ほんとうの自由

ヨハネ8:31-36

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8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 一、アメリカと自由

 1776年7月4日、イギリスの植民地であった十三の州が会議を開き「独立宣言」を採択しました。それ以来、この日が独立記念日として祝われてきました。アメリカがイギリスからの独立を願ったのは、当時のイギリス国王ジョージ三世が、ヨーロッパからの物資の輸入に頼っていた植民地に高い関税をかけたことに反発してのことでしたが、アメリカの独立は、たんに政治的、経済的な理由からだけではありませんでした。独立を願った人々は、世界のどの国にも先んじて自由で平等な国家を作ろうとしたのです。アメリカは、そもそも信仰の自由を求めてやってきた人々によって始められた国であり、建国の父たちがなによりも大切にしたのは、自由、しかも、内面の自由でした。

 パトリック・ヘンリーといえば、「われに自由を、さもなくば死を与えよ。」という有名なことばを残した人ですが、実は、彼は、このことばを、神への信仰との関連で語っています。1775年3月23日、ヴァージニア議会でのパトリック・ヘンリーの演説は次のようでした。

「武力と万軍の神に訴えることが、我々に残されたすべてのことである。しかし、われわれはひとりでこの戦いを戦うのではない。国家の命運を手中に収めておられる正義の神がおられる。戦いは、力だけによるのではない。鎖と隷属と引き替えにして買い取らねばならないほど、命はしたわしく、平和は甘いものだろうか。全能の神にかけて、断じてそうではない。私は、この他に私の進むべき道を知らない。私について言えば、われに自由を与えよ。さもなくば死を与えよ。」

 彼が主張した「自由」は、たんにアメリカの十三の州が政治的、経済的に独立するというだけでなく、神によって与えられている、人間としての基本的な「自由」のことでした。実際、独立宣言は次のようなことばではじまっています。

「われわれは以下の真理を自明であると信じる。すなわち、すべての人は平等に創造され、ひとりびとりは創造主なる神によって、常に変らぬ、他に譲り渡すことのできない権利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、幸福を追求する権利が含まれている。」

 独立宣言にサインした55名のうち52名は公けにクリスチャンとして知られていた人々でしたが、残りの3人もまた、聖書を神のことばと信じ、聖書の神を信じる人たちでした。この独立宣言が採択されたすぐ後で、2万冊の聖書を緊急輸入することも採択されています。アメリカの国の基礎は神のことばであるとの確信が、建国の父祖たちのうちにありました。

 第二代大統領ジョン・アダムスは、アメリカ聖書協会の会長でもあって、彼は、「われわれの政府は、道徳や信仰によって制御されない人間的な情熱によって戦うものではない。われわれの憲法は、道徳と信仰を尊重する人々のためにつくられた。われわれの政府は、それ以外の人々には機能しない政府である。」と言いました。

 ジョン・アダムスの息子で第六代大統領になったジョン・クインシィ・アダムスもまた、アメリカ聖書協会の会長であって、彼は、そのつとめを他の何にまさって大切なものと考えました。1821年の July 4th に「アメリカ独立戦争の最高の栄光は、政府をキリスト教の原則に結びつけたことにある。それは、決して消滅することのない結合である。」と言っています。これは、特定の教派が政府に対して発言力を持つようになったり、聖職者たちが特権階級になることを意味していません。アメリカの歴史において、過去にそんなことは一度もありませんでしたし、今もありません。建国の父祖たちは、キリスト教を特定の教派として考えませんでしたし、クリスチャンであることを、ある教派の会員であることとは考えていませんでした。信仰を、神との関係の中で考えていました。ですから、アメリカでは、他の宗教もまたその自由を保障されています。パトリック・ヘンリーは「この国は、宗教的な人々によってではなく、クリスチャンによってはじめられた。宗教によってではなくイエス・キリストの福音によってはじめられたのである。このゆえに、他の信仰を持つ人も、ここでは礼拝の自由を保ってきたのである。」と言っています。他の国々では、人種や信仰の違いから内乱が絶えないのに、アメリカでは、人種も宗教も違った人々が互いに受け入れ合い、ひとつの国を保っています。これは、アメリカが誇ることのできるものであり、それは、建国の父たちの信仰の遺産なのです。

