5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」
5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
5:20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
5:27 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
ある人が「キリスト教とはキリストである。」と言いました。キリスト教は二千年の歴史を持っていますが、その長い歴史がキリスト教の中心ではありません。キリスト教は高い道徳的規準を持っていますが、その基準がキリスト教で一番大切なものだというのではありません。キリスト教は社会を改善してきましたが、それがキリスト教そのものというわけでもありません。キリスト教で一番大切なのは、イエス・キリストご自身です。イエス・キリストがどのようなお方であるかということです。ジョン・ストットという英国の聖書学者は「キリスト教からキリストを取り除いてしまえば、中身は何も残らない。」と言っています。キリスト教の歴史をどんなに学んでも、その神学をマスターしたとしても、イエス・キリストというお方を知らなければ、私たちはそこから、私たちのたましいを生かすどんなものも得ることはできないのです。キリスト教を知ることと、キリストを知ることとは違います。キリスト教に触れ、その良いものを吸収することは決して悪いことではありません。それによって、ある程度は人生を豊かにすることができるでしょう。しかし、キリストを知ることがなければ魂の中にある深い求めを決して満たすことはできず、人生の意味や目的をつかむことはできないのです。
しかし、キリストを知ることができたら、イエスがどのようなお方かが分かれば、人生のさまざまな疑問に答えを得ることができます。私たちの人生の目的がどこにあるのか、私たちに与えられている使命はいったい何なのか、私たちはいかに生きるべきなのか、人生で出会う痛みや苦しみにはどんな意味があるのか等について解決を得ることができるようになるのです。そして、私たちはそのことによって、自分の人生が根底から変わっていくのを体験するでしょう。キリストを知ること、イエスが誰であるのかを知ることは、私たちにとって決して無関係なことではないのです。
では、どうのようにして、私たちはキリストを知ることができるのでしょうか。それは、イエスのことばに耳を傾けることによってです。イエスは、いつも人々にご自分が誰であるかを明らかにしてこれらました。今日の個所でも、イエスはご自分が誰であるかを示しておられます。先週は三十八年間病気だった人を、イエスがいやしたことを学びましたが、実は、このことから大きなトラブルが起こるのです。しかし、イエスはご自分が誰であるかを、このトラブルを通して、はっきりと示して行かれます。今朝は、そのことを学んでいきましょう。
一、ユダヤ人の批難
イエスは三十八年間も病気だった人をなおしてあげました。イエスの「起きて、床を取り上げて歩け」ということばに、その病人は「起きて」、「床を取り上げて」、「歩いた」のです。イエスのおことばには病気の人をたちどころにいやし、立ち上がらせ、歩かせる力があるのです。私たちも、イエスの力あるおことばによって、むなしく、無力だった状態から立ち上がり、新しい人生を歩むことができるようになりました。イエスは今も、私たちに「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と語りかけてくださっています。
さて、この病人が、「起きて、床を取り上げて歩き」出しますと、ユダヤの指導者たちがすぐに飛んで来て、「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」と文句をつけました。当時、ユダヤでは、金曜日の日没から土曜日の日没までいっさいの労働が禁じられており、それは、今日も守られています。私はイスラエル旅行に行った時、ちょうど金曜日の夕方にエルサレムのホテルに泊まることになりました。ホテルにはいくつかのエレベーターがあるのですが、そのいくつかは、安息日が始まると自動運転に切り替わって、各階ごとに止まっては一定時間が経つとドアが閉まって次の階に行くのです。なぜかというと、エレベータのボタンを押すのは、安息日にしてはいけない「労働」にあたるからというのです。そういえば、ある人が写真を撮ってもらおうとユダヤの男の子にカメラを渡そうとしたら、「今日は、安息日だから駄目」と言われたということも聞きました。現代でさえ、カメラのボタンを押すのが安息日にしてはならないことなら、今から二千年前にベッドをたたんで持ち運ぶなどとは、彼らにとって、決して見逃すことのできない重大な安息日に対する罪だったのです。
しかし、イエスのなさったことは決して非難されるべきことではありませんでした。安息日は、本来、イスラエルがエジプトの奴隷から解放され、自由の民となったことを喜び、感謝するための日でした。ですから、この人が三十八年間もの病気からいやされ、解放されたのは、安息日の精神にかなったことであり、安息日にふさわしいことだったのです。ユダヤの指導者たちは、イエスがなさったいやしのわざにも、この人が病気をいやされて、喜びのあまり、ベッドを抱えて歩き回っていることにも、決して心を留めませんでした。イエスに反対する人たちには、そんなことはどうでも良いことで、自分たちの作り出した規則に適うか、適わないかが、何よりも大切なことだったのです。
