6:32 そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。
6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
今朝は主の祈りの第四の願いを学びます。「我らの日用の糧をきょうも与えたまえ。」この祈りの言葉を弟子たちに授けてくださったとき、主イエスは、弟子たちがどんな心でこれを祈るよう期待されたのでしょうか。そのことをご一緒に学び、どうしたらこの願いをよりよく祈ることができるかを考えてみたいと思います。
一、生活の必要を求める
この祈りによって、主イエスは、第一に、生活に必要なものは、神に求めるようにと、教えておられます。
「我らの日用の糧をきょうも与えたまえ」の「日用の糧」、「日ごとのパン」とは、生活の必要を意味します。「日ごとの」と訳されている言葉は “epi-ousi-os” といって、新約聖書では主の祈りでしか使われていない言葉です。これには、「存在を支えるのに必要なもの」という意味があります。ローマの兵隊は行軍していくとき、毎日、その日に必要な食糧を支給されました。「日ごとの」という言葉は、その一日分の食糧のこと指すときに使われました。主イエスはわたしたちに、一ヶ月や一年分もの食糧を願い求めるのではなく、毎日、その日ごとの食べ物を感謝し、それに満足するようにと教えられたのです。神はわたしたちに、必要なものは何でも求めるようにと命じてくださいました。しかし、必要をこえて、あれもこれも自分のものにしたいという貪欲を戒めておられます。
ルカ12:16-20に「愚かな金持ち」のたとえがあります。ある金持ちの畑が大豊作となりました。蔵に穀物が入りきらなくなりました。金持ちはどうしようかと考え、そして思いつきました。「今ある蔵を取り壊して、もっと大きな蔵を建てよう。そこに全部しまいこもう。」そして自分のたましいにこう言いました。「たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。」ところが、神は彼にこう言われたのです。「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。」この人は「愚かな金持ち」と呼ばれていますが、人間の目からみれば、決して「愚か」ではなかったと思います。知恵や能力のある人だったからこそ、財産を築きあげることができたのでしょう。しかし、この金持ちは、自分の命が持ち物によってではなく、神によって支えられているということを忘れていました。何年も食べるに困らない食糧を蓄えたとしても、それが人を生かすのではないことに気付いていなかったのです。この世のものはいつかは無くなる、不安定なものです。そうしたものに頼る生き方ほど不安定なものはありません。このことが分からなかった彼は愚かでした。
多くの人は、金持ちになりたがります。お金があれば何でも買えると思っているからです。わたしたちにそう思わせるようなことが世の中にあふれています。しかし、果たして、ほんとうにそうでしょうか。お金があればご馳走を買うことはできます。しかし、それだけでおいしく食べられるわけではありません。心に悩みをかかえこんで食事が喉をとおらない人、人を憎み、人から憎まれ、誰とも心うちとけて話すことができず、まるで砂を噛むように食べ物を口に運んでいるだけの人も多いのです。また、お金があれば高級なベッドを買うことができるでしょう。しかし、思いわずらいや恐れでいっぱいの人は、決して安らかな眠りを味わうことができないのです。
マイケル・ジャクソンは睡眠薬の助けなしには眠られなくなり、自分の医者を雇い、睡眠薬を処方させましたが、そのために命を落としました。それは6年前(2009年)のことですから、まだ皆さんの記憶に新しいことでしょう。お金で医者は雇えても、命を買うことはできなかったのです。わたしたちを生かしてくださっているのは、富ではなく、神です。わたしたちが人生に愛と喜びと平安を持つことができるのは、神の救いと祝福によるのです。「日用の糧をきょうも与えたまえ」と祈ることによって、わたしたちは、わたしたちを生かしているのが、モノではなく神であることを知り、神に信頼することを学んでいくのです。
「必要なもの」(needs)と「欲しいもの」(wants)とは違います。神は、わたしたちが、貪欲になって、あれもこれもと願うものすべてを叶えてくださるわけではありません。わたしたちが願うものの中には、それが自分を不幸にしてしまうものもあります。神は、わたしたちが「欲しいもの」(wants)を与えてくださらないかもしれません。しかし、神は、わたしたちに「必要なもの」(needs)は必ず、与えてくださいます。
空の鳥を養い、野の花を装わせてくださる神が、神に信頼し、神のみこころに従って労働にいそしむ者に必要なものを与えてくださらないわけがありません。詩篇37:25に「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が/食物を請いあるくのを見たことがない」とあるとおりです。「日ごとのパン」の「パン」には、実際のパンや食べ物だけでなく、着るものや住む場所、教育や職業など、地上で生きていくのに必要なさまざまなものも含まれているでしょう。主はわたしたちのどんな必要をも満たしてくださる。そう信じて、日ごとの必要を、日ごとに、神に祈り続けたいと思います。
二、霊の糧を求める
この祈りによって、主イエスは、第二に、わたしたちに「霊の糧」を願い求めるようにと、教えておられます。
「日ごとのパン」の「日ごとの」という言葉、“epi-ousi-os” には、「存在を支えるもの」(necessary for existence)の他に「存在を超えたもの」(super substance)という意味もあります。人は霊とからだを持っています。人間には目に見えるパンだけでなく、目に見えないパン、霊の糧が必要です。私たちが願い求める「日ごとのパン」には、目に見える生活の必要とともに、わたしたちの霊を生かすものも含まれているのです。「日ごとのパンをきょうもお与えください。」こう祈るとき、わたしたちは、霊の糧をも祈り求めているのです。