 アメリカの国は、このように、「自由」を聖書に基づいて理解した人々によって、その「自由」を守るためにつくられた国だったのです。

 二、罪からの自由

 では、彼らが守ろうとした自由とは、どんな「自由」だったのでしょうか。それは、ひとことで言うなら、「罪からの自由」でした。主イエスが、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と言われたように、罪は私たちを奴隷にするのです。アルコールやギャンブルにふけることだけが罪ではありませんが、罪の奴隷ということは、アルコールやギャンブルなどの依存症を考えると一番わかりやすいと思います。全米で、一千万人がアルコール依存症、一千二百万人がギャンブルのとりこになっていると言われます。一般にアルコール依存症というと、酔っ払って大声でわめきちらしたり、暴力をふるったりということを想像しますが、決してそうではなく、「キッチンドリンカー」と言って、昼間、台所で酒を飲んで、家事や育児に身が入らなくなっている主婦の数も多いのです。もちろん、この人たちは、他の人と接する時には、酒の匂いなど決してさせず、他の人と全くかわらずふるまいます。ですから、ご主人でも、長い間、奥さんがアルコール依存症になっていることがわからずにいることも多いのです。

 酒を飲む人も、ギャンブルをする人も、最初は軽い気持ちで始めるのですが、やがて、酒のとりこになり、ギャンブルのとりこになり、家庭を破壊し、自分の身も心も滅ぼしてしまいます。「酒は百薬の長」と言いうのは、酒を飲む人たちが言った言葉で、中国でも昔から、酒の害は説かれていて、「酒を飲むは六種の失あり。一つには財を失う、二つには病を生ず、三つには闘い争う、四つには悪名を流布す、五つには怒り俄かに生ず、六つには知恵日に損ず。」と言われています。酒によって、六つのもの、財産、健康、友情、名誉、平安、知恵を失うというのです。多くの人が酒のために失敗して人生を棒に振っています。ハリソン大統領は酒を勧められた時、「私といっしょに大学を卒業した人が16人いたが、彼らは酒を飲んだために残らず死んでしまい、私だけが残った。私がこうして健康で働くことができるのは全く禁酒のおかげである。」と言ったそうです。しかし、すべての人がこのようにきっぱりと酒と縁を切れるわけではありません。酒を飲む人には、酒が美味しいからというのではなく、酒を飲まずにはおれない別の理由があるからです。ある人は、苦しく辛い現実を一時的にでも忘れようとして酒を飲みます。ある人は孤独に苦しんで酒に慰めを求めます。ある人は、心のむなしさを満たそうと、酒に走ります。そして、ある人は、かって受けた心の傷をいやそうとして酒を飲みます。アルコール依存症にかぎらず、どの依存症も、その心の奥底にあるものに解決を与えないかぎり、決してそこから回復することはできません。酒は、現実を変えることも、心の傷をいやすことも、心を満たすことも、慰めを与えることもないのです。むしろ、心の傷はさらにうずき、虚しさは増し、不安や恐れが襲ってくるのですが、それでも、酒を止めることができないのです。酒を飲む人は、「からだに悪いと思ったらいつでも飲むのをやめることができる。」と言うのですが、実際は、やめたいとおもってもやめられなくなるのです。酒は人を奴隷にしてしまうのです。

 アルコールやギャンブルに限らず、性的な罪も、人を縛りつけます。性的な犯罪を犯した人のほとんどが同じ犯罪を繰り返すと言われています。他にも、恨みやねたみ、貪欲や偽りなど心の中に隠し持っている罪は、みな人を束縛します。その罪のために自分の願うとおりの善を自由に行うことができなくなるのです。

 こんな話があります。昔、あるところに、とても腕の良い鍛冶屋がいました。この鍛冶屋は、何かのことで領主の怒りを買い、鎖につながれ、牢屋に入れられてしまいました。彼は、鍛冶屋だけあって、どんな鎖につながれても、その鎖の弱い部分を見つけてそれを壊す自信がありました。牢獄の錠前を開けることなど、朝飯前でした。それで彼は、自分をつないでいる鎖を調べはじめましたが、調べているうちに、顔がみるみる青ざめていきました。そしてこう言いました。「だめだ、この鎖は壊すことができない。この鎖は完全につくられている。これはわしの作った鎖だ。」このように、罪を犯す者は自分の作った罪の鎖に縛られて、そこから逃れられなくなっているのです。現代では、多くの社会で言論の自由や経済の自由などが認められています。それは、どれも大切なものです。しかし、それは、人間の外側の活動を解放することはできても、私たちの内面を自由にすることはできません。人間に必要な自由は、なによりも、内面の自由、たましいの自由、罪からの自由なのです。

