8:48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
8:50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
8:51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
8:55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
イエス・キリストの生涯と教えをしるした書物は「福音書」と呼ばれており、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書がありますね。はじめて聖書を読んだ時、わたしは、同じ事を書いてある書物が、なぜ四つもあるのだろうと不思議に思いました。皆さんもそう思いませんでしたか。最初、福音書を読んだ時にはどれも同じように思えましたが、何回かくりかえし聖書を読むうちに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が、それぞれに、他の福音書とは違った特徴を持っていることに気付きました。マタイの福音書には、旧約からの引用が多く、イエス・キリストを、旧約時代に約束されていた「救い主」(メシア)として描いています。マタイはユダヤ人のためにこの福音書を書いたものと思われます。マルコの福音書ではイエスは「神のしもべ」として描かれています。マルコは、イエスのなさったことを描くのに「するとすぐに」という言葉を繰り返し使い、次々と神のみわざを行なっていくイエスの姿を描いています。これは、行動的なローマ人に受け入れられたことでしょう。ルカの福音書は、「人としてのキリスト」に焦点があてられています。ルカの福音書はとても美しいギリシャ語で書かれており、ギリシャ人のために書かれたとされています。
マタイ、マルコ、ルカの福音書はほぼ同じ頃に書かれましたが、ヨハネの福音書は、それよりもしばらく後に書かれ、また、他の福音書とはすこし違った構成になっています。ヨハネの福音書はルカの福音書などから見ると、使われている言葉の数も少なく、単純な表現で書かれていますが、だからといって分かりやすいわけではなく、「光」「命」「真理」などといた哲学的な言葉が数多く使われており、ひとつひとつの言葉に深い意味がこめられています。ある聖書学者が「他の福音書は、それぞれ川の流れのようだが、ヨハネの福音書は深い湖のようだ」と言いましたが、ヨハネの福音書の奥深さをよく言い表わしていると思います。
マタイは救い主としてのキリストを、マルコは神のしもべとしてのキリストを、ルカは人としてのキリストを描きましたが、ヨハネは、神としてのキリストを描いています。イエス・キリストが、神であることを前面に押し出しています。ヨハネの福音書の第一行目にき出しに「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)と書かれているとおりです。イエスがご自分を神であると主張されたことは、ヨハネの福音書のいたるところに書かれていますが、今朝の箇所、ヨハネ8章の最後の部分でも、イエスは、ご自分が神であることを明らかにしておられます。それは、8:56 からの部分です。今朝は、この部分から学ぶことにしましょう。
一、アブラハムが信じたお方
アブラハムはユダヤ人の先祖で、ユダヤ人にとって神の次に大切な人物でした。それで、ユダヤ人は何かと言えばアブラハムを引き合いに出しました。彼らは「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。」(53節)とイエスを批難しましたので、イエスは、アブラハムについて、その信仰に触れてこう言われました。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」(56節)アブラハムはキリストが地上に来られる二千年も前の人でしたが、信仰によって、救い主が来られることを、あらかじめ確信したのです。キリストが来られた後に生きている私たちは、キリストが十字架の上でなしとげてくださった救いを仰ぎ見て救われるのですが、キリストが来られる以前の人々は、キリストがやがて来られることを待ち望んで救われたのです。紀元前の人も、紀元後の私たちも、おなじようにキリストを、一方は「待ち望む」信仰によって、一方は「受け入れる」信仰によって救われるのです。
しかし、すでに成就したキリストの救いを信じることでさえ、多くの人に難しいと感じられているのに、まだ成就していないキリストの救いを、待ち望んで信じるというのは、どんなに困難だったことでしょうか。アブラハムは、やがて救い主キリストが来られ、自分の子孫のユダヤ人を救ってくださるということを、しかも自分の子孫すら見ていない時に信じたというのですから、本当に驚きです。アブラハムの信仰について、ローマ人への手紙にこう書かれています。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ローマ4:18-21)神は、アブラハムとサラの子どもから、神の民がおこると言われましたが、アブラハムとサラの間にはこどもが無く、ふたりは子どもを生むことができない年齢になってしまいました。こどもが生まれる可能性はまったくゼロでした。一般的な意味で「信じる」という言葉が用いられる場合、それは、ものごとにいくらかの可能性があって、その可能性にかけるという意味で用いられます。「アメリカがサッカーで優勝することを信じる」と言うのは、決勝戦に残っていればこそ言えるのであって、準決勝で負けていたら、いくら優勝を信じても無駄なのです。ですから、可能性の全く無いことは「信じる」対象にならないのです。