渇きはいやされる

ヨハネ4:6-14

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4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」—ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。—
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 一、からだの渇き

 今年の夏、アメリカ中西部で60年ぶりの干ばつが起こっています。トウモロコシの80%が枯れ、小麦や他の作物も不作になるだろうと言われています。被害額は120億ドルになると報道されています。干ばつというと、アフリカやインドのことだろうと、関心の薄かった私たちですが、これから大変なことになるだろうと皆が心配しています。

 水がなくては作物は育たない。あたりまえのことですが、他の国に輸出できるほど豊かな食糧に恵まれたアメリカに住む私たちは、そのことを忘れていたようです。言うまでもなく、水がなければどんな植物も育ちませんし、動物も水なしには生きていけません。水はいのちのみなもとです。人類最初の宇宙飛行士が「地球は青かった」と言ったのも、地球が水によっておおわれているからです。地球は私たちが知るかぎり宇宙でただひとつの水でおおわれた星です。神は、この水をもとに地球にいのちを生み出されました。創世記に「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」(創世記1:1-2)とあるとおり、この地球は水と霊から生まれました。水は地球にいのちを与え、神の霊は人にいのちを与えます。

 人間のからだは、赤ちゃんの場合は80%、大人は60%が水分でできています。ギュッと絞れば、太った人もたちまちスリムになりそうですが、そうはいきません。体内の水分が減ると、喉が渇き、発熱し、脱水症状になります。脳こうそくや心筋こうそくにかかりやすくなるとも言われています。それでも、水分を補給できないときは、腎臓の中にあるアクアポリンというたんばく質が働いて腎臓の中にある水分を血管に戻します。腎臓はからだの老廃物を水分とともにからだの外に出す働きをしていますが、水分が足らなくなると、アクアポリンが、からだの外に出すはずのものから、水だけを取り出し、それをからだに戻し、からだに水分を補給します。アクアポリンには水の分子だけを通す小さな穴があって、それで老廃物をろ過するのです。この仕組みを発見したのが、ジョン・ホプキンズ大学にいたピーター・アグレでした。彼は、このことで2003年にノーベル賞を受けています。人体には、こうしたいのちを守るしくみが至るところに置かれています。これが偶然の産物であるとするのは、どう考えてもありえないことです。科学上の発見がなされるたびに、神がどんなに人体を精巧に作られたかに、驚きを覚えます。

 ふつう、成人は一日2リットル以上の水を体外に出しています。2リットルというとペットボトル4本、グラス8杯にあたります。年をとると、先程話しましたアクアポリンの数が減ってきますので、適切に水分を補給する必要があります。しかし、一度にたくさんの水分をとりすぎると水中毒になるので、何回かにわけて飲むと良いそうです。多くの人は、十分な水分をとっておらず、私たちのからだは、私たちが思う以上に渇いていると言われます。

 二、たましいの渇き

 私たちのからだは渇き、水を求めますが、そのように私たちのたましいも渇き、その渇きをいやすものを求めています。

 今朝の箇所は、イエスが「サマリヤの女」と「いのちの水」についてお話をなさったことが書かれています。当時、ユダヤ人とサマリヤ人とは仲が悪く、互いに口を聞き合いませんでした。また、公けの場で男性と女性が語り合うということもありませんでした。ですから、「ユダヤ」の「男性」であるイエスが「サマリヤ」の「女性」と話しているというのは、普通のことではありませんでした。なのに、サマリヤの女がイエスと話し続けたのは、彼女の心に深い「渇き」があったからです。サマリヤの女は、からだの渇きをいやすために井戸に水を汲みにきたのですが、同時にそのたましいに深い渇きを持っていました。彼女が持っていた「渇き」はどんなものだったでしょうか。

