6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
きょうは、ヨハネの福音書にある7つの「しるし」の第4番目、イエスが、五千人もの群衆の空腹を満たした「パンの奇跡」について学びます。いつものように、このしるし(奇跡)が、イエスをどのようなお方として示しているか、また、私たちにどのような信仰を求めているかをご一緒に考えましょう。
一、イエスと群衆
まずは、この奇跡が群衆にとってどんな意味があったかを考えてみましょう。ここに集まった人々は、イエスのあとを追ってやってきた人々でした。このころ、神の言葉を教える人々は「ラビ」(教師)と呼ばれていました。ふつう、神の言葉は、安息日に「シナゴーグ」(会堂)で教えられるのですが、イエスは、会堂から締め出されたこともあって、しばしば野外で人々を教えました。イエスの教えは、今までのラビたちが話したことのないもので、神の言葉に飢え渇いていた人は、イエスが各地を巡回されるあとを追い慕って集まりました。それがどんなに人里離れたところでも、イエスのおられるところに、人々が集まったのです。司馬遷が書いた中国の歴史書『史記』に「桃李不言下自成蹊」(桃李もの言わざれども、その下に自ずから蹊を成なす)という言葉があります。「桃やスモモの木の下には、その実の美味しさに惹かれて人々が集まり、そこに至る道が自然とできる。そのように、徳の高い人のまわりには自然に人が集まって来る」という意味です。イエスはたんに「徳の高い人」や「人気者」といったお方ではありません。神の御子です。神の御子としての聖さや麗しさがにじみ出ていて、人を惹きつけずにはおれなかったのです。この時も、そこは、町から離れた野原でしたが、五千人もの人々がイエスのもとに集まり、イエスの話に耳を傾けていました。
ところで、当時の食事は一日二食で、朝食と夕食だけでした。夕食は、日没前に済ませましたので、日が傾きはじめると夕食の用意をしました。ところが、夕食の時間が迫っているのに、イエスの話は延々と続き、人々も時の経つのも忘れて、それに聞き入っていました。弟子たちは気が気でなく、イエスに言いました。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」(マタイ14:15)しかし、イエスは、そこにいた少年が持っていた「大麦のパン五つと、魚二匹」(9節)を祝福して、弟子たちに渡し、人々に配らせました。大麦のパン5つと干し魚2匹は、一人で食べるには十分ですが、5千人に分けたら、一人ひとりは、まるで、塵のようなものしか手にすることができません。ところが、イエスの手からは、人々が望むままにパンが生み出され、弟子たちから配給を受けた5千人の人たちは満腹したうえ、食べ残したパン屑を回収すると12のかごがいっぱいになったのです(13節)。
人々は、そのパンがイエスの手から生み出されたものであることを知ったとき、驚きに満たされ、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました(14節)。ここで、言われている「預言者」とは、エリヤやエリシャ、イザヤやエレミヤといった人々のことではありません。「世に来られる預言者」、それは、預言者以上のお方、救い主を指しています。モーセは申命記18:15で「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない」と言いました。モーセは、神の言葉を伝えただけでなく、イスラエルが荒野を旅した40年の間、天からのパン、「マナ」という食べ物で、人々を養いました。「モーセのような預言者」とは、そのように神の民の必要を満たし、守り、約束の地へと至らせる救い主を指していたのです。
ヨハネ1:21で、人々は、バプテスマのヨハネに、「あなたはあの預言者ですか」と質問しました。「あなたはあの預言者ですか」は、英語でいえば、Are you the Prophet? で、「預言者」に the がついています。a prophet でなく、the Prophet です。ですから、「あの預言者」とは、モーセが預言した救い主を指しています。ですから、バプテスマのヨハネは、a prophet ではあっても、the Prophet ではなかったので、その質問に「違います」と答えたのです。もし、イエスに同じ質問をしたら、イエスは「そうです」とお答えになったでしょう。イエスは言われました。「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから」(5:46)と言って、ご自分が、モーセが預言した救い主であることを認めておられす。イエスは、この「パンの奇跡」によって、それを目に見える形で表されたのです。
40年の間、イスラエルは荒野で、何度も神に逆らいました。けれども神はイスラエルをあわれみ、約束の地に向かう旅の間、モーセを通して、すべての必要を満たしてくださいました。モーセは荒野の旅をふりかえって言いました。「私は四十年の間、荒野であなたがたを導いたが、あなたがたが身に着けている上着はすり切れず、その履き物もすり切れなかった。」(申命記29:5)神は、イスラエルの荒野の旅を完全に守ってくださいました。
イスラエルにとっての「約束の地」は私たちとっては、「天」です。「荒野の旅」は天に向かう「信仰の歩み」です。イエスがなさった「パンの奇跡」は、私たちの天への旅に必要なものはイエスがすべて与えられるとの約束を示すものだったのです。詩篇145:15-16に「すべての目はあなたを待ち望んでいます。/あなたは 時にかなって/彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き/生けるものすべての願いを満たされます」とあり、詩篇147:8-9には、「神は濃い雲で天をおおい/地のために雨を備え/また 山々に草を生えさせ、獣に また 鳴く烏の子に/食物を与える方」とあります。野の獣や、空の鳥を養ってくださる神が、私たちを養い、必要を満たしてくださらないわけがありません。イエスは、五千人の人々に、霊の糧である御言葉を与えただけでなく、実際的な必要をもお与えになりました。それによってご自分がモーセにまさるお方、私たちの人生の旅路、また信仰の歩みの導き手であり、その必要すべてのプロバイダーであることを示されたのです。
二、イエスと弟子たち
