7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
先週は、この少し前の個所からイエスと兄弟たちの対話を学びました。それは、仮庵の祭りが祝われようとしていたころでした。仮庵の祭りというのは、10月ごろ行なわれる秋の祭りで、イスラエルの男子はみなエルサレムに集まり、エルサレムはたいへんな賑わいを見せました。兄弟たちはイエスに「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」と言いました。兄弟たちは「この仮庵のまつりを利用して、そこで大きな奇蹟をし、人々に自分を認めさせたらどうなんだ。」と言いたかったのです。もっと平易に言えば「そろそろこのへんで一旗あげたらどうなんだ。」ということかもしれません。イエスはこれに対して「わたしの時はまだ来ていません。」と答えました(6節)。イエスに与えられた使命は、人々の喝采を浴びることでも、人気者になることでも、同調者を増やすことでもなくかったのです。むしろ、人々のしもべとなり、仕える者となって、ご自分の命を人々のために差し出すことだったのです。そしてイエスは兄弟たちに「わたしはこの祭りには行きません。」(8節)と言いました。
ところが、仮庵の祭りも半ばになった時、イエスはエルサレムの神殿に登って教えはじめたのです。イエスが「わたしはこの祭りには行きません。」と言ったのは嘘だったのでしょうか。いいえ、イエスが、兄弟たちに言ったのは「公にはエルサレムに上っていかない。」という意味でした。イエスが公にエルサレムに上るのは、この仮庵の祭りではなく、翌年の春の過ぎ越しの祭りの時でした。その時には、イエスはロバに乗り、人々の歓声を受けてエルサレム入城を果たしました。仮庵の祭りはイエスの時ではなかったのです。イエスの時が来るまではまだ半年ありました。仮庵の祭りの時にイエスはプライベートな旅行をされたのです。
一、たましいの渇き
さて、仮庵の祭りでは、人々は布や木の枝で作った小屋を建て、そこで一週間をすごしました。これは、イスラエルがエジプトを脱出して荒野を旅した時、テントに住んだことを記念するためでした。この時期は、穀物やオリーブ、ぶどう、いちじくなどの収穫の時期で、そうした収穫の時には、人々はぶどう畑の真中に小屋を作って過ごしましたので、仮庵の祭りはそのこととも関連がありました。それは、一年の収穫を喜び祝う楽しい祭りでした。この祭りではさまざまな儀式が行なわれましたが、この祭りに特徴的な儀式は、祭壇に水を注ぐ儀式でした。祭司は、朝、夕の犠牲をささげる時、シロアムの池に行って金の「かめ」に水を満たし、それを神殿に運び、ラッパの伴奏でイザヤ書12:3にある「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」という言葉を歌いながら、その水を祭壇に注いだのです。それは神が、荒野を旅したイスラエルに常に水を与えてくださったことを覚え感謝するためでした。
イエスが宮に立って、大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言ったのは、そのような儀式の執り行われている時でした。祭司たちが注いだ水は、祭壇の回りを濡らすだけで終わりました。しかし、イエスが与える水は、「生ける水の川」となって流れ出すのです。たとえそれが祭司や宗教家であっても、人間から受け取る水はただの水であり、それは、決して人々の渇きをいやすことはできないのです。私たちの渇きをいやすのは、イエスが与える水だけです。
イエスは「だれでも渇いているなら」と言いましたが、イエスが意味した「渇き」は肉体の渇きというよりはむしろ、精神的な渇き、たましいの渇きのことでした。肉体の渇きは、誰もが感じます。日本からカリフォルニアに来た人たちは、しばらくすると、日本にいた時よりも、喉が渇き、肌が乾くのを感じたことでしょう。アリゾナに行けば、カリフォルニアよりもっと乾燥していて、車のホイールなどを野ざらしにして売っていても、それがほとんど錆びないということを聞いたことがあります。水は私たちのからだになくてならないものです。私たちのからだの80パーセントから60パーセントは水分でできています。水分が少なくなると、最初は、喉が渇き、次に疲れを感じます。もっとなくなると発熱し、様々な病気を引き起こします。局限に達すると、発狂したりもするそうです。私たちのからだは渇けばそれに反応するのです。
