8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
一、存在されるお方
神は、様々なお名前で呼ばれています。聖書のいちばんはじめ、創世記1:1では「神」と呼ばれ、創世記2:4では、「主」と呼ばれています。これは、新改訳聖書では太文字で、英語では〝LORD〟と、すべて大文字であらわされている神の固有のお名前です。創世記4:26に「そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた」とあるように、人々は、神のお名前が「主」であることを知っていました。ノアも、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、神を「主」と呼び、主の御名で祈っています(9:26、12:18、13:4、14:22、21:33、24:7、27:27、28:16、28:21、32:9、49:18)。けれども、神は、アブラハムにも、ヤコブにも「わたしは全能の神である」(創世記17:1、35:11)と言われ、彼らも神を「全能の神」と呼びました。イサクはヤコブのために「全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように」(28:3)と祈り、ヤコブは、子どもたちをエジプトに行かせるときに「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように」(43:14)と祈りました。神が「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった」(出エジプト記6:3)と言っておられる通りです。
エジプトに移住して400年経つ間に人々はいつしか、「主」という神のお名前を忘れてしまったかもしれません。それで、神は、モーセに現れたとき、「わたしは主である」と言われ、人々にご自分のお名前を思い起こさせようとされたと思われます。
神は、「主」というお名前の意味を明らかにするため、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)と言われました。口語訳では「わたしは有って有る者」、英語では "I AM THAT I AM" です。「主」というお名前は、ヘブライ語の4つの文字、アルファベットで書けば、〝YHWH〟の「聖なる」四文字で表されます。ユダヤの人々は、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」(出エジプト記20:7)との戒めを、神の御名をそのまま発音してはならないと解釈して、それを「アドナイ」(わが主)と読み替えました。それで、今日では、正確な発音が伝えられていませんが、聖書学者たちは「ヤハウェ」と呼んでいます。大切なのはその読み方よりも意味です。この御名の意味は、「わたしはある」(I AM)なのですが、それは、私たちに何を教えようとしているのでしょうか。
「わたしはある」(I AM)、この言葉は、なによりも、神が絶対の存在者であることを意味しています。聖書が教えるように、神は創造者で、この世界は被造物です。世界のあらゆるものは神によって造られ、神によって存在しています。この世界には自分で存在しているものは何一つありません。人間もそうです。私たちは誰一人、自分の意志で生まれてきたのでも、自分の力で生きているのでもありません。地球の軌道が少しずれて、太陽に近づけば地球は熱で焼かれ、生命は存在しなくなります。太陽から少し離れただけでも、地球は凍ってしまい、人間は生きていけなくなります。人間は宇宙にまで行くことができるようになりましたが、それは、宇宙船や宇宙服の中が地球と同じ環境に保たれているからです。そのままで宇宙空間に放り出されたら、たちまち蒸発してしまいます。人は地球環境に依存しなければ存在できないのです。「気候変動」や「温暖化」が騒がれています。自然を守ることは大切なことです。しかし、石油や石炭などを使わない、家畜が CO2 を出すので、家畜を飼ってはいけない、だから肉も食べないようにしようというのは科学的であるとは思えません。巨大な太陽フレアが起これば、地球の気候はたちまち変わってしまい、それは、人間の手ではどんなにしても制御できません。人間が天体や気象までも支配できると考えるのは、神を認めない人間の傲慢です。詩篇104:29はこう言っています。「あなたが御顔を隠されると 彼らはおじ惑い/彼らの息を取り去られると 彼らは息絶えて/自分のちりに帰ります。」神は、「有って有る」お方ですが、私たちは「有って無きが如きもの」です。私たちは皆、神の恵み、あわれみによって生かされている存在です。神は、ただ一人、何にも依存せずに存在される、絶対の存在者です。「わたしはある」との御名はそのことを教えています。
神がモーセに、「わたしはある」と言われたのは、ファラオのもとに遣わされようとしているモーセを力づけるためでした。古代帝国で最も力のあったのはエジプトで、ファラオは、その絶対権力者でした。かつてエジプトで教育を受けたとはいえ、奴隷の子であり、ミディアンの一介の羊飼いに過ぎないモーセが、ファラオに立ち向かうなど、まったく無謀なことでした。しかし、ご自分を「有って有る者」と宣言される神の前では、たとえファラオであっても、「有って無きが如きもの」です。ダニエル4:34-35に、「その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう」とあるように、神こそ、唯一、最高の主権を持っておられるのです。
二、共におられる神
「わたしはある」(I AM)、この言葉は、また、神がご自分の民と共におられることを教えています。〝I AM〟には「存在する」の他、「伴う」、「一緒にいる」、また、「…となる」(to accompany, be with, to become)との意味があります。神が存在しておられても、私たちと無関係なところ、遠く離れたところにおられるのなら、その存在は、私たちにとって無意味です。しかし、聖書は、神は天におられるだけでなく、人と共におられると教えています。詩篇23篇は、人間を羊、神を羊飼いにたとえ、神が人と共におられることを描いています。羊は大変手のかかるもので、羊飼いはしょっちゅう羊と一緒にいなければなりません。羊は自分では牧草や水を見つけることができません。羊飼いは羊を牧草のあるところや、水のあるところに連れていかなければないのです。人もまた、同じです。神によってでなければ、身もたましいも満たされ、渇きを癒やされることがないのです。それで詩篇23篇は神を「主」と呼んで、「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ/いこいのみぎわに伴われます」と歌っているのです。また、羊を狙う動物がいるとき、羊飼いは羊を囲いに入れ、羊を危険から守ります。そのように、主である神も、私たちを脅かすもの、苦しめるものに立ち向かい、私たちをご自分のところに引き寄せ、かくまい、守ってくださるのです。詩篇23篇に「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても/私はわざわいを恐れません。/あなたが ともにおられますから」とあるように、神が共におられることが、主に頼る者の救いとなるのです。
主なる神は、「わたしはある」(I AM)というお名前の通り、モーセに「わたしはあなたとともにいる」(出エジプト記3:12)と約束されました。そして、イスラエルの人々に、「わたしは主である。…わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト記6:6-7)と言われました。自ら進んで「わたしはあなたがたの神となる」と言われたのです。神が存在されることを認めることと、神が私と共にいてくださること、私の神であることを信じることとの間には、大きな隔たりがあります。神を私と共にいてくださるお方、私の神として知り、信頼することほど幸いなことはありません。
三、イエスは主
さて、きょうの箇所は、イエスが、イエスに反対する人たちとの論争を描いているところです。イエスはご自分が神から来られたことを話したのですが、この人たちは、決してそれを認めませんでした。イエスを「ナザレの出身者」、「大工の子」として見ませんでした。彼らは、自分たちはアブラハムの子孫だといって誇っているにもかかわらず、アブラハムが持っていた信仰を持っていなかったのです。アブラハムは、常に天を目指して歩んだ人です。アブラハムはイエスが来られる2千年も前の人でしたが、やがて、神の御子が救い主として世に来られるのを待ち望む信仰を持っていました。それで、イエスは、ヨハネ8:56で、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです」と言われたのです。すると、たちまち、人々は、「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」と言って詰め寄りました。イエスを神の御子と信じない彼らにとって、イエスがアブラハムを見て知っており、アブラハムもイエスを見て知っていたなどというのは、ありえないことだったのです。けれども聖書が、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」(ヨハネ1:1-2)と言うように、イエスが永遠の先からおられた神の御子であれば、イエスがアブラハムを知り、アブラハムがイエスを知っていたことは不思議なことではないのです。それでイエスは、こう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
ここで「わたしはある」とあるのは、ギリシャ語で「エゴー・エイミィ」と言います。これは、出エジプト記の「わたしはある」(I AM)をそのまま置き換えたものです。これは、旧約時代に「わたしは主である」とおっしゃってご自分を現された神と、イエスとが全く等しいことを意味します。言い換えれば、旧約時代に「主」という名でご自分を現されたのは、永遠の先からおられた御子イエスであったということになります。イエスがご自分を「主」と呼ばれたので、人々は怒り猛り、それぞれ手に石を持ってイエスを殺そうとしました。「しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれ」ました(59節)。神の御子がご自分の家、神殿に来られたのに、イスラエルの人々は、神の御子を神殿から追い出してしまったのです。彼らは神殿を、神がおられない空っぽなものにしてしまいました。
神の御子イエスはユダヤの人々からは退けられましたが、イエスを主と信じる者のたましいを宮としてそこに住んでくださいます。「イエスは主です」というとき、その「主」は、「主人」とか「自分よりも優れている人」とかいう以上のものを意味します。それは、ヘブライ語の聖四文字(YHWH)で表される「主」であるお方を指します。ですから、「イエスは主です」とは、イエスは神の御子、御子である神、私の救い主、私の主という意味になります。
「エゴー・エイミィ」との言葉は、ヨハネの福音書では7つの〝I AM ステートメント〟で使われています。「わたしは、いのちのパン」(6:35, 48, 51)、「わたしは、世の光」(8:12; 9:5)、「わたしは、羊の門」(10:7, 9)、「わたしは、良い羊飼い」(10:11, 14)、「わたしは、よみがえり、いのち」(11:25)、「わたしは、道、真理、いのち」(14:6)、「わたしは、まことのぶどうの木」(15:1)。イエスは私たちのパン、光、門となり、羊飼い、よみがえり、道、真理、いのち、ぶどうの木となってくださいました。そのどれもが私たちにとってなくてならないものです。イエスは私たちの必要のすべてを満たすお方、私たち、信じる者のすべてのすべてとなってくださったのです。
「エゴー・エイミィ」は、イエスがサマリアの女に対して「あなたと話しているこのわたしがそれです」(ヨハネ4:26)と言われ、また、嵐に悩み、恐れ、怯える弟子たちに「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6:20)と語られたところでも使われています。「わたしがそれです」も「わたしだ」も、原文では「エゴー・エイミィ」です。「エゴー・エイミィ」と言われるイエスによって、サマリアの女は救いを見出し、たましいの渇きを癒やされました。「わたしはあなたと共にいる」と言われるイエスによって、弟子たちは暗黒の嵐の海で恐れから解放されました。私たちも、「イエスは主です」と信じ、「主よ」と祈り求めるとき、私たちの渇きは満たされ、恐れから解放されるのです。
(祈り)
主なる神さま、かつてあなたは、モーセにご自分のお名前の意味を解き明かし、その御名のとおりに、あなたの民と共にいて彼らを導いてくださいました。今、あなたは、私たちに「イエスの御名」を与え、旧約の民に与えてくださったた恵みのすべて、いや、それ以上のものを私たちにくださいました。「わたしはある」と言われたイエスによって、あなたが常に共にいてくださることを確信し、あなたに信頼して日々を歩む私たちとしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
7/7/2024