 三、信仰による自由

 では、この自由はどのようにして得られるのでしょうか。主イエスは「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31〜32)と言われました。ここで言う真理は、決して一般的な真理ではありません。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら」とあるように、それは、主イエスの教えのこと、神のことばのこと、聖書の真理を指しています。主イエスは、私たちの罪を赦し、私たちを罪からきよめて、私たちに罪からの自由を与えてくださいます。しかし、それは、自動的に、知らない間に与えられるものではなく、私たちが、真理に向かい合うことによって与えられるのです。私たちが知らなければならない真理とは何でしょうか。それは第一に、私たちが罪の奴隷であるという事実です。自分が罪に縛られていて、そこから解放される必要があるという真理を受け入れない限り、人は自由になることはできません。病気の人が「自分は健康だ。」と言っている間は、決して良くならないのと同じです。自分の病気を認めることから、治療がはじまるように、自分が罪に縛られていることを認めることから、罪からの救いと解放がはじまるのです。しかし、自分の現実の姿を認めることは、容易なことではありません。特に、「自分は真面目に生きている」と思っている人にとっては、いっそう、そうだと思います。しかし、聖書のことばに照らして、私たちの心と生活を正直に調べてみますと、どんな面においても、決して罪の奴隷などではないと言うことのできる人は誰もいないのではないでしょうか。たとえ、それを自覚してはいなくても、どこかに、自由を失っている面があるものです。主イエスは、そのことを素直に認め、はっきりと言い表わすことを私たちに求めておられます。

 日本語はあいまいだと良く言われます。たとえば、誰かが誤って茶碗を割ってしまった場合でも、「わたしが茶碗を割りました。」とは言いいませんね。「茶碗が割れました。」と言います。現代なら「割れちゃったわ〜」で済ましてしまでしょう。日常では、それでいいのかもしれませんが、神の前に出る時はそうであってはなりません。「私は、この罪を犯しました。」と、自分が一体どんな心の状態で、何をしたのかを言い表わさなければなりません。聖書には、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩51:4)という告白があります。

 「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷である。」という真理の次に、受け入れるべき真理は、「キリストが私たちの罪を赦し、私たちをそこから救い出してくださる。」という「真理」です。ある人は、「真理はあなたがたを自由にします」ということばをはじめて聞いた時、「真理」と「自由」とが結びつかなかったと言っていました。その人は「真理」というと何か鋼鉄のように冷たくて、私たちを圧迫するようなものと考えいたのです。しかし、その人は、「真理」とは何だろうかと考えていった時、イエスが「真理」であることに気がついたというのです。イエスは「わたしは真理である」と言っておられます。イエスは決して鋼鉄のように冷たいお方でも、私たちを天の上から睨みつけるお方でもなく、私たちが罪の奴隷となっていることを、心からあわれみ、私たちを、そこから解放するために命を投げ出してくださったお方です。「自由」は真理である主イエス・キリストから来るのです。

 罪を罪として認め、イエス・キリストの救いを求める時、私たちは罪から解放されます。罪を捨て、救いを選び取ることによって、「自由」になるのです。罪からの自由は、自動的に与えられるものでも、知らない間に自分のものになっているというものでもありません。キリストが私たちを自由にしてくださるのですが、その自由を自分のものにするためには、私たちの側でも、信仰の選択が必要なのです。ものを選ぶことができるということ、それがまさに自由です。信仰の選択をすることによって、さらに大きな自由が、信じる者に与えられるのです。

 「信仰の自由」というと、自分の信じていることが、他の人によって脅かされないという意味ですが、聖書から見るなら、それは、まずは、「信仰によって与えられる自由」でなければなりません。アメリカは「信仰の自由」を求めてやってきた人々によってはじめられた国ですが、それらの人々は同時に、「信仰による自由」を知っている人たちでした。そのことは初代大統領ジョージ・ワシントンの祈りによっても、知ることができます。ジョージ・ワシントンはこう祈っています。

「永遠にして、変わらぬ神よ、私の思いと言葉と行いを導いてください。私の罪をなんの汚れもない子羊であるイエス・キリストの血によって洗いきよめてください。聖霊によって私のこころをきよめてください。日ごとに、わたしを御子イエス・キリストに似たものとしてつくりかえてください。そうすれば、私は、あなたへの恐れのうちに生き、あなたの恵みのうちに死ぬことができ、私は、あなたが定められた時に、義とされた者たちの永遠の命にいたる復活を得ることができるでしょう。主よ、地上のすべての人々を祝福してください。そして、世界に御子イエス・キリストを知る知識を満たしてください。」

 July 4th に、私たちが守るべき「ほんとうの自由」、つまり「罪からの自由」、「信仰による自由」をしっかりと確認し、この自由を祝って過ごす私たちでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、アメリカの歴史をふりかえる時に、いたるところに、あなたを心から信じた人々の信仰の足跡を見ることができます。あなたが、建国の父祖たちと共にいて、この国を祝福してくださったことを、ありがとうございます。この国に住む私たちが、そのことをもっと感謝し、この信仰の遺産を次の世代に引き継いでいくことができるよう、導いてください。そのために、罪からの自由を与えてくださった、イエス・キリストの福音を、信仰によってしっかりと握りしめることができるよう、助けてください。私たちに自由を与えてくださった、主イエスのお名前で祈ります。

7/3/2005