7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
一、たましいの渇き
今年の夏、カリフォルニアはとても涼しく、過ごしやすい日が続いています。ふだんは暑いネバダやアリゾナも、例年より涼しいそうです。しかし、ロッキー山脈から東側、アメリカのおよそ三分の二の地域は、例年にない強力な高気圧におおわれ、各地に高温警報が出ています。暑さに弱い牛などの家畜は、毎年、何千頭も死んでいるそうですが、今年はその数がもっと多くなるかもしれません。水温が上昇し、そこに住む魚が死んでしまった湖もあるそうです。高温の空気ほど多くの湿気を含むことができますので、この熱波のために湿度も高くなっています。人は暑いと汗をかき、その汗が蒸発するときにからだから熱を奪います。それで体温が下がるのですが、湿度が高くなると、汗が蒸発しないので、体温が下がらなくなります。そのために、もう数十人もの人々が亡くなっています。それで、熱波に見舞われたところでは、おおやけの場所に、水分を補給して涼んでいけるところを設置するなどの対策をとっています。夏の暑いときほど、水分が必要になります。人間のからだの60パーセントから80パーセントは水分でできています。水分が少なくなると、最初は、喉が渇き、次に疲れを感じます。もっとなくなると発熱し、様々な病気を引き起こします。局限に達すると、発狂したりもするそうです。水は、たんに喉の渇きをいやすだけでなく、いのちを保つのになくてならないものなのです。
同じように、私たちのたましいにも、いのちの水が必要です。私たちのたましいは渇いていて、神が与えてくださるいのちの水を求めています。しかし、たましいのかわきは、からだの渇きのようには、はっきりと表面には現れません。からだの渇きとは違って、気を紛らわせたり、思いをそらせたり、渇きそのものを否定することができるからです。アメリカや日本など豊かな国では、生活の苦労があまりなく、人々は満たされ、たましいに渇きがないかのように見えます。「私は渇いている。満たされたい」と声をあげる人はまれでしょう。しかし、自分の中にある渇きに気付いていないだけで、ほんとうは、そこには、深い渇きがあるのです。
日本では年間三万人という他の国には例を見ないほどの自殺者があります。また、若い男性の間に「引きこもり」が増えています。オクッスフォード・ディクショナリー・オブ・イングリシュの項目には、これまでに「カローシ」(過労死)や「オタク」(お宅)という日本語が国際語として登録されましたが、最近、「ヒキコモリ」(hikikomori)も追加されたそうです。若者たちが、定まった生活ができないで、社会に背を向け、自分だけの世界に閉じこもってしまうのは、自分の価値を知らないからです。私たちのたましいには、人生の意義を求める深い渇きがあるのですが、それを人に求めても答えは返ってきません。「人は何のために生きるのですか」という問いをぶつけても、「そんなことばかり考えていると、勉強が遅れるよ。みんなからおいていかれるよ」と言われるだけです。社会に本質的なものを求めても、人々のもの笑いになってしまうだけなのです。
自分の価値が分からなければ、他の人の価値も分かりません。それで、平気で人を傷つけたり、簡単に人を殺したりするようになります。自分の価値も、他の人の価値も分からなければ、他の人と表面でつきあうことができても、ほんとうの意味で人を愛することも、人から愛されることもできないでしまいます。大勢の人と楽しくやっているように見えても、ほんとうは孤独なのです。
しかし、自分の価値が分かり、人生の意味が分かり、人を愛することががどういうことなのかを分かるには、どうしたら良いのでしょうか。それが分かって、そのように生きるには、何かの工夫があれば、対処法を習えば、それでできるのでしょうか。いいえ、「ハウ・ツー」だけを求めても、分かったようには生きることができず、人を愛する力も与えられません。自分の価値を知るには、人をご自分のかたちに、かけがえのない価値を持つ者として造り、人生に意味を与え、ひとりびとりに愛を注いでくださる神による以外はありません。私たちのたましいの奥深くにある渇きは、最終的には、神への渇きです。聖書に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇42:1)とあるように、どの人も、魂の奥底では、神を知りたい、造り主である神に出会いたい、たましいの親である神に帰りたいという願いがあるのです。この渇きはどのように満たされるのでしょうか。
二、キリストのもとに