では、わたしたちが求めるべき霊の糧とは何でしょうか。それは「神の言葉」です。主イエスは「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」と教えておられます。パンはわたしたちの口から入って、わたしたちのからだを生かします。しかし、わたしたちの霊は、神の口から出る言葉によって生かされます。第一ペテロ2:2に「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」とあります。イエス・キリストを信じて神の子どもとされたばかりの人は、霊的にはまだ「幼な子」です。霊のミルク、神の言葉で養われなければなりません。では、クリスチャンになって何年もなる人は、もう成長してしまっているから、神の言葉が必要でなくなるのでしょうか。そんなことはありません。子どもは成長するに従ってたくさんのものを食べます。ティーンエージャの子どもを何人も持っている母親が、「いくら補充しても、冷蔵庫がすぐに空っぽになってしまうんですよ」と言っていたのを思い出します。同じように、成長したクリスチャンには、もっと多くの霊の糧が必要になります。クリスチャンとして年月が経ち、家庭で、社会で、また教会での責任が増えていくのに、まだ「幼な子」程度の霊の糧しかとっていなければ、霊的に力をなくしてしまうのは当然です。神の子どもとして成長するために、また成長したクリスチャンとして神に仕えるために、わたしたちは、日ごとに、霊の糧を祈り求めていきたいと思います。
しかし、この霊の糧、神の言葉を、わたしたちはどこに求めれば良いのでしょうか。その答えはきょうの聖書箇所にあります。主イエスは「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われました。わたしたちの霊を生かす生命のパンは、主イエスのもとにあります。主イエスご自身が生命のパンなのです。
主イエスが「わたしが命のパンである」とおっしゃったのは、あの「パンの奇蹟」をなさったあとでした。主イエスは僅かな食べ物をもとに、それを増やし、大勢の人々に食べ物を与えました。かつてイスラエルは、エジプトから救いだされて荒野にいたとき、「マナ」という食べ物で養われました。主イエスは「パンの奇蹟」をなさることによって、ご自分が、人々を罪から救い、救われた者を養い導く「メシア」、救い主であることを証しされたのです。ところが、この奇蹟を見たユダヤの人々は、主イエスを王にしようと、主イエスを追いかけまわしました。主イエスに自分たちの王になってもらえば、食いはぐれがないと考えたからです。それで、主は「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(ヨハネ6:26-27)と言われました。主イエスは、ご自分を王にしようとしているユダヤ人の動機を見抜いておられました。彼らが、まことの救い主を求めていないことを知っておられたのです。
主イエスはさらに、「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう (ヨハネ6:51, 54-57)と言われました。人肉を食べ、その血をすするというのは、それが実際のことなら、じつに恐ろしいことです。これを聞いた人たちは、この言葉に驚き、あきれて、主イエスから離れていきました。しかし、主イエスが、こうおっしゃったのは、主イエスがその身を、わたしたちの罪のあがないのために差し出されることを指してのことでした。主イエスは十字架という祭壇の上に、ご自分をささげ、血を流してくださったのです。主イエスから離れていった人たちは、主イエスが十字架のことを語っておられたのに、そのことを悟らなかったのです。主は十字架の上でご自分のからだを裂き、血を流して、わたしたちを罪から救ってくださいました。主イエスのからだを食べ、主イエスの血を飲むとは、主イエスのこのあがないのみわざを、自分のものとして信じ受け入れること、主イエスとの霊のまじわりを保ち、実際の生活の中で主イエスに従うということを意味しています。
わたしたちがこれから守る「主の晩餐」では、主イエスのからだを表わすパンを食べ、主イエスの血を表わすワインを飲みます。そうすることによって、わたしたちは主イエスの言葉どおり、主イエスこそまことの食べ物、まことの飲み物、わたしを生かしてくださるお方であることを、言い表わすのです。主は、晩餐式のパンとワインを用いて、わたしたちに、霊的な養いを実感させてくださり、それをわたしたちの心とからだに刻み込んでくださるのです。
主イエスは、わたしたちの生活の必要と、霊的な養いのために、日ごとに祈ることを教えてくださいました。あなたにはどんな必要があるでしょうか。主の祈りを祈るたびに、神がそれを満たしてくださることを信じて祈りましょう。わたしたちには日々の必要とともに、日々の霊の糧が必要です。それなしには、わたしたちの霊が生きることはありません。主の祈りを祈るたびに、霊の糧の必要に気付き、熱心にそれを願い求めていきましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたはわたしたちの霊と肉の必要をいつも心にかけてくださっています。その必要を満たすために、あなたは、あなたの御子を「命のパン」として、わたしたちに与えてくださいました。わたしたちが、常に主イエスのもとに行き、主イエスのうちにとどまり、主イエスに従うことができますよう導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
9/6/2015