神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16は「小さな聖書」と呼ばれ、ここに、聖書の福音が圧縮されています。「福音」は英語で “Gospel” と言います。これは “Good spell” から出た言葉で、「良い知らせ」という意味です。英語でヨハネ3:16は “For God so loved the world, that he gave his only Son, that whoever believes in him should not perish but have eternal life.” ですが、これを工夫して並べると、“Gospel” という言葉が見えてきます。
ヨハネ3:16には、「良い知らせ」が要約されているのですが、それは、どんな「良い知らせ」なのでしょうか。スライドを使って説明しましょう。
一、キリストの救い
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16が「神は…世を愛された」と言っているように、それは、神が愛のお方であり、人を愛してくