起きて歩け

ヨハネ5:1-9a

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
5:4 [本節欠如]
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

 イースターのシーズン、しばらく、ヨハネの福音書からの学びから離れていましたが、またヨハネの福音書に戻りましょう。ヨハネの福音書三章では、イエスとユダヤの国会議員との対話、四章ではサマリヤの女とヘロデ王の王室の役人との対話を見てきました。これらの対話では、イエスの応答に、どれも「あれっ」と思わせるものがありました。ユダヤの国会議員ニコデモがイエスに「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」と挨拶しますと、イエスは突然彼に「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と、なぞめいたことを言われました。また、イエスはサマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください。」と願っておきながら、彼女に「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」と、イエスは水を与える立場に立たれました。息子の病気を直してくださいと熱心に願った王室の役人に、イエスは「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」という厳しいことばをかけています。どれも、一見すれ違っているような対話ですが、イエスは、その深い愛からひとつひとつのことばを語られ、ひとりびとりを信仰に導いてこられたことは、今まで学んできたとおりです。

 今朝の聖書の個所で、イエスは、三十八年もの間病気だった人に声をかけておられますが、この時のイエスのことばも、すこし変わっています。イエスは病気の人に「よくなりたいか。」と聞きました。病気の人でよくなりたくない人はないはずです。病気の人に「よくなりたいか。」とわざわざ聞くのは、とり方によっては人を馬鹿にしているように聞こえます。もちろん、イエスはそんな気持ちでこう言ったのではなく、そこには、きっと深い意味があったのでしょう。なぜイエスは、この人に「よくなりたいか」と言われたのか、そのことから考えてみましょう。

 一、意志の力

 神は、人間を、他の動物とは違って、知性や、感情、そして意志を持ったものにお造りになりました。動物の場合は、ほとんどが本能に従って行動しますが、人間は、その知性によってものごとを判断し、また、その意志の願うところによって行動します。神は、人間を「神のかたち」に造って、人間に選択の自由をお与えになりました。神は造り主で、私たちは造られた者、神は主権者で私たちは神に服従すべき者です。ですから、神は無理やりにでも、私たちを服従させることがお出来になります。しかし、神は、決して、私たちを奴隷のようには扱われません。神は、いつも、私たちの自由を最大限尊重され、多くのことを私たちの判断にお任せになられます。また、神は私たちに、祈ること、願うことを励ましていてくださり、神は、私たちの願いや求めに従って働いてくださるのです。神が私たちに何かをなさろうとする時、神は、私たちの意志必要としておられるのです。

 私たちは誰も「何かをしたい」と願って行動し、「何かをしよう」と決心して実行します。私たちのすること、なすことの根本には「意志」があるのです。自分で意識していようがいまいが、私たちは意志の力を働かせて生きています。すべての行動は意志から始まるのです。それで、イエスは、この病気の人に、「よくなりたいか。」と尋ねたのです。この人のうちに「よくなりたい。」という願いがなければ、何も始まらないのです。同じ症状の病気を持った人でも「早くよくなりたい。早くよくなって仕事にもどりたい。」と強く願う人はどんどん良くなり、「この病気は直らないからしょうがない。」とあきらめてしまっていると、どんなに医者が手を尽くしても、少しも良くならないということを聞いたことがあります。神が私たちに与えてくださった意志の力というものは、私たちが思う以上に大きなものがあります。

 「よくなりたいのか。」とのことばに、この人は「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と答えました。このころ、ベテスダの池の水が動く時、真っ先に水の中に入った人は、その病気が直るという言い伝えがあって、大勢の病人がこの池のまわりにたむろしていました。しかし、からだの自由がきかない彼は、いつも他の人に先を越されてしまいました。医者や薬でなおらないなら、奇跡の力でなおしてもらおうとしたのですが、彼には、彼と一緒に水が動くのを待ち、水が動いた時に彼を抱きかかえて水の中に入れてくれる人がいなかったのです。彼は、人々の愛からも、奇跡からも見放されたように感じていたことでしょう。なんとも残念な気持ち、また、あきらめの気持ちといったものが響いてくるような返事ですね。