ところが、しかし、アブラハムは全く可能性のないことを信じました。「準決勝で負けたアメリカが優勝するのを信じる」というのと同じようなことを信じたのです。なぜそんなことができたのでしょうか。それは、アブラハムが、自分の力ではなく、神の力に、全能の神により頼んだからです。神には何でもお出来になるということを本気で信じたからです。「可能性にかける」という場合、それは、自分の中に幾分かでも残っている力を信じているのであり、確率を信じているのであって、神を信じているのではないのです。しかし、アブラハムは神を信じました。ですから、「彼は望みえないときに望みを抱」くことができたのです。あなたの信仰は、全能の神を信じる信仰でしょうか、それとも人間の可能性に頼っているだけでしょうか。あなたの信仰は確かな神の約束に信頼する信仰でしょうか、それとも、確率に期待をかけているだけでしょうか。神は私たちにアブラハムのような信仰を求めておられます。
多くの宣教師は、まだひとりもクリスチャンがいない国に行って、ここにも救われる人々か起こされると信じて伝道しました。多くの伝道者は、教会の無い町にいって、ここにもキリストの教会が建てられると信じて働きました。貧しい人々を助けてきた多くの働き人は、まだ何の組織もボランティアもいない時に、必要なものは神が必ず与えてくださると信じてその事業を始めました。偉大な働きをした人々は、彼らの持っている力や、環境から来る何パーセントかの可能性にかけたのでなく、アブラハムと同じように、確率ゼロから出発し、神のハンドレッド・パーセントを信じたのです。最近、私は、「親分はイエスさま」というビデオを見ました。ヤクザがクリスチャンになり、その中のある人は牧師、伝道者になったという実話をもとにした映画です。回心したヤクザたちは、韓国のクリスチャンを妻に持っていました。彼女たちの涙の祈りが彼らを変えたのです。彼女たちは、「ヤクザがクリスチャンになる」などということは、ゼロパーセントに近いことを知っていました。しかし、彼女たちはあきらめず、主人たちが救われることを、信じ続け、祈り続け、求め続け、そしてついに、主人たちの救いを見ることができたのです。
アブラハムのように「見ずして信じる」なら、私たちも、アブラハムの子孫になり、神の民となるです。「アブ・ラハム」という名前は「多くの民の父」という意味です。アブラハムは、その名のとおり、ユダヤ人だけでなく、アブラハムと同じ信仰でキリストを信じる、世界中の国々の父となったのです。私たちもアブラハムと同じ信仰を持ち、アブラハムと同じように多くの人々に信仰の祝福を分け与えるものとなりましょう。
二、アブラハムの先におられたお方
イエスがこのようにアブラハムの信仰について触れたのは、アブラハムの子孫でありながら、自分たちの救い主を斥けていたユダヤ人に、アブラハムの信仰に立ち返るようにと教えるためでした。ところが、ユダヤ人たちは、そうしたイエスの信仰への招きに答えるどころか、イエスの言葉尻をとらえて、イエスを攻撃しました。イエスが、アブラハムと語り合ってきたかのように話したので、ユダヤ人たちは「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」(57節)と言いました。これは、「まるで、アブラハムと会ってきたかのように、アブラハムのことを話しているが、二千年前のアブラハムを見たとでも言うのかね。」という意味です。しかし、この意地悪な言葉に、イエスは、驚くべき答をしました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」イエスは、アブラハムの以前から「いた」「存在していた」と言いました。アブラハムがキリストを信じたのなら、キリストはアブラハム以前から「いた」のは当然のことです。イエスは、ユダヤ人の先祖のアブラハム以前、全人類の先祖であるアダム以前、いいえ、世界のはじまる前から存在しておられたお方です。ヨハネ1:1に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とある通りです。創世記1:1にも「はじめに、神が天と地を創造された。」とありますが、ヨハネの福音書の「初め」は、創世記の「はじめ」よりも、もっと「はじめ」です。イエスは、この世界を造り、アダムを造り、アブラハムを生まれさせたお方、永遠の先からおられました。永遠の先から存在されるお方、それは神以外にありません。イエスは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」と言うことによって、ご自分が神であることを宣言しておられるのです。
イエスが「わたしはいる」と言われたことば、英語で言うなら "I AM" というのは、実は神のお名前なのです。モーセがミデヤンの荒野で、神に出会った時、「私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」と、神のお名前を尋ねると、神はモーセに「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:13-14)とお答えになりました。口語訳聖書では「わたしは有って有る者」、文語訳では「我は有りて在る者なり」と訳されています。英語では "I AM THAT I AM" です。「わたしはある」ということばから「ヤーウェ」という神の御名が生まれました。今までも、たびたびお話ししてきましたが、私たち人間は「有って無き者」です。私たちは、だれひとり、自分の意志で生まれて来たのでも、自分の力で生きているのでもありません。もし、地球の軌道が少しずれて、太陽に近づけば地球は熱で焼かれ、生命は存在しなくなり、太陽から少し離れただけでも、地球は凍ってしまって、私たちは生きていくことはできません。人間は宇宙にまで行くことができるようになりましたが、それも、宇宙船や宇宙服の中が地球と同じ環境に保たれているからであり、そのままで宇宙空間に放り出されたなら、たちまち蒸発してしまうことでしょう。私たちは神によって造られ、生かされ、存在しています。しかし、神は、何にも依存せずに存在されるお方です。絶対の存在者です。「わたしはある」というお名前は、神をそのようなお方として言い表わしています。イエスは「わたしはいる」と言うことによって、ご自分が「あってある者」「ヤーウェ」である神であると主張されたのです。