次に、弟子たちにとって、この奇跡にはどんな意味があったかを考えてみましょう。マタイの福音書には、弟子たちが、「村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください」と言ったのに対して、イエスは「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」と言われたとあります(マタイ14:16-17)。イエスは、弟子たちに、自分たちで群衆にパンを配ることを命じたのです。それを聞いた弟子たちは、心の中で「これから村に行って5千人分のパンを買って、それをここに運んでくるのか? それだけのお金があるのか? 自分たちだけでどうやって運ぶというのだ?」と言って、慌てたことでしょう。イエスは、ピリポに、「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われましたが、これは、ピリポが心の中で思っていたことでした。イエスは、ピリポの心を読み取って、そう言われたのです。ピリポはすぐに計算し、「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」との見積もりを出しました(5-7節)。弟子たちは伝道旅行の必要と施しのため、いくらかの資金を持っていましたが、その時手許にあったのが二百デナリだったのでしょう。ピリポは計算して、二百デナリでは、五千人にパンを与えることは不可能だと結論づけました。
アンデレはピリポよりも積極的でした。群衆の中に食べ物を持っている人がいないかどうか調べ、ひとりの少年が「大麦のパン五つと、魚二匹」を持っているのを見つけました。しかし、アンデレは、こう言いました。「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(8-9節)アンデレもまた、不可能だとの結論を出しました。
イエスが「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」と言われたのは、不可能なことを命じる乱暴な命令ではありません。確かに五千人もの人に十分な食べ物を与えることは弟子たちにはできないことでした。「大麦のパン五つと、魚二匹」だけでは、何の役にも立たないでしょう。しかし、そこにはイエスがおられるのです。イエスの力によって可能にならないものはありません。イエスが私たちに何かをするように命じられるときは、かならず、それができる力や助けを備え、与えてくださいます。イエスは、何の助けもなしに、私たちに無理難題を押し付けられるお方ではありません。弟子たちは、イエスのお力によって人々にパンを配ることができたのです。
群衆は、パンを受け取ったとき、最初は、弟子たちがどこかにパンを用意していたか、ちょうどいいタイミングで、村人たちがパンを持ってきたのかと思ったかもしれません。しかし、あとで、それが奇跡によるものであることを知って、驚いたのですが、弟子たちは、パンがイエスの手から生み出されていく奇跡を直接目撃し、イエスが生ける者すべてを養われる神であることを知ったのです。弟子たちは、最初は「そんなことができるわけがない」と思い込んでいましたが、イエスの命じられたとおりにすることによって、イエスの神としての大きな力を見ることができたのです。イエスが弟子たちに、「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」と言われたのは、イエスが、弟子たちをご自分の奇跡に参加させ、それによって弟子たちがイエスをさらに深く知るためだったのです。イエスは全能の神ですから、人の手を借りなくても、お一人ですべてのことを成し遂げることがおできになります。しかし、イエスがあえて弟子たちの手を借りてこの奇跡をなさったのは、弟子たちがイエスご自身を深く知ることを願われたからでした。
それは、水をぶどう酒を変えた奇跡でも同じでした。宴会の世話役は水がぶどう酒に変わったものを飲んで、その美味しさに驚きましたが、それがどこから来たかを知りませんでした。しかし、水を汲んだ給仕の人たちは、それが、イエスの御業から来たことを知っていました。文語訳では「水を汲みし僕どもは知れり」とあります(ヨハネ1:9)。イエスの言葉に従い、イエスに奉仕することによってしか知ることのできないものがあるのです。
イエスを信じ、イエスに従うことは、喜ばしいことなのですが、まわりの目を気にしたり、自分の計画を優先させたりして、主が「しなさい」と言われることに尻込みしてしまうことがあります。また、イエスが助けてくださることを考えに入れないで、ピリポのように、自分の力だけを計算して、「私にはできない」という結論を出してしまうこともあるでしょう。また、自分に与えられた賜物を認めても、アンデレのように、「こんなにわずかでは、だめでしょう」と判断してしまうことがあるかもしれません。しかし、それでは、イエスの偉大な力を体験する機会を逃してしまいます。
「イエスを知る」という場合、3つの知り方があります。知識として知る知り方と、霊で知る知り方、そして体験で知る知り方です。これらはきちんとつながっていて、バランスのとれたものでなければならないのですが、どれかが欠けてしまうことがあります。知識として知ることが欠けると私たちの信仰は正しいものにならず、霊で知ることが欠けると、信仰に愛や情熱が伴わなくなります。さらに、体験として知ることが欠けてしまうと、私たちの信仰は確信のないものになり、力を失います。
主が「しなさい」と言われるとき、そこには必ず主の助けがあることを信じましょう。主に従って一歩踏み出すことによって、私たちは、主の力を見、主の素晴らしさを知ることができます。「水を汲みし僕どもは知れり。」この言葉が私たち一人ひとりに実現することを祈ります。
(祈り)
父なる神さま、きょう、私たちは、イエスが私たちの日々の歩みになくてならない糧を与え、信仰の旅を守り導いてくださるお方であることを知りました。また、イエスは、ご自分の御業に私たちを参加させ、それによって、ご自分を知らせようとしておられることも学びました。私たちが、天に向かう信仰の旅路において、豊かな糧を受け、イエスの偉大な力を体験する幸いにあずかることができますよう、導き、助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/11/2024