 三十八年という長い年月が、この病人から、「よくなりたい」という積極的な思いや祈り、また希望を取り去ってしまったとしても不思議ではありません。悪い環境でも、病気でも、長年、その中にいて、それと仲良くなってしまうと、それはそれで、結構居心地のよいものになってしまうのかもしれません。「神よ、変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる平安を、そして、変えられるものと、変えられないものとを区別する知恵を、私にお与えください。」というラインフォルド・ニーバーの祈りがあります。とても素晴らしい祈りですが、「変えることのできないものを受け入れる」というのは、決して、物事をあきらめて、何の努力もしないということではありません。変えられないもの、変えてはいけないものを受け入れるためには、まず変えることのできるもの、変えなければならないものを変えることにチャレンジしなくてはならないのです。たいていの場合、自分の意見や態度は変えようとしないで、他の人の意見や態度を変えようとするので、人間関係の問題が起こるのです。他の人を、あるがままで受け入れ、その人がその人であることを尊重できたら、人間関係はどんなに良くなることでしょうか。しかし、他の人を受け入れることができるためには、自分を変えていく必要があります。私たちは自分の課題に取り組むことによって、ほんとうの自分の姿を発見することが出来るようになり、かっては否定していた人生の真理を受け入れることができるようになります。自分を養い、成長させることによって、かっては受け入れることができなかった人をも受け入れることができるようになるのです。ニーバーが祈った「平安」は、このように変えることのできるものを変えた後に、変えることのできないものを受け入れることのできる平安であり、けっしてあきらめではありません。

 あきらめは人生の敵であり、信仰の敵です。祈っても、神がお与えにならないからと言って、あきらめてはなりません。何か困難があって、一度、二度祈っても、状況が変わらないからといって、すぐに「これは神のみこころで、それを黙って受け入れなければならない。」と考えてしまうのは、すこし早すぎるように思います。神は、病気や苦しみ、困難や課題の中から、「主よ、いやしてください。」「主よ、救ってください。」「主よ、助けてください。」「主よ、答えてください。」と、ねばり強く祈り続けることを喜んでくださるのです。旧約の歴代誌に出てくるヤベツは逆境の中に生まれましたが、それに甘んじることなく、苦しみの中から神に祈りました。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」聖書は「そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」と言っています。神のお与えになった病気や苦しみ、困難や課題に屈服してしまうのでなく、それに逆らい、それと戦うことが、神の求められる信仰だと、ヤベツの祈りは教えています。

 「みこころのままに」という祈りは、私たちが意志を放棄することではなく、私たちの意志と神の意志とがひとつとなるために苦闘することなのです。フォーサイスという人は『祈りの精神』という本の中で、「祈りは神との格闘である。それは神の愛される反抗である。」と言っています。最終的には、病気や苦しみ、困難を、自分に与えられたものとして受け入れなければならないことがあったとしても、あきらめずに祈り続けた後に、それらを受け入れる時はじめて、私たちは自分に与えられた病気や苦しみ、困難の意味を深く知り、それが人生の宝となるのを見るのです。フォーサイスは「神の平安は終わりに臨むのであって、はじめに臨むのではない。」と言っていますが、私たちは、それぞれの課題に取り組んだ後に与えられるほんとうの平安に生きたいものです。

 「私のこの問題は、三十八年も引きずっています。もう、どうにもなりません。」「クリスチャンになって三十八年、いまだに私の信仰はがちっとも成長しません。」などなど、誰にでも、長い年月にわたって未解決のままの問題や課題があるものです。未解決の問題を長年そのままにしておきますと、いつかしかそれに「慣れて」しまい、問題を問題として感じなくなってしまうこともあるのです。イエスが、ベテスダの病人に「よくなりたいか。」と語りかけられたのは、彼を失望から、あきらめから救い出し、彼に「よくなりたい。」という思いを与えるためでした。イエスは、同じように、私たちにも「よくなりたいか。」と語りかけておられます。とっくの昔にあきらめてしまっていたこと、投げ出してしまっていたこと、あるいは、心の奥深くにしまってあったものを、もう一度イエスの前に引き出してみましょう。イエスが「よくなりたいのか。」と言われる時、それには「わたしはおまえによくなって欲しいのだ。」というイエスの願いが込められているのです。イエスが私たちに「よくなりたいか。」と語られる時、「よくなりたいのです。」とお答えしようではありませんか。問題の解決は「よくなりたい。」という願い、私たちの意志から始まるのです。

