あきらめからの救い

ヨハネ5:5-9

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5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

 ヨハネの福音書の7つの「しるし」を続けて学びます。第1のしるしはイエスが婚礼のとき「水をぶどう酒に変えたこと」(2:1-11)でした。それは、イエスが世界を創造された神であり、また、イエスを信じる者の花婿であることをも示すものでした。第2のしるしはイエスが、遠く離れたところにいる「役人の息子を癒やしたこと」(4:46-54)でした。それは、イエスが空間を超えて働かれる神であり、私たちに「みことば」による信仰を求めておられることを教えるものでした。では、きょうの第3の「しるし」は、イエスをどのようなお方と言い、私たちの信仰のあり方について、どんなことを教えているのでしょうか。

 一、安息日の主

 イエスは、ここで、歩くことができない人を歩けるようにしました。旧約にはメシア(救い主)が来られるとき、そうしたことが起こると預言されていました。イザヤ35:5-6に「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」とある通りです。病気の人を立たせ、歩かせることによって、イエスはご自分が、聖書があらかじめ語っていた救い主であることを示されたのです。

 そればかりでなく、イエスは、このことを「安息日」に行われました。それによって、ご自分が、神の民を患難から救い、安息をもたらすお方であることを示しておられます。

 けれども、パリサイ人は、安息日に病人を癒やすのは律法に違反していると言って、騒ぎたてました。パリサイ人は、癒やされた人がベッドを取り上げ、歩いたことを、安息日に禁じられた「労働」であると判定し、それを命じたイエスは律法に逆らう者だと言って非難したのです。

 パリサイ人たちは、聖書を読みながら、聖書を知りませんでした。安息日は、「あれをしてはいけない」、「これをしてはいけない」と、人々を縛るためにあるのではなく、人々を労働の負担から解放するためにあることを理解していませんでした。神が、七日に一度の安息日を定めてくださったのは、私たちが労働や、その他、心の重荷も含めて、あらゆる負担、束縛から解放されて、それらのものから自由になるためなのです。

 聖書には、七日に一度の安息日ばかりでなく、七年に一度の「安息年」も定められています。六年間、土地から収穫を得たら、七年目は、一年の間、土地を休ませるようにとの規定がレビ記25:1-7にあります。同じ土地で同じ作物を作り続けることを「連作」といいますが、トマト、ナス、キュウリ、インゲン、キャベツやブロッコリーなどは、連作すると、土壌の化学的な構成が変化し、作物が立ち枯れしたり、害虫に弱くなったりします。化学肥料がなく、農業技術の発展していなかった古代には、一年間土地を休ませることは、連作障害を防ぐために必要なことだったのです。

 この「安息年」を七回繰り返した年、つまり、49年目は「ヨベルの年」と定められていました(レビ記25:7-13)。「ヨベルの年」には、何らかの事情で自分の土地を人手に渡した場合でも、土地が自分に返されました。土地を手渡したため他の人のしもべとなっていても、そこから解放されて自分の所有地に戻ることができたのです。この「ヨベルの年」はイエスの救いの「雛型」です。救い主が来られ、罪と、その結果に縛られていた私たちを解放してくださることの預言です。イエスが安息日に病気の人を癒やされたのは、イエスこそ、罪からの解放をもたらす救い主であることを示すためでした。

 イエスは、ある安息日に18年も病気だった女性を癒やされました。すると、たちまち、イエスを非難する声があがりました。それに対して、イエスはこう言われました。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」(ルカ13:15-16)イエスが安息日に、18年間、病気に縛られていた人を解放されたからといって、誰もイエスを責めることができないのなら、まして38年間も病気だった人を癒やしたからといって、誰が非難できるでしょうか。ヨハネの福音書の第3の「しるし」は、イエスこそが、人をあらゆる束縛から解放し、本当の安息を与えてくださる救い主であることを教えています。

 二、解放への一歩

 アメリカでは、他の国には見られないないほど、麻薬が蔓延しています。それは、自分を駄目にし、家庭を壊し、さらには、社会や国家を危うくするもので、これはなんとしても食い止めなければならないものです。ドラッグの他にも、アルコールやギャンブルなどのアディクションがあります。

 私たちの多くは、そうしたことに無関係かもしれませんが、それと気づかなくても、過去の過ちや心の傷にいつまでも縛られていることがあるかもしれません。自分自身の問題や、家族の問題、また人間関係のこと、健康のこと、経済のことなど、誰もが様々な重荷を抱えています。何の重荷もない人など誰一人いないでしょう。ですから、イエスは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と言われたのです。若いころ、私はこの言葉にあまり感謝することはありませんでしたが、年齢を重ねるにつれ、このお言葉に感謝を感じるようになりました。イエスが癒やしと解放の力を持っておられることを、改めて理解することができました。

 そして、イエスに癒やされ、解放していただくためには、自分の側でも、ステップを踏んで、イエスのもとに行く必要があることを学びました。イエスは「わたしのもとに来なさい」と言っておられるからです。

 「12ステップ」は、アルコール依存症からの回復のために作られたものですが、これは、医師と牧師とが協力して作ったもので、聖書の教えにかなっており、私たちが問題の解決を求めてイエスのもとに行くための助けとなります。ステップ1から3はこうです。「1. 私は、自分の依存症にたいして無力であることと、自分の生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。2. 私は、自分よりもすぐれた力が私を正常に戻してくれることを認めました。3. 私は、私の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」

 「12ステップ」は、自分が問題を抱えていること、しかも、それを解決するには無力であることを認めることから始めるよう教えています。問題が解決しない原因の大部分は、心理学で「デナイアル」と言いますが、問題があることを認めないことにあります。人間はずるくて、問題の一部分だけを認めて、本当の問題を認めないことがあります。たとえ、自分には問題があっても、私の問題は、あの人のものよりまだましだ。自分の力でなんとかできると言う。それも「デナイアル」の一つです。きょうの箇所で、イエスに癒やされた人は、ステップ1をよく理解していました。38年間も病気と闘って、一向によくならないばかりか、いよいよ歩けなくなり、立てなくなりました。彼は、自分が病気に対してまったく無力であることを知っていました。

 では、この人はステップ2に進み、「自分よりもすぐれた力」が癒やしてくれると信じたのでしょうか。彼はイエスに、こう言いました。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」彼が寝かされていたベテスダの池には、ひとつの伝説があって、それは、「天使が下ってきて、水をかき回すとき、最初に水の中に入った人は癒やされる」というものでした。それで、ベテスダの池の周りは、いつしか病人たちで埋め尽くされました。

 確かに、水がかき回されるという現象は起こりました。しかし、それは「自分よりすぐれた力」でしょうか。ベテスダの池で水が一日に何度か定期的にかき回され、それによって人々が順番に癒やされていったわけではありません。人々は、いつ起こるかわからない不確かなことに期待をかけていました。それは、ギャンブルと同じくらい不確かなことで、そうしたことに期待をかけることと、神が癒やしてくださると信じて祈り求めることとは根本的に違います。「12ステップ」がいう「自分よりもすぐれた力」とは、水がかき回されるという不思議な現象ではなく、あらゆる物を造り、それを治め、人を愛し、癒やしてくださる神の力を指しています。この病人は、自分の無力を知っていましたが、神の全能をほんとうには知らなかったのです。その全能の神が人となって自分の目の前に立ち、「良くなりたいか」と声をかけておられるのに、それに正しく答えることをしなかったのです。

 三、あきらめからの解放

 イエスは、「良くなりたいか」と尋ねたのですから、この人は、「良くなりたいです」と答えればよかったのです。なのに彼は、「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます」と言いました。「たとえ、水がかき回されても、歩けない私は水に入ることができません。また、私を水に入れてくれる人もいないのです。だから私は癒やされることがないのです」といった口ぶりです。それは、「私は、もう、良くなる望みはありません。放っておいてください」という「あきらめ」の言葉に聞こえます。何が人を駄目にするかといって、「あきらめ」以上のものはないでしょう。一度、二度、三度と失敗したからといって、すぐにあきらめては、何もしない人がいます。一つのことが駄目だったから、きっと他のこともうまくいかないと、信じ切っている人がありますが、そんな「信念」、「信仰」ほど、危険なものはありません。「自分の力ではできない。しかし、神にはできる」と信じ、「自分の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心」を積み重ねていくなら、たとえ失望を重ねることがあっても、決して絶望に至りません。失敗を重ねてもあきらめに沈み込むことはないのです。

 しかし、人は、長年の「あきらめ」と「絶望」から簡単には立ち上がれません。それをさせてくださるのは、救い主イエス・キリストの他ありません。イエスは、この人に言われました。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」イエスは、彼を「あきらめ」から救い出すために、彼から「良くなりたい」と願う「意志」を引き出そうとされました。信仰は人格的なものですから、知識、感情、意志のすべてが必要です。もちろん、知識は広く、深いほうがいいのですが、知識だけでは信仰は成り立ちません。感情は大切ですが、それだけでも正しい信仰にはなりません。信仰をしっかり支えるものは、意志です。知識は判断と結びつき、感情は動機と結びつきますが、意志は行動と結びつきます。「信じます」、「信頼します」、「任せます」、「従います」という行動を起こさせるのが意志です。神が人に与えられた意志の力です。

 イエスの「起きて床を取り上げ、歩きなさい」との言葉が耳に届いた瞬間、この人は、反射的に、「起きよう、歩こう」という意志を働かせました。体を起こし、長い間力を入れたことのなかった足に力を入れました。すると、どうでしょう。立つことができたのです。ベッドを持ってみました。軽々と持ち上がりました。利き足を一歩進めてみました。歩くことができたのです。イエスの言葉に、意志を働かせて答えたとき、彼は、38年間の病気という束縛から解放されたのです。

 イエスは、今も、私たちに「良くなりたか」と、私たちの意志を問われます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と行動を求めておられます。もし、今まで捧げてきた祈り、続けてきた信仰の歩み、また、他の人との関わりなどについて失望が重なって、祈りをやめ、信仰の歩みから離れ、他の人に心を閉ざすようなことがあったなら、あきらめかけていたなら、もう一度、イエスの言葉に耳を傾けましょう。「自分の意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心」をもって、それに答え、新しい一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、ときとして、様々なことで「あきらめ」という寝床の中から抜け出せないでいることがあります。そんなとき、「起きて床を取り上げ、歩きなさい」とのイエスのお言葉をもって、私たちに語りかけてください。私たちがそれに答え、一歩を歩み出す者となれますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/4/2024