しかし、精神の渇き、魂の渇きは、肉体の渇きのようには、目に見えてきません。肉体の渇きと違って、気を紛らわせたりして思いをそらせたり、渇きそのものを否定することができるからです。しかし、渇きを満たしておかないと、私たちの生活にひびが入り、人格がしなえ、そして、魂の死にいたります。多くの人は、自分の価値を見失い、それを求めて渇いています。日本の若者たちが、定まった生活ができないで、社会に背を向けて、自分だけの世界に閉じこもっているのは、自分の価値を知らないからです。私たちのたましいは、人生の意義を求めているのですが、それを人に求めても答えが返ってこず、社会に求めても、人々のもの笑いになってしまうだけなのです。「人は何のために生きるのか。」という問いをぶつけても、「そんなことを考えていると、勉強が遅れるよ、みんなからおいていかれるよ」という答えしか返ってこないのです。また、多くの人は、孤独の中におきざりにされています。表面ではつきあえる友達はいても、自分の心を開いて見せることができないのです。人を愛することも、人から愛されることもできないで、本当の愛に渇いているのです。そればかりではありません。私たちのたましいの奥深くには、神への渇きがあります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)とあるように、どの人も、魂の奥底では、神を知りたい、造り主である神に出会いたい、たましいの親である神に帰りたいという願いがあるのですが、誰も、まことの神を教えてくれる人、神のもとに導いてくれる人はいないのです。
二、キリストのもとに
しかし、イエスは、たましいの渇きを持つ人を「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と招いておられます。イエスはまず「わたしのもとに来なさい」と言われました。マタイ11:28でもイエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」(マタイ11:28)と言われました。イエスは、「ここに行けば渇きがいやされる。あそこに行けば疲れがいやされる。」とは言わず、「わたしのもとに来なさい。」と呼びかけておられます。英語では「わたし」という言葉は大文字で書き、ほとんどの場合、文章の先頭にあってとても目立ちますが、ギリシャ語では、「わたし」という言葉は、「他の人ではなく、このわたしだよ」というように、強調する時以外はあまり使いません。イエスがここで「わたし」という言葉を使っているのは、「生ける水の源は、他にはない、このわたしのうちにあるのだ。」と言いたかったからです。イエスは、私たちが、他のものにまどわされず、イエスに目を向けることを願っているのです。そして、イエスは、万物の創造者であり、主権者であり、「わたしは有って有る者」と言うことのできるお方ですから、イエスはそのように言うことができたのです。本当の意味で大文字の "I" を使うことができるのは、主イエス・キリストのみです。この主イエスの前では私たちの "I" は常に小文字の "i" であるべきですね。
イエスは、このように「わたしのもとに来て飲みなさい。」と人々を招いていてくださるのに、人々は、イエスに耳を貸さないばかりか、別のところに行って渇きをいやそうとしています。まことの神を否定しても、人の心の渇きは満たされません。それで、人々はその渇きを自分の力で満たそうと、さまざまな宗教を作りだし、最後には「無神論」という「宗教」まで作りました。私は無神論を宗教だと思っています。しかも、その信者は、神を信じる人々よりも強い「信仰」を持っています。神がおられることの証拠は数限りなくありますが、神がおられないことの証拠は何ひとつないにもかかわらず、「神はいない」ということを堅く信じているのですから。五月の「全米祈りの日」に、サンノゼのシティーホールで行なわれた「祈り会」に無神論者の人々も来て、祈り会に反対していましたが、その時、サンノゼに無神論者の団体があることをはじめて知りました。無神論の人々も、同じ「信仰」を持つ人たちが集まる「教会」を持っているのですね。しかし、どんな宗教も、私たちのたましいを生かすことはありません。聖書は神を捨てて、他のものを求めていく人々に、このように警告しています。「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ2:13)水ための水はやがて乾いてしまします。ましてや、こわれた水ためでは、水をためておくこともできません。まことの神を否定したなら、どんなに水ためを掘っても、それによってはたましいの渇きをいやすことはできないのです。今こそ、いのちの水の源であるキリストに向かっていく時なのです。
三、聖霊の注ぎ
イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われ、続けて「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言いました。イエスに来るものはその人の渇きがいやされるだけでなく、他の人をもうるおす水が流れ出るというのです。イエスは「聖書が言っているとおりに」言いましたから、そうした言葉が聖書のどこかにあるはずです。調べてみましたら、イザヤ44:3にこうありました。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」
神の民に聖霊が注がれることは長い間の聖書の約束で、聖書のいたるところにあります。エゼキエル書47章には、神殿のから流れ出る水のことが書かれています。その流れは最初は足首が隠れる程度の小さな流れなのですが、やがて、水はひざに、そして、腰に、さらにはもう、泳げるほど深く、大きな川になっていきます。その川には多くの魚が住み、その両岸には木が茂り、その川の流れていくところで、その回りのものを生かしていくのです。イエスが「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言ったのは、このことです。私たちひとりびとりが、聖霊の宮になり、そこから聖霊の恵みが、大きな川のように流れ出すのです。それは蛇口から水がチョロチョロ流れ出すようなものではありません。清らかな水をいっぱいたたえて流れる川を想像してみてください。私たちの人生が、豊かな流れのような人生になると、イエスは約束してくださったのです。仮庵の祭りでは祭司が祭壇に水を注ぎました。しかし、注がれた水はすぐに乾き、決してそれは大きな流れにはなりませんでした。しかし、イエス・キリストが、ご自分のからだを、私たちの救いのための犠牲として、霊的な祭壇に捧げた時、そこから、聖書の約束のとおり、私たちを生かす聖霊の川が流れ出たのです。キリストは十字架で救いのみわざを成し遂げ、復活されて、父なる神のもとに帰り、そこから、キリストを信じる者たちに聖霊を注ぎました。イエスこそが、聖書に約束されていた聖霊を私たちにくださるお方です。イエスが「聖書が言っているとおりに」と言ったのは、イエスによって、この聖書の約束が成就し、私たちが豊かな人生を送ることができるようになったからです。
聖書が約束し、イエスが私たちに与えるものは聖霊です。神の恵みや、力だけでない、恵みの源、力の源、神ご自身である聖霊です。聖霊は、キリストを信じる者のうちに住んでくださいます。キリストによって私たちは罪の中から買い戻されて神のものとなり、私たちは神の中に生きるのですが、それだけでなく、聖霊によって、神が私たちの中に生きてくださるのです。神は外側から私たちを教え、導くだけでなく、私たちの内側にいて、私たちに力を与え、支えてくださるのです。そして、聖霊が私たちの内側にいてくださる時、私たちは聖霊によって他の人々を潤すようなものを持つことができるのです。
キリストを信じた者にはすでに聖霊が宿っておられます。しかし、すべてのクリスチャンから聖霊の恵みが流れ出ているとは限りません。聖霊の恵みにうるおされ、それを人々に分け与えるためには、内に住んでいてくださる聖霊に自分の思いを、生活を導いてくださいと、祈る信仰が必要です。新改訳聖書の注に「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい。」とあるように、日ごとに主イエスのもとに来て、聖霊の恵みにより頼む姿勢が求められています。また、ここは「渇いている人を、わたしのもとに来させなさい。」とも訳すことができます。b黷ヘ、たましいの渇きを覚えている人々をイエスのもとにお連れするようにとの呼びかけでもあるのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」この約束を、多くの方々とともに体験させていただきましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちに聖霊が与えられると約束してくださり、その約束をイエス・キリストによって成就してくださいました。今、私たちが約束の成就の時代、聖霊の時代に生きていることを感謝します。イエスは今も、渇いている者に「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい。」と呼びかけ、また、聖霊を受けた者には「渇いている人を、わたしのもとに来させなさい。」とチャレンジしてくださっています。この招きに、このチャレンジにこたえる私たちとしてください。私たちの渇きをいやすお方、生ける水の源であるイエス・キリストのお名前で祈ります。
6/30/2002