 第一に、彼女には、「後悔」や「罪責感」がありました。彼女は5人の夫と結婚を繰り返しました。5人が5人とも亡くなったとは思われませんから、離婚し、再婚し、また離婚し、再々婚しということを繰り返してきたのでしょう。そして、6人目の男性とは結婚せず同棲していました。現代の日本やアメリカでは、そうしたことが少なくないかもしれませんが、古代のユダヤやサマリヤでは、めったにないことで、社会から非難をあび、人々から疎外されることでした。ふつう水汲みは、女性たちの仕事で、朝、涼しいうちに、女性たちが井戸端に集まり、いわゆる「井戸端会議」を楽しんだものです。ところがこのサマリヤの女は、わざわざ、日中、暑い時に水を汲みにきています。自分が、そうした「井戸端会議」の「話題」にされていることを感じていましたから、他の女性たちに会いたくなかったのでしょう。彼女には、自分の思い通りに生きられなかったという後悔の念があり、また、人として、女性としてあるべき姿からかけ離れていることに対する罪責感がありました。それが彼女の心の痛みとなり、罪責感からの解放を求めてのたましいの渇きがありました。

 第二に、他の女性はみな、楽しく人生を過ごしているのに、なぜ、自分だけがこんな惨めな目に遭わなければならないのかという「恨み」や「疑問」がありました。彼女が5人もの男性をとりかえたというのは、何も彼女がふしだらな女性だったからというのではないと思います。浮気をした男性から捨てられたり、暴力をふるわれたり、男性が酒に入り浸りになって働こうとしなかったりなどということだったかもしれません。彼女は、いわゆる「男性運」に恵まれなかったのでしょう。多くの人は、他の人々が幸せそうに見えると、人々を恨んだり社会を憎むようになりますが、「サマリヤの女」にそのような思いがなかったとは言えないでしょう。しかし、それよりも、もっと彼女を悩ませていたのは、「なぜ私が」”Why me?” という問いでした。他の人は幸せなのに、なぜ自分だけにこんな不幸がやってくるのかという疑問です。

 東北地方の津波で生き残った人々の心にあるのも同じ疑問でしょう。なぜ、他の町でなくこの町が津波に襲われたのか、全員が無事な家族があるのに、なぜ自分の家族が、なぜ、まだ若く、将来のある息子が津波に呑まれ、年老いた私が生き残ったのか。そんな疑問を抱えて苦しんでいる被災者の方々が多くいると思います。これは、簡単には解けない人生の疑問です。それはおそらく、私たちが人生を終え、神にまみえるまでは答えの出ないことでしょう。地上では、その答えは誰にも分かりませんし、分からないからこそ、答えを求めて心が痛み、渇くのです。

 第三に、彼女には、自分が何者か、神がどのようなお方かを知りたいという強い願いがありました。彼女が、5人もの男性に裏切られたり、捨てられたりしても、まだ6人目の男性と一緒に暮らしているというのは、誰かに愛され、誰かを愛することなしには、人は生きていけないということを示しています。人は愛されてこそ生きる力を持ち、誰かを愛するという目的を持ってはじめて、生きる意義を見出します。そして、自分が何者かということを知るのです。彼女は、自分に愛を注いでくれる者が誰か、自分が愛を注ぐべき者が誰かを知らないでおり、そのために自分自身をも見失っていたのです。

 人は自分が何者かを知りたいと願いますが、それは、人を造られた神を知ることなしにはかなわない願いです。サマリヤの女は、イエスに、「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」(19節)と言いました。彼女がそう言ったのは、イエスが自分の私生活に触れたので、話題を変えようとしたからだけでなく、自分のことを何もかも言い当てたイエスに出会って、自分のことを何でも知っておられる神に心が向いたからです。自分のことを何でも知っておられる神から、「あなたはこういう者なのだ」という答えを得たかったのだと思います。