三、アブラハムの子たちと共にいてくださるお方
イエスのことばに、ユダヤ人たちは「石を取ってイエスに投げつけようとし」ました。「イエスは自分を神とした。これ以上の神への冒涜があろうか。」と彼らの怒りは頂点に達したのです。しかし、ユダヤ人はイエスに石を投げつけることはできませんでした。イエスは彼らの真中を通り抜けて宮から出て行かれました(新改訳聖書脚注参照)。それは、ユダヤ人たちが、イエスのうちに、説明のつかない威厳を見たからだろうと思われます。彼らはイエスが持っている神の栄光を認めはしませんでしたが、それに逆らうことはできなかったのです。イエスが神であることをどんなに否定しようとも、イエスが神であるという事実から来る厳かな力に、逆らうことができなかったのです。ユダヤ人は「もしかしたらイエスは神ではないだろうか」と考えて見るべきだったのです。そうしたなら、イエスの言われたことばが、誇大妄想のことばでも、決して神への冒涜でもないことが分かったでしょう。イエスが神でなかったら、イエスの教えも、なさったことも全くの謎で終わってしまいます。イエスが神でなかったら、イエスは気の狂った人であったということになるからです。しかし、事実、イエスは神であり、イエスが神であることを認めることは、ヨハネの福音書ばかりでなく、すべての聖書を解く鍵となり、あなたの人生の問題を解決する鍵ともなるのです。
ところで、59節の「イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」とは、なんとも象徴的なことばだとは思いませんか。イエスは、ご自分の民イスラエルのところに来られたのに、人々はイエスを斥け、イエスを自分たちの間から追い出してしまったのです。彼らの神殿は、神がそこにおられない空っぽの宮となってしまいました。
神は「あってある者」、永遠の、また絶対の存在者です。永遠の先から存在され、これからも永遠に存在し続けられるお方です。しかし、神は、ひとりぽっちで存在しておられるのでなく、ご自分の民と共にいて、神の民を助け、慰め、導かれるお方として、存在してくださるのです。旧約聖書では、さまざまな神の御名が使われていますが、神が神の民と深いかかわりを持たれる場合には、必ずといってよいほど「ヤーウェ」の御名が使われています。神は、この御名によって「わたしはあってある者、あなたのためにある者」であると言おうとしておられるかのようです。神は神の民のために、神の民と共に、神の民の真中にいてくださる、これが、「あってある者」という御名が示していることでした。旧約聖書にくり返し出てくる約束は「わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。」(出エジプト6:7、レビ26:12、エレミヤ7:23、11:4、30:22、エゼキエル36:28)との約束でした。そして、この約束は、キリストが人となって、私たちの間に住んでくださったことによって成就したのでした。ヨハネ1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とある通りです。ところが、イスラエルは、その恵みとまことを捨て去ったのです。しかし、キリストは、彼を受け入れる人の心を宮としてそこにいてくださいます。イエスは言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(示3:20)そして、キリストを信じる者たちの集まりである教会も、永遠の先からおいでになる方、絶対的に存在されるお方が、そこにいてくださるところです。「私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』」(コリント第二6:16)と、聖書にあります。
絶対の存在者が私たちと共にいてくださる、これ以上に心強いことがあるでしょうか。ジョージ・マセソンは結婚を前に突然失明し、婚約者から婚約破棄を言い渡されました。彼は絶望して何度涙を流したことでしょうか。しかし、彼の心に「わたしはあなたと共にいる」という言葉が響いてきました。そしてマセソンは次のような詩を書きました。「放たざる愛よ、汝に我は住まわん、汝がいのちの大海より、我に出でてまた帰らん、憂き世にも喜びを与え、天に虹をつくる、仰ぐ紅の十字架、我が涙はかわく」これは聖歌282に「われをはなたざる」という題で収められています。キリストは、信仰によってアブラハムの子となった私たちと共にいてくださいます。私たちは、キリストを私たちの宮から追い出す者ではなく、共にいてくださるキリストと共に、その愛と力の中を歩むものでありましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちの主イエスが「わたしはある」というお方、常に変わらず、私たちと共にいてくださるお方であることを感謝いたします。主がその約束に忠実に、私たちとともにいてくださるように、私たちも、真実な心で主と共にいることができますようお助けください。そして、主が共にいてくださることの祝福と力とを確かなものとして味わい、また、あかしするものとしてください。主キリストの御名で祈ります。
8/25/2002