 二、神の力

 イエスの「よくなりたいか。」という言葉は、ベテスダの池の病人の心に、かすかではあっても、「よくなりたい。」という思いを与えたようです。そこでイエスは、彼に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と命じました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」ということばも、まったく乱暴なことばですね。三十八年間、歩くことはもちろん、立ち上がることもできなかった人に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言うのですから。普通はそんなことは言いません。しかし、イエスは、こう命じると同時に、この人の病気を直し、この人に立ち上がる力をお与えになっていたのです。三十八年も寝たきりの人を歩かせるには、現代の医学では、手術をしたり、薬を飲ませたり、また、リハビリテーションやトレーニングを重ね、何年もかかることでしょうが、イエスは、そうした治療に匹敵するもの、いやそれ以上のものを、即座に与えたのです。

 イエスのことばには力があって、語られたとおりのことが実現するのです。イザヤ55:10-11に「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とある通りです。主が、私たちに何かをしなさいと命じられる時、主は、私たちにそれをする力をかならず与えてくださいます。主は、私たちのすべてをご存知のお方で、私たちに出来ないことをお命じることは決してありません。ペテロ第一4:10に「それぞれが賜物を受けている彼に、のですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」とありますが、聖書は「どの人にも賜物が与えられている。」という事実にもとづいて、「賜物を用いなさい。」という命令を与えています。自分では出来ないと思っていても、実は、神は必要な賜物をちゃんと与えていてくださるのです。そして、この神からの賜物は、何をしないでいては、発見することはできません。主がせよと言われることを実行していく時だけ、その賜物を発見することができます。私たちが主のおことばに忠実であればあるだけ、より大きな賜物を発見することができ、また与えられた賜物を成長させることができるのです。

 ある人は、意志の力さえあれば何でもできると言います。強く願えばそのことが実現すると言いますが、人間の意志の力は全能ではありません。ものごとを実現させるのは、人間の意志の力ではなく、神の意志、みこころであり、神の力です。私たちの意志が、神のみこころを選び、神の力に頼る時、ものごとが実現するのです。信仰は、意志を捨てることではなく、神のみこころを追求して、神のみこころに自分の意志をあわせていくことです。意志を働かせるとは、神のみこころを頭で理解する、感情で受け入れるということにとどまらず、神のみこころにからだで従っていくことです。自分には苦手に思えることでも、無理だと思うことでも、主が助けてくださると信じてやってみることです。それがほんとうの意味で意志を働かせること、信仰を働かせるということです。そして、そうする時、私たちは、今まで出来なかったことができたという喜びで満たされるのです。三十八年間病気だった人は「よくなりたいか。」ということばに心で応答しただけでなく、「起きて、歩け。」ということばにからだで応答しました。そして、彼は、イエスのいやしの力が自分のうちに働いていたことを見出しました。私たちも、あきらめや疑い、躓きやためらいを取り除いて、神のみこころに、はっきりした意志をもって従っていきましょう。そして、神の大きな力が働くのを体験させていただきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに与えられた意志の賜物を感謝します。あなたは人間をあなたのかたちにつくり、自由を与えてくださました。あなたは人間を、自ら進んであなたを愛する者にしてくださいました。しかし、人間はその自由を用いて、あなたなに逆らってしまいました。それでも、あなたはなおも、人間の意志を尊重し、私たちに「何を願うのか。何を求めるのか。」と尋ねてくださいます。あなたに背くために使った意志の力を、今度は、あなたに従うために用いさせてください。そして、私たちのうちにあなたの力が働くのを見させてください。主イエスの御名で祈ります。

4/14/2002