8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
8:13 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
8:14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。
8:15 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
8:17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
8:18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
「もしも、光がなかったら」と考えて見たことがありますか。そうなったら、何も見えず、私たちはこの世界で、何が起こっているか知ることができません。同じように、私たちの人生にも霊的な光がなければ、私たちは、自分の人生の意味も目的も見ることができず、人生を喜びを、感謝を、目標をもって生きていくことができないのです。ヘレン・ケラーは、生まれて一年七ヶ月目に病気になり、目が見えず、耳が聞こえず、話すこともできない三重苦を背負うことになりました。彼女から光が奪われたのです。しかし、彼女はイエス・キリストを信じることによって、その三重苦を乗り越え、多くの人々の「希望の光」となりました。ヘレン・ケラーはこう言っています。「目に太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは、心に光をもつことです。」私たちは、心に光をもっているでしょうか。その光は、どこから来るのでしょうか。それはどんな光なのでしょうか。どうすれば、その光を得ることができるのでしょうか。
一、ただひとつの光
私たちの心を照らしてくれる光、それには、いろんなものがあるでしょう。ヘレン・ケラーのような特別な人もそのひとつでしょうが、身近な人が光になっている場合もあります。小さなこどもが光となって、私たちに喜びを与えてくれることもあります。一冊の書物が人生の光となり導きとなる場合もあります。私たちを導くさまざまな「光」がありますが、それらをつきつめていくと、神にいたります。聖書では、神は「光の父」(ヤコブ1:17 口語訳)と呼ばれていて、この光の父から「すべての良い贈り物、また、完全な賜物」が与えられるのです。詩篇27:1には「主は、私の光」と歌われています。ヨハネ第一1:5では「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」と言われています。
神が私たちを照らす「光」です。「光」は、本来、神について使われている言葉で、イエスは「わたしは世の光です。」と言うことによって、ご自分が神であることをわたしたちに示されたのです。ギリシャ語では「世の光」、つまり「世界の光」と言うと、文字通りには「太陽」を指します。私たちの住んでいる世界、地球を照らす光は太陽から来ます。月も夜空を照らしますが、月の光は太陽の光の反射にすぎません。私たちに光を与えてくれるものが多くあっても、「まことの光」はイエス・キリストです。ヨハネ1:9には、イエスが「すべての人を照らすそのまことの光」であると書かれています。その少し前にはバプテスマのヨハネのことがこう書かれています。「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(ヨハネ1:6-8)バプテスマのヨハネのような偉大な人であっても、「まことの光」であるイエスの光の反射し、まことの光をさししめしていたにすぎなかったのです。
古代の教会は、外からは迫害を受け、内からはイエスが神であることを否定する誤った教えが起こり、二重の戦いを強いられました。しかし、教会は迫害に耐え、正しい信仰を守り通しました。教会は正しい信仰を言い表わすために「信条」(信仰箇条)を作ってきました。その、私たちが礼拝で告白している「使徒信条」はそのひとつです。この使徒信条をもとにして紀元325年に出来たのが「ニケア信条」で、それはイエス・キリストについて「我らは、主イエス・キリスト、神の御子、おん父よりただひとり生まれたるもの、神より出でたる神、光より出でたる光、真の神より出でたる真の神、造られず、聖父と同質なるお方を信ずる。」と言っています。教会は、イエスが「わたしは世の光である。」と言われたことばをそのまま受け止め、キリストを「光からの光」と呼び、神として信じ通してきたのです。私たちも、「わたしは世の光である。」と言われるイエスに、「あなたこそ、まことの光、わたしの光です。」という信仰を言い表わし続けましょう。
二、いつまでも消えない光
私たちの心を照らし、人生を照らす光はイエス・キリストです。では、イエス・キリストの光はどんな光でしょうか。それは、「いつまでも消えない光」、「永遠の光」であると言うことができます。
ヨハネの福音書七章と八章には、エルサレムで十月ごろに行なわれていた仮庵の祭りでの出来事がしるされています。仮庵の祭りでは、祭壇に水を注ぐ儀式がありました。祭りの期間中、祭司は、朝、夕の犠牲をささげる時、シロアムの池に行って金の「かめ」に水を満たし、それを神殿に運び、ラッパの伴奏でイザヤ書12:3にある「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」という言葉を歌いながら、その水を祭壇に注ぎました。それは神が、荒野を旅したイスラエルに常に水を与えてくださったことを覚え感謝するためでした。七章で学びましたように、イエスは、そのような儀式が執り行われていた時、宮に立って、大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。祭壇に注がれた水はたちまち乾いてしまいましたが、イエスが与えるいのちの水は乾くことがないというメッセージを、イエスは仮庵の祭りを用いて、効果的に人々に伝えたのです。
仮庵の祭りの時にはもうひとつの象徴的な儀式がありました。神殿の婦人の庭の献金箱に四つの大きな金の燭台が立てられ、仮庵の祭りの第一日目にあかりがともされました。その燭台には、それぞれ四つの受け皿がり、そこに灯油がそそがれ、灯がつけられると、それは神殿の庭全体を明るく照らしたと伝えられています。この灯はイスラエルが荒野を通ってきた間、神が火の柱で先祖たちを守り、導いてきたことを表わしていました。イエスが「わたしは世の光です。」と言われたのは、燭台のともし火は祭りが終わると消されてしまうが、イエスは、いつまでも消えることのない光として私たちを照らすというメッセージを私たちに伝えるためだったのです。
「わたしは世の光」という箇所に使われている「光」はギリシャ語で「フォース」と言い、「ともしび」を意味する「ルクノス」とは違うことばが使われています。「ともしび」はやがて消えますが、「光」は消えることがありません。バプテスマのヨハネは、人々の心を神のことばで照らした偉大な人物でしたが、彼は「光」とは呼ばれず「ともしび」と呼ばれました。ヨハネ5:35でイエスはバプテスマのヨハネのことについて「彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」と言っているとおりです。人間の光はやがて消えていきます。世界にはさまざまな教えがあり、私たちの心を照らしてくれるように見えますが、それは、暗やみの中でマッチを擦って、ほんの一瞬だけ、近くのものが見えるようなもので、私たちに完全な真理を教えることはないのです。しかし、イエスは「世の光」です。この世界を隅々まで照らし出し、決して消えることがないのです。
三、命を与える光
イエスの与える光はまた、私たちに命を与える光です。イエスは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。光は命をもたらします。植物は光がなければ生きていけません。木が密生する森では、それぞれの木が光を求めてより高く伸びていくことは良く知られているとおりです。植物だけでなく、人間も光を必要とします。あまり強い紫外線は皮膚がんなどを引き起こしますが、適度な紫外線によって、人間の皮膚はビタミンD を作り出し、それが骨を強くするのです。光の弱い地方にいる人々は、ビタミンD の不足によって、くる病という病気になることがあるということは、皆さんもご存じだと思います。
みなさんは、こどものころ、おたまじゃくしがカエルになるのを観察したことがありますか。おたまじゃくしは、数珠つながりになった受精卵から50日してカエルになります。真ん丸い卵からやがって尾っぽが生え、おたまじゃくしの形になります。やがて後ろ足が生え、それから前足が出てきます。そのうち尾っぽが吸収されて、カエルの形になっていきます。おたまじゃくしの時はエラがあって、エラ呼吸をしているのですが、カエルになると肺呼吸をするようになります。ところが、この時に光を受けないと、おたまじゃくしはずっとおたまじゃくしのままで、やがて十分な呼吸ができなくなって死んでいくのだそうです。おたまじゃくしもカエルになるには光が必要なのです。
私たちも、イエスから命の光を受けなければ、おたまじゃくしと同じように、罪の泥沼の中に沈んでしまうのです。聖書は、私たちが罪の暗やみの中に沈んでいる状態を「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18)ということばであらわしています。しかし、私たちもイエスの光を受けるなら、暗やみから光に変わり、光の子になることができるのです。エペソ5:8はこう言っています。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」あなたもイエスの光を受けているでしょうか。その光の中を歩いているでしょうか。
ルイ十四世といえば、「朕は国家なり」と言ってフランスに君臨した王でした。彼が死んだ時、遺言にしたがって彼のからだは、もっとも豪華な衣にまとわれ、黄金に輝く棺におさめられ大聖堂のまん中に安置されました。聖堂内のすべてのともし火は消され、ただ一本の大きなろうそくだけが棺の上にともされて、黄金の棺を照らしていました。それは、フランスの王だけが、栄光に輝く王であることを象徴するためだったということです。やがて、ヨーロッパ全土から集まった王侯貴族が参列して、厳かに葬儀がはじめられましたが、その司式にあたった司教は、葬儀のなかばで、突然、棺の上に一本だけともされていた、そのともし火をかき消しました。司教は、真っ暗になった会堂にひびきわたる声で言いました。「ただ神のみ偉大なるかな。」この司教は、この世の権力を誇り、神を見失っていた王侯貴族たちに、神のみが栄光に輝く王であり、世界の光であること示したのです。「世の光」であるイエス・キリストを見失った社会は、人生は暗やみです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスの招きのことばに、今こそ従いましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちは以前は暗闇でしたが、今は、イエスの光に照らされて、光となりました。「世の光」であるイエスに背を向けて見えるものは闇以外ありません。イエスに顔を向け、あなたの光の中を歩み続ける私たちとしてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。
7/28/2002