イエスはこういう人々に「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言っています。彼らは、誰よりも物事を良く見える目をもっており、どんな規則違反も見逃がしませんでした。人の目の中のちりまでも見逃さないのです。ところが、彼らは、神のみわざに対してまったく盲目でした。三十八年も寝たきりの人が起き上がるという神の力あるわざが目の前で行われているのに、彼らにはそれが全く見えていなかったのです。神のわざが見えなければ、自分の姿も見えません。ですから、この人たちは、自分の目の中にある梁、つまり、大きな罪が見えず、他の人の目の中のちり、つまり、ささいな失敗や欠点を見つけ出しては批判していたのです。彼らは、「自分たちこそ律法の番人である」と自負していたかもしれませんが、実は、こういう人が世の中で一番あわれむべき人なのかもしれません。神の祝福をいただく第一歩は神の前に自分の罪を認めることなのですが、この人たちはそれが出来なかったのです。
二、イエスの主張
ユダヤの指導者が「イエスは安息日を破っている」ということでイエスを批難し、迫害しましたが、それに対してイエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と答えました。この答えは、火に油を注ぐようなもので、ユダヤの指導者はこのために「イエスを殺そうとするようになった」のです。このことばは、イエスが安息日に病人をいやし、その人に「床を取り上げて歩け」と言ったこと以上に、ユダヤの指導者にはがまんのならないことばだったのですが、イエスの言われたことが何を意味し、何がユダヤの指導者の怒りを買ったのか、現代の私たちには、すこし分かりにくいですね。
まず、イエスの「わたしの父」ということばがユダヤの指導者たちの神経に触りました。「父」とは、神のことです。イスラエルの人々は、神を「われらの父よ」と呼びましたが、イエスは、まるで神をひとりじめするかのように「わたしの」父と呼ばれたのです。私たちもまた、神の子どもと呼ばれるのですが、イエスは、神を「わたしの」父と呼ぶことによって、私たちとは違って、正真正銘の神の子であると主張されたのです。実は、新約聖書のギリシャ語では「子」という言葉には、ふたつあって、イエスについては、相続権を持った子、息子という意味の「フィオス」という言葉が使われています。イエスを信じる者たちの場合は「フィオス」ではなく「テクノン」という言葉が使われます。「テクノン」というのは、「親の愛情を受ける者」という意味で、本当は神の子どもではない私たちが、神の愛のゆえに、いうなれば、神の養子となり、神の子として取り扱っていただいているのです。どんなに神に愛されたとしても、神のご性質にあずかるものになったとしても、私たち人間は、どこまで行っても人間で、天使になることも、神になることはありません。しかし、イエスは、ただひとり、神を「わたしの父」と呼ぶことのできるお方です。私たちは造られたもので、無限で、永遠で、完全な神とは違って、有限で不完全なものにすぎません。しかし、イエスは神が無限であるように無限であり、神が永遠であるように永遠であり、神が完全であるように完全です。イエスはイエスの父と同質であり、まったく等しいお方なのです。ただひとりの神、決してご自分の御子をお持ちにならない孤独な神しか信じなかったユダヤの指導者にとって、イエスがそのように主張することはがまんのならないことだったのです。
イエスは、神を「わたしの父」と呼んだだけでなく、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」とも言われました。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。」という言葉の意味は、お分かりいただけるでしょうか。実は、安息日の規定は、イスラエルがエジプトから救われたこととともに、神が七日目に創造のわざを終えて休まれたことにも基づいているのです。神が六日の間に世界を創造され、七日目に休まれたように、私たちも、六日の間働いて、七日目に休むのです。しかし、神が「七日目に休まれた」と言っても、それは、神がすべての働きをやめられたという意味ではありません。それは「創造のわざを休まれた」(創世記2:3)だけであって、神はこの七日目に、その日を祝福するという働きをしておられました。神の創造のわざは終わりましたが、神は引き続いて、ご自分の造られた世界を守り、導き、それを祝福し続けておられます。この世界は神の手から離れても自動的に動いているのではなく、神の御手で支えられているのです。神がその手を少しでもひっこめられたなら、たちまち滅びてしまうのです。詩篇に「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:3-4)とあるとおりです。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。」というのは、こうした神の絶え間のないお働きを言っているのです。
そして、イエスは付け加えました。「ですからわたしも働いているのです。」これは、イエスが病気の人をたちどころに直したのは、安息日にも働いておられる神のわざである、イエスは地上に遣わされた神の子として、天の父のなさるとおりに、安息日にも働くのだと言っておられるのです。マタイの福音書でも、安息日を破っていると非難された時、イエスは「人の子は安息日の主です。」(マタイ18:16)と言っておられます。安息日は礼拝の日です。安息日に礼拝を受ける方、「主」としてあがめられるお方は神以外にありません。イエスは「人の子は安息日の主です。」と言うことによって、ご自分を神と等しくされたのです。