 このような渇きは、サマリヤの女のような、特別な問題を持った人だけのものではありません。それは、ごく普通のどの人にもある渇きなのです。失敗のない人など誰もいませんから、感じ方の違いはあっても、誰もが、どこかで、「あんなことをしなければ良かった」「あのときにこうしておけば良かった」と悔やむ思いがあります。毎日が平穏であったとしても、私たちの心は絶えず、「なぜ、何のために自分は生きているのか」「なぜ、自分にこんなことが起ってくるのか」という問いかけをしています。どこかにその答えを求めているのです。そして、自分がいったい何者なのかを求めています。

 このような求めは、普段はあまり表面に現われてきません。人は元気なうちは、仕事や趣味、さまざまな活動によって、それを紛らわせることができるからです。喉が渇いたとき、水を飲まなくても、唇を濡らしたり、口の中に飴玉を入れてなめたりしても、喉の渇きが止まります。唇を洗濯ばさみで挟んでも良いそうです。けれども、それで渇きがなくなったのではなく、口に刺激を与えることで、渇きの感覚を麻痺させているだけなのです。何かに集中しているときや、仕事が忙しいときなども、渇きを忘れてしまうのですが、ほんとうは、からだは水分を求めているのです。からだの渇きと同じように、たましいの渇きもまた、ごまかしたり、麻痺させたりできます。私たちはからだの渇きよりもたましいの渇きをほうをもっと無視していると思います。しかし、重い病気になり、死を覚悟しなければならないようなとき、人生の危機に出会うときには、この渇きが表に出てきます。現代は人の価値を生産性で計りますから、病気をして何もできなくなったら、多くの人は自分が価値のない人間になってしまったと感じます。そして、自分が何の役にも立たないばかりか、病気をして家族や周りの人に迷惑をかけていると思うと、いっそうその辛さが増すのです。人々は罪責感に押しつぶされ、自分の境遇に対して「なぜ」という疑問を持ち、いったい自分は何者なのかと問うようになるのです。

 こうした求め、問い、また渇きは医学の世界では「スピリッチャル・ペイン」(霊的な痛み)と呼ばれます。ホスピスを始めたドクター・シシリー・ソンダースは、ホスピスの目的を「身体的、精神的、社会的、霊的な苦痛の緩和」としました。今までの医学は、病気を直すこと(cure)だけに力を注いできました。しかし、現実には医学では治せない病気もあります。だったら、病気の人に何もできないかというと、そうではなく、病気の人々を世話する(care)ことはできますし、しなければなりません。そのためにできたのが、ホスピスです。ホスピスでは「身体的、精神的、社会的」ばかりでなく、「霊的な苦痛」にも取り組みますが、一般のホスピタルではまだまだです。アメリカでは標準的な病院の認可を受けるには、スピリュアル・ケアができるチャプレンを置くことが義務付けられいますし、ヨーロッパでは教会の牧師や神父が病院に派遣されます。日本では、スピリチュアル・ケアは今まで無視されてきましたが、最近では、その必要が認められはじめています。フリーメソジストのイーストベイ教会でも牧師をなさったことのある窪寺俊之先生が、この分野での先駆者的な働きをしておられます。今まで、心理学的に解釈されてきた罪責感や人生の疑問、また、自己の発見ということが、霊的な問題として受けとめられるようになったことは良いことだと思います。私たちは、この渇きがイエス・キリストによっていやされることを知っているのですから、それをまぎらわせたり、ごまかしたりせず、自分のたましいの渇きと痛みに向かい合いたいと思います。渇きを覚え、痛みを覚えることがいやしへの第一歩だからです。