それは、イエス・キリストによってです。イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエスは、「ここに行けば渇きがいやされる。あそこに行けば満たされる」と言われたのではありません。「わたしのもとに来なさい。そうしたら渇きがいやされる」と言われたのです。ここにイエスの教えと、他の教えとの違いがあります。他のどんな教えも、それを教える人は決して「わたしのところに来なさい」などとは言いません。彼らは、自分をいやしてくれたもの、満たしてくれたものを紹介する「道案内」にすぎません。しかし、イエス・キリストは「道」そのものです。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:5)また、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」(マタイ11:28)とも言われました。イエスは「あそこに行きなさい」と、何か別のもの、どこか別のところを指し示すのではなく、つねに「わたしだよ、わたしのところに来なさい」とご自分を指し示されるのです。それは、イエスが単なる教師や道案内ではなく、人の渇きを満たし、疲れをいやし、重荷を取り除いてくださる救い主だからです。
英語では「わたし」という言葉は大文字で書き、ほとんどの場合、文章の先頭にあってとても目立ちますが、ギリシャ語では、「わたし」という言葉は、あまり使いません。ギリシャ語では主語が一人称か二人称か三人称なのか、また単数か複数かは動詞を見れば分かるので、「わたし」という言葉がなくても通じるからです。「わたし」という言葉が付け加えられるのは、「他の人ではなく、このわたしだよ」と強調する場合だけです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」というイエスのおことばは、「このわたしこそが道であり、真理であり、いのちなのだ。道を探し、真理を見つけ出し、いのちを求めるのに、他に行く必要はない。わたしのところに来なさい。そして、わたしのうちにとどまっていなさい」という意味を持っているのです。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」ということばは、たましいの渇きをいやすお方はイエス以外にないと教えています。人々はたましいの渇きを自分の力で満たそうと、さまざまな宗教を作りだしました。最後には「無神論」という「宗教」まで作りました。私は無神論を宗教だと思っています。しかも、その信者は、神を信じる人々よりも強い「信仰」を持っています。神がおられることの証拠は数限りなくありますが、神がおられないことを証明するものは何ひとつありません。なのに「神はいない」ということを堅く信じているのですから。また、財産や地位や名誉、さまざまな楽しみも偶像になり、神になり、宗教になります。実際、歌手や俳優・女優、有名人は「アイドル」(偶像)と呼ばれ、人々はそういった人々をまるで崇拝するかのようにふるまっています。宗教のようでなくても、実際は宗教であるものがいくらもあります。人は神なしには生きることができませんから、まことの神から離れたら、何かしらの神々を作り出さずにはおれなくなるのでしょう。聖書はこのことについて、次のように警告しています。「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ2:13)水ための水はやがて乾いてしまします。ましてや、こわれた水ためでは、水をためておくこともできません。たましいの渇きをいやそうと、どんなに水ためを掘ったとしても、いのちの水の与え主のもとに行くまでは、渇きをいやされることはないのです。
三、聖霊によって
では、イエス・キリストはどのようにして、私たちの渇きをいやしてくださるのでしょうか。それは聖霊によってです。38節と39節に「…わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」とあります。「生ける水の川」とは聖霊のことです。聖霊は、私たちを真理に導くお方です。私たちは聖霊によって真理を悟ります。神の愛を知り、自分の価値を見出します。聖霊は、神のいのちそのものです。私たちは聖霊によって、日々に生かされ、力づけられるのです。イエス・キリストは、ご自分のもとに来る者に聖霊を与え、私たちは聖霊によって、その渇きをいやされるのです。
しかし、私たちに、聖霊が与えられるためには、ひとつのことがなされなければなりませんでした。39節の後半に「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」とあるように、イエスが「栄光を受ける」ことです。
イエスが「栄光を受ける」とはどういうことでしょうか。「使徒信条」に「主は…三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」とあるように、イエス・キリストは復活と昇天によって「栄光を受け」られました。しかし、イエスがお受けになった「栄光」には、そうした輝かしいことだけでなく、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り」という、キリストのお苦しみも含まれていました。十字架ほどの「恥辱」はありません。しかし、それは、神が最も望んでおられる罪人の救いのためであり、それによって神が栄光を受けられるので、イエスは、十字架の苦しみをも、ご自分が受けられる「栄光」の一部として受けとめておられました。イエスは、しばしば、ご自分の苦難を「栄光」という言葉で言い表わしておられます(ヨハネ12:13、13:31、17:1)。
イエスが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われたのは、「祭りの終わりの大いなる日」でした。この「祭り」というのは「仮庵の祭」のことです。これは、イスラエルがエジプトから救われて荒野を旅した時、テントに住んだことを記念するためでした。仮庵の祭りは、穀物やオリーブ、ぶどう、いちじくなどの収穫の時期に行われました。そうした収穫の時には、人々はぶどう畑の真中に小屋を作って収穫の作業をしました。それで仮庵の祭りでは、人々は布や木の枝で作った小屋を建て、そこで一週間を過ごしたのです。それは、収穫を喜び祝う楽しいお祭りでした。この祭りのとき神殿ではさまざまな儀式が行なわれましたが、そのひとつが祭壇に水を注ぐ儀式でした。祭司は、朝、夕の犠牲をささげる時、シロアムの池に行って金の「かめ」に水を満たし、それを神殿に運び、ラッパの伴奏で「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」(イザヤ書12:3)という言葉を歌いながら、その水を祭壇に注いぎました。それは神が、荒野を旅したイスラエルに常に水を与えてくださったことを覚え感謝するためでした。
「祭壇に注がれた水」、それは、まことの大祭司であるイエス・キリストが、ご自分を人類の罪のためのいけにえとして、十字架という祭壇の上で、その血を流されたことを指し示しています。イエス・キリストは、十字架の上でご自分を注ぎ出し、それによって、罪びとのために赦しときよめを勝ち取ってくださったのです。イエス・キリストは、ご自分のいのちを注ぎ出されたからこそ、神のいのちである聖霊を、信じる者に注ぐことができたのです。
イエス・キリストを信じる者たちは、イエス・キリストの血によって、罪の奴隷から買いとられた者、贖われた神の民です。かつて、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、過越の子羊の血によって、エジプトから解放され、約束の地を目指したように、キリストを信じる者たちも、天を目指してこの世を旅しています。イスラエルの人々は、荒野の旅行の間、「パンがない。水がない」と、いつも不平不満を口にしましたが、神は、毎日、毎日、「マナ」という天からのパンによって人々を養い、荒野でも水を湧き出させ、人々の渇きをいやされました。同じように、神は、今日、聖餐のパンという食べ物、ブドウ酒という飲み物によって、信じる者たちを養い、生かしてくださっています。神が備えてくださったパンと水を感謝するために、イスラエルの人々が仮庵の祭りを祝ったように、キリストにある者たちも神が私たちに与えてくださったまことの食べ物とまことの飲み物であるイエス・キリストを、聖餐を守ることによって感謝するのです。キリストが与えてくださる聖霊によって、いやされ、満たされ、生かされて、天への旅を歩み続けるのです。
仮庵の祭りで注がれた水はすぐに乾きました。しかし、イエス・キリストが私たちのうちに与えてくださる生きた水は、すぐに乾いてしまうようなものではなく、それは大きな流れになり、私たち自身を生かすばかりか、他の人々をも潤すようになるのです。イエスが「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われたように、私たちも「聖書が言っているとおりに」信じて、渇きをいやす生ける水の川を体験しようではありませんか。
(祈り)
主イエスさま、あなたは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。しかも、小さな声でささやかれたのではなく、大声で叫ばれました。たましいの渇きのない人などどこにもいません。その渇きに気づいていないだけです。それに気づき、あなたの叫びを聞き、あなたの招きにこたえる私たちとしてください。他の人々に、あなたのいやしを分け与えることができるまでに、私たちのたましいの渇きを聖霊によっていやし、満たしてください。この後いただく聖餐をそのために用いてください。心から願って祈ります。アーメン。
7/31/2011