9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
一、神の目と人の目
イエスの時代にも、目の見えない人が大勢いました。今では、失明を防ぐことができるような病気であっても、当時は治療の手立てがなかったり、人々の栄養状態が良くなかったため、視力をなくしてしまう人が多かったのでしょう。そして、目の見えない人でも仕事につくことができる現代とは違って、その当時、ハンディを持った人々の多くは、ものごいをして生きていくしか方法がありませんでした。ですから、人通りの多い道端には、目の見えない人や足のきかない人などが何人もいて、物乞いをしていたことでしょう。新約聖書にはそうした盲人たちのことがさまざまなところに書かれていますが、この箇所もそのひとつです。弟子たちと一緒に道を歩いていたイエスは、そんな物乞いのひとりにじっと目を留められました。この人は、生まれつき目の見えない人でした。
弟子たちも立ち止まって、「この人が生まれつき目が見えないのは、その両親が罪を犯したためか、それとも本人なのか」という議論をはじめました。ある弟子は「それは両親の罪のためだ。生まれる前から、この人がどうやって罪を犯すというのか。」と言い、別の弟子は「いや、聖書には、『その日には、彼らはもう、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。」とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。』(エレミヤ31:29-30)と書いてあるではないか。彼が生まれつき目が見えないのは、彼の罪の結果に違いない。」と言い、お互いの意見を主張しあっていたことでしょう。しかし、結論が出ないので、「それでは、先生に聞いてみよう」ということになったのです。「両親が罪を犯した」と言う弟子たちも、「本人が罪を犯した」と言う弟子たちも、共に、イエスがどちらかをサポートしてくれると願っていたと思います。しかし、イエスは、どちらの意見もサポートしませんでした。イエスは、弟子たちが議論していたのとは、まったく違った答を弟子たちに与えました。なぜでしょうか。イエスは、弟子たちと違った目をもって、この目の見えない人をご覧になったからです。
イエスはこの人をあわれみの目をもってご覧になっています。イエスは、この人に深く同情し、解決を与えようとされました。人は、苦しんでいる人、傷ついている人のことを「あれこれ」と詮索して、「彼は、こんなふうだったから、あんな目にあったのだ」「彼女の悩みは、きっとこういうことが原因に違いない」などと、無情で無責任なこと、勝手なことを言いますが、イエスは常に、苦しむ人の立場に立って、その人を苦しみから引き上げようと、手をさしだしてくださるのです。弟子たちは、イエスのような心でなく、彼の目が見えないという事実を、説明し、解釈するために彼を観察したにすぎません。目が見えない人はその分だけ、音やことばに敏感です。そんな人の前で、弟子たちは「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と議論をしています。そういう言葉を聞いたら、目の見えない人がどう思うだろうかと、弟子たちは考えもしなかったのです。弟子たちは、目の見えない人に対するあわれみの心も、何かをしてあげたいという願いもなく、この人を宗教上の議論の材料にしたにすぎません。彼らはイエスの弟子だと言いながら、イエスの心を持たない鈍感な人々でした。
しかし、私たちはそんな弟子たちを責めることはできません。私たちも、冷たい目でハンディを持った人々を見てきたかもしれないからです。日本では、長い間、ハンディを持ったこどもたちは、人目に触れないように、土蔵や小屋などに隠されてきました。そうしたこどもたちは、家族の一員とし扱われなかったばかりか、人間としても認められませんでした。やがて、時代がかわって、ハンディのある人たちが社会に出ていくようになっても、人々の目は冷たかったのです。こどもがハンディのある人を見て「あの子はどうしたの、あの人はどうしたの」とおとなに尋ねると、おとながこどもに「あの人はきっと罰があたったのだよ。だから、あんなふうにならないように、悪いことをしてはいけないんだよ」と言い聞かせることがあります。こどもを「教育」しているつもりなのですが、まったく見当違いのことをして、こどもたちの素直なこころを汚しているのです。こどもたちは、おとなが余計なことをしなければ、ハンディのあるこどもといっしょに遊び、いっしょに勉強することを、当然のようにしてできるのです。こどもたちは、自分たちと違っている他のこどもやおとなを見て、最初は不思議に思っても、そんなことは気にしないで受け入れる能力を持っています。おとなの誤った教育、狭い心が、こどもたちに差別を植え付けたのです。気の毒な状況にある人たちはそれだけで十分に心が傷ついています。そのうえに、「あれは罰があたったのだ」と言われれば、立ち上がれないほどの打撃を受けます。日本人の多くは罰をあてる神々しか知りませんから、平気で自分を傷つけ、他の人を傷つけてしまうのです。
日本に福井達雨という、重い障害を持ったこどもたちのために働いている牧師がいます。福井先生が障害をもったこどもたちのお母さんたちと話しあっていた時、ひとりの母親が「先生、神さまが愛なら、どうしてこんなこどもが生まれたんですか」と質問しました。すると、先生は、烈火のごとく怒って、「『こんなこども』と何やねん。それがそもそも差別やないか。親であるあんたに差別があるのに、なんで社会の差別と戦うことができるんや」と言ったそうです。ハンディを持っているこどもの親であっても、そのために働いているボランティアであっても、ほんとうにこどもたちを、神の愛してくださっているこどもとして受け入れているかどうか、聖書は私たちにそれを問うていると思います。
アメリカではハンディを持ったこどもたちの教育を「スペッシャル・エデュケーション」と言います。英語で「スペッシャル」というのは「特別なもの、大切なもの、個性的なもの」という意味です。最近では「障害」を「ディスアビリティ」(能力が欠けていること)としてではなく、「ディファレント・アビリティ」(違った能力を持っていること)として考えようと言われています。そんな意味でも、「スペッシャル」というのは、良い意味で使われています。ところがこれが日本に行くと「特殊教育」になるのです。ハンディを持った人々を、ハンディを持たない人たちとはまったく違った「特殊」なものにしてしまっているのです。このような状況を変えていくには、人々にまことの神を知らせていく他ないと思います。私たちを愛し、受け入れてくださる神を知らないで、どうして、自分が自分であることを健全な意味で誇り、他の人をその人がその人であるゆえに受け入れることができるでしょうか。たとえ、人が冷たい目を向けたとしても、神は、そしてイエスは、弱さの中にある人を、いつでも、愛とあわれみをもって見ていてくださるのです。このことを信じ、自分自身をも、他の人をも、その神の愛で見ることができるよう、祈り、また、励みたいものです。
二、原因と目的
さて、弟子たちに対するイエスの答え見ましょう。それは3節にあります。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」弟子たちは、罪を犯したのが「この人」なのか、「両親」なのか、どちらかの答を期待していました。しかし、イエスは、どちらでもないし、まして、罪の結果でもないと、きっぱりとお答えになりました。もちろん、イエスは、こう言うことによって、人間に何の罪もないとか、世界に様々な悪や、病気、そして死が入ってきたのが、罪の結果でないと言おうとしておられるのではありません。神はこの世界を素晴らしいもの、美しいものとしてお造りになったのであって、この世界をみじめなもの、醜いものにしているのはすべて人間の罪によるのです。しかし、それは、人類全体に責任がある罪であり、ここにいる盲人やその両親が犯したあの罪、この罪という個別の罪の結果ではないと、イエスは言っておられるのです。
しかし、「なぜこの人は生まれつき目が見えないのか」という疑問はなお残ります。弟子たちは、この「なぜ」を「何の原因でそうなったか」という面で見ました。ところがイエスは、「何のためにそうなったか」という面で見ています。弟子たちは「原因」を問い、イエスは「目的」を答えたのです。弟子たちのアプローチとイエスのアプローチは違っていたのです。
問題を解決するためには、原因を追求することは不可欠です。科学や技術の分野では特にそうです。ある機械を作ったが、どうもうまく動かない、といった場合、いったいどこが悪いのだろうか、部品のひとつひとつを点検し、その原因を追求します。そして、悪いところを修理して、問題を解決します。社会のしくみでもそうです。株の値段がすごく変動して投資をしている人が損失をこうむると、なぜ、こうなったのかと調べて、誰かが株を操作しているからだと分かると、不正な操作ができないように法律を作ります。会社でも、部下がとんでもないことをして会社の信用をなくすことがないように、取締役が監督しています。それにもかかわらず、問題がおこったなら、それがどこで起こったかを調べて、それをチェックする制度をつくります。
人生のさまざまな問題においても、原因を追求して解決しなければならないものが多くあるでしょう。しかし、すべてが原因を追求して解決できることばかりではありません。たとえば、思い煩いや心配、不安にとらわれている人に、その人を不安にさせているものを、ひとつひとつ取り除いてあげたからといって、その人の不安を解決できるとは限りません。「お金がないから不安だ」と言う人に、お金を与えても、不安がなくなるかといえばそうではなく、「今、持っているお金がなくなったらどうしょう」と、もっと不安になるかもしれません。人間はあったらあったで不安になり、なければないでまた、不安になるものです。孤独を恐れている人を大都会の雑踏の中に連れていったからといって、その恐れがなくなるわけではありません。病気や死を恐れている人にアメリカ中の有名な医者を集めたからといって、その人の恐れが解決するわけでもありません。思い煩い、心配し、不安を抱く人は、どんなことの中にも思い煩いの種を見つけ、不安の材料を作り出すのです。「わけもなく不安だ」という人もいます。そういった人には、別のアプローチが必要なのです。
誰か他の人から、いわれのないことで被害をこうむった時、原因を追求することだけによって問題を解決しようとしたらどうなるでしょうか。自分に被害を与えた人物を憎み、あんな人を信用するんじゃなかったと後悔し、結局人生はうまく立ち回ったほうが得をするんだという、結論に達するだけです。神への誠実も、人への愛も捨てた醜い人生が解決であるということになってしまいます。このような場合は、原因を追求することによってではなく、「今、自分のかかえている問題は、何のためにあるのか。私は、ここから何をしなければならないのか」ということを考え、学び、人生の目的を追求することによって解決が見えてくるのです。原因を追求するだけのアプローチは、後ろ向きで終わってしまいます。しかし、どんな問題であれ、その目的が何かを求めていくなら、前向きの解決に向かっていくことができるのです。
多くの人がこのようにして、人生の問題を解決していきました。日本の「クリスチャン新聞7月号」にOさんのことが載っていました。彼は、角膜ブドウ腫が原因で三歳の時に失明しました。盲学校卒業後、鍼灸師として働いていたのですが、彼はいつも、「私は、目が見えないから、自由に学校や職業を選べないのだ。結婚もできないのだ」と、自分の人生にも、仕事にも強いマイナスイメージを持っていました。そんな彼が、クリスチャンの点字奉仕者に出会い、その人から聖書の話を聞き、三浦綾子さんの小説の点訳をしてもらって読んでいました。誘われて教会に通うになり、彼のところに牧師に来てもらってお話を聞くようにもなりました。しかし、彼の心の中には絶えず「私はどうして失明したのか」「私はどうして私なのか」という疑問がありました。彼はそれまで、「くよくよするな」「しょうがないから受け止めるしかない」という答えしか聞いてきませんでした。しかし、彼は、「神のわざがこの人に現われるためです。」とのイエスのことばに出会ったのです。彼が、盲目であるのにも「目的」がある、そのことが分かった時、Oさんは、自分の持つ障害に新しい意味を見出しました。仕事にも誇りをもつようになり、今は、人々の健康のためにと、生きがいをもって働いています。Oさんはその後、素晴らしい伴侶を与えられて結婚し、かわいいお嬢さんもいるとのことです。「神のわざがこの人に現れるため」この視点でものごとを見ると現状は変わっていくのです。
盲人のための福祉団体、日本ライトハウスの創設者岩橋武夫氏のことをご存知でしょうか。彼は明治、大正、昭和と生き抜き、日本の盲人の福祉のために働いたクリスチャンです。彼の尽力によって、はじめて、目の見えない人々が日本の社会に受け入れられ、自立への道を歩み出しました。岩橋氏は、早稲田大学に在学中、突然失明した彼は、悲嘆にくれて自殺を図るのですが、母親の愛によって、立ち直り、妹の助けを得て関西学院大学で学び、後にエジンバラ大学にも留学しています。ヘレン・ケラーと、交友があり、自伝『わたしの生涯』を翻訳し、彼女を日本に招くなどしています。岩橋氏もまた「障害」を神からの使命としてとらえた人でした。
イエスは私たちにも「神のわざがこの人に現われるためです。」という答えを与えていてくださいます。イエスは、私たちの「いままで」のことはあまり問題にされません。むしろ、「これから」のことを問題にされます。過去にだけ目を向け、過ぎ去った日々を悔やんでも、そこに、何の解決もありません。イエスは私たちの「これから」に神のわざが示されるといわれました。過去のことから目を離して、イエスによって導かれていく将来を見ようではありませんか。イエス・キリストが私たちに向けていてくださる、愛のまなざしに向かい会い、イエスの差し伸べてくださる手を信仰をもってつかむ時、その瞬間から、これからの人生の一日一日に神の愛や、恵み、力が展開していくのです。そして、私たちの人生に、神のわざがあらわされていく時、岩橋武夫氏のように、その神の愛のわざ、恵みのわざをもって、他の人々の助けることができるようになるのです。
(祈り)
父なる神さま、私たちには、物事の原因のすべてが知らされてはいません。たとえ、原因を知ったとしても、私たちには、それを変えることができないものが、あまりにも多くあります。苦難のどん底に落とされた人々の多くは、過去にしばられて、人生をのろい、社会をのろい、あなたをのろって生きてきました。しかし、イエスは、「神のわざがこの人に現われるためです」と、私たちの苦難に、障害に、新しい意味を与えてくださいました。どうぞ、私たちに、苦難や障害をも使命として受け取る信仰を与えてください。あなたのわざが現れていく人生を送らせてください。イエスのお名前で祈ります。
9/15/2002