエスの言葉が響いていたことでしょう。彼は目が見えるようになって、せっかく社会に復帰できたのに、その日のうちにそこから追放されてしましました。彼は行くべきところを失ってしまったのでしょうか。いいえ、イエスが彼を迎えてくださいました。35節に「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた」とあります。イエスの方から、この人のところに来てくださっています。イエスに従うものは、見捨てられることはありません。イエスが迎えてくださるのです。イエスこそ、私たちの人生の保証です。

 イエスは彼に言いました。「あなたは人の子を信じますか。」彼は答えました。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」彼が最初イエスに出会った時は、まだ目が見えなかったのですから、イエスの声は聞いていても、イエスの姿は見ていなかったのです。それで、イエスは彼に言いました。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」すると、彼はそれに答えて「主よ。私は信じます。」と言っています。短い会話です。彼はイエスに、もう一度出会ったなら、「なぜ私は盲目であったのか」「私の目を開いたあなたはいったいどのようなお方なのか」を尋ねたいと思っていたかもしれません。しかし、イエスに出会った時、そのような質問は無用のものとなりました。イエスもまた、彼に、彼の目が明いたことについて何の説明していません。イエスが「信じますか」と尋ねて、彼は「信じます」と答えました。ただそれだけです。信仰とは、そのようなものです。それは人格と人格の出会いです。イエスという大きなお方に出会って、そのご人格の中に、私の人格をお任せしていくのです。あなたは、もうそのことをなさったでしょうか。イエスの「信じますか」という問いに「主よ。私は信じます」と答えたでしょうか。

 その後の彼がどうなったか、聖書は何も語っていません。しかし、おそらく、彼はイエスの弟子のひとりとしてイエスに従い、イエスと行動をともにしたことでしょう。彼は、その目で、ラザロが生き返るのを見、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入るのを見、イエスが十字架の上で死なれるのを見、イエスの復活を見、イエスが天に帰っていくのを見、そして、その目で、ペンテコステの日に聖霊がくだってくるのを見たことでしょう。そして、彼は、自分が見たことを人々に語り続けたことでしょう。彼が見えるようになったのは、その目でイエスを見、神のわざを見るためでした。彼は生涯、神のわざを見つづけ、そして、地上の使命を果たして天に帰る時には、主イエスが彼を迎えてくれるのを見たことでしょう。イエスはこの人に「神のわざが現れるため」と言って、この人の目を開けました。イエスは同じように、私たちに、目をあけて、イエスを見るように、神のわざを見るようにと招いてくださっています。この週も、このお方に目を向けて歩んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちの信仰の目を開き、信仰によってあなたとあなたのみわざを見ることができるようにしてくださいました。あなたが開いてくださった目をもって、さらに大きな神のわざを見ることができるように、そして、それをあかしすることができるように、私たちを導いてください。救い主キリストのお名前で祈ります。

9/22/2002