三、イエスの招き
イエスは、安息日のことからはじめて、ご自分の父との関係をさらに深く示されます。19節でイエスはこう言っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」また30節では「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」と言っておられます。イエスが「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。」と言われたのは、イエスのお力に制限があるというのでなく、父のみこころから離れて何事もなさることができないほど、イエスと父とがいったいである、ひとつであることを言い表わしています。イエスはここで、ご自分を、父親の代理で何かをする息子になぞらえておられるのです。
私は、子どものころ、父親から用事を言いつけられたことが良くあります。私のこどものころ、私の町では、まだまだ電話が普及していませんでしたから、たとえば親戚の家などに届け物がある時などは、その家に行ったら、こう言って、これを渡すように。風呂敷は持って帰ってくるようになどと、言い含められたものです。たいてい、風呂敷を返してもらう時にはお駄賃をもらったりしましたので、こういう用事は喜んでしました。時には、行ったきり、その家にあがりこんで、将棋で遊んで、なかなか家に帰らなかったので、姉が迎えに来るというようなこともありました。時には、父は私にお金を扱う仕事も任せてくれたことがあります。もっとも、わが家には使用人などいないので、家族の中で一番暇な私が使い走りをしたのでしょうが、父は、自分の子だから、安心して任せることもできたのでしょう。また、親戚や近所の人々も、私が父の子であるから、私の言うことを信用してくれたのだと思います。たとえ小さい子どもであっても、私が父の子であるというのは、大きな意味を持っていて、その時の私は、父を代表しており、人々は、私のことばではなく、私の口を通して、私から父のことばを聞いて、その言葉どおりにしてくれたのです。
神は、さまざまな人をご自分のしもべとしてお用いになりましたが、イエスは、そのような人々のひとりではありません。子が父を表わすように、イエスは神の存在とご性質をそのまま反映しておられます。父と子がひとつであるように、神とイエスはひとつです。イエスの語られることは神が語っておられることであり、イエスのなさっておられることは、神がしておられることなのです。
ユダヤの指導者たちは、このイエスの言葉に、激しい怒りを覚え、イエスを迫害しました。それは、彼らが「神はただおひとりである。神以外の何ものも神としてはならない。」という教えに忠実であったから、イエスがご自分を神と等しくすることを許せなかったからだけではありません。彼らがイエスを斥けたのは、実は、彼らがほんとうには神も、神のことばをも敬っていなかったからです。彼らにとっては、神よりも自分たちの名誉が大切であり、神のことばよりも自分たちの作った規則が大切だったのです。イエスは「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」と言われました。彼らがイエスを斥けたのは、本当には神を敬い、神に従っていなかったからです。人が神になることは出来ませんが、神が人になることは不可能ではなく、それは旧約聖書にも預言されていました。彼らが、もし本当に神に聞いていたなら、神がイエスを通して語っておられることに耳を傾けることができたでしょう。
私たちは、二千年前のユダヤの指導者たちと同じ失敗を繰り返してはなりません。現代、イエスが神の子である、人となられた神であると言うと、「そんな馬鹿な」と一笑に付されてしまうか、「自分には関係のないこと」と聞き流されてしまいます。しかし、これは、聞き流してしまうにはあまりにも重大なことばです。私たちはご自分を「神の子である」と言われたイエスの主張に向き合わなくてはなりません。数々の証拠がイエスが神の子であることを証明しています。神の御子イエス・キリストを心に迎える時、私たちもまた、神の子どもとして受け入れられ、神を父とすることができるのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)のです。イエスがご自分を神の子として主張しておられるのは、決してご自分のためではなく、イエスが持っておられる父と子の関係の中に、私たちを招きいれるためなのです。このイエスの愛の招きに応えようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、あなたの御子イエス・キリストを、私たちの世界に遣わしてくださいました。それは、私たちをあなたの子とし、私たちがあなたを父と呼ぶことができるようにするためでした。そして、私たちが罪から救われて、神の子とされるという、このニュースを世界に広めてくださいました。「イエスは神の御子である。」このメッセージを素直に受け入れる人々を多く起こしてください。そして、その人々が、私たちと共に、父なる神との交わりを喜びあうものとしてください。あなたの御子イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/21/2002