 三、渇きのいやし

 イエス・キリストは私たちのたましいの渇きをいやし、痛みに答えをくださいます。どのようにしてでしょうか。第一に、私たちとたましいの渇きを共有することによってです。イエスは、このサマリヤの女の渇きをご存知でした。イエスはサマリヤの女の人生のすべてを、神としてのお力によって見通しておられました。聖書にはサマリヤの女の名前は書かれていませんが、イエスはその名前もご存知でした。そして、それとともに、ご自身が渇きを体験されることによって、イエスは、人の渇きを知ってくださいました。イエスはヤコブの井戸に来たとき、疲れを覚え、そこに腰をおろしました。喉も渇いておられ、サマリヤの女に飲み水を求めたのです。病人をいやし、死んだ者さえ生き返らせるこのできたお方が、疲れ、渇きを覚えられたというのは、つい見落としがちですが、大切な事実です。それは、神の御子が人となられ、人としての制限や弱さのすべてを体験されたことを教えています。イエスは。ご自身が疲れを体験されたからこそ、身も心も疲れやすい人間に「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と言うことができ、私たちと同じように渇きを覚えられたからこそ、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言うことができたのです。イエスは人間のたましいの中にある渇き、霊的な痛みを、私たちと共有してくださるのです。

 第二に、イエスは、ご自分のすべてを与えることによって、私たちの渇きをいやされます。井戸水は地面を割らなければ得ることができません。そのように、イエスは十字架の上でご自分のからだを裂かれることによって、人のたましいをいやす「いのちの水」をわき出させてくださったのです。イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、兵士はその脇腹を槍でさしましたが、そのとき「血と水」とがほとばしり出たと聖書は書いています(ヨハネ19:34)。これについて、「完全な死によって血と水とが分離したことを指している」といった説明がありますが、ここで「血と水」とあるのにはもっと象徴的な意味があります。「血」は罪のゆるしを、そして「水」は新しいいのちを表わします。イエスの十字架上の犠牲によって私たちの罪がゆるされ、イエスの死によって、私たちはいのちを受けるのです。イエスはサマリヤの女に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と言われましたが、イエスが与える水とは、イエスご自身のことであり、イエスはご自分のいのちをあの十字架の上で捨てられることによって、私たちを生かす「いのちの水」となってくださったのです。

 十字架から湧きでた水を鹿が飲んでいる絵があります。鹿は、たましいの渇きをいやされるために神を求める人々を表しています。鹿が谷川の水を求め、それによって渇きをいやされるように、人もまた、イエスの十字架から流れ出るいのちによって、その渇きをいやされるのです。

 第三に、イエスは私たちに聖霊を与えることによって渇きをいやされます。イエスが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)と言われたとき、それは、イエスを信じる者が受ける聖霊のことを指していました。イエスは、信じる者に聖霊をお与えになり、聖霊が「その人の心の奥底から」流れ出るいのちの水のみなもとになってくださるのです。「心の奥底」という言葉に注目してください。聖霊は、私たちの「心の奥底」を住まいにされます。人は普段は、泣いたり、笑ったり、怒ったりなど、表面の感情の世界で生きています。しかし、大きな苦しみに遭い、心に重いものを抱えこんだとき、感情の世界が機能を停止して、泣けない、笑えない、怒れなくなってしまうことがあります。そしてそこでは感情をやわらげるだけの慰めや励ましは通用しなくなるのです。しかし、そんなときも、聖霊は、私たちの心の奥底のまだ、その奥底にいて、信じる者を支えます。私たちの深い渇きと苦しみをいやし続けてくださるのです。

 これが、イエスのいやしです。渇きはいやされます。主は私たちと共に、私たちのために渇いてくださいます。そして、渇きをいやすものを、私たちのたましいの奥底に与えてくださるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは皆、渇いています。たんなる心の渇きでなく、深いたましいの渇きを持っています。主は、その渇きをいやすためにこの世に来てくださり、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と招いておられるのですから、どうぞ、私たちをあなたのもとに導いてください。私たちに渇きを認める素直な心をお与えください。渇きをいやされたいと願う熱心をお与えください。渇きをいやしてくださる主に頼る真実な心をお与えください。心の奥底にあるいのちの水の源にまで降りていく勇気をお与えください。主イエスのお名前で祈ります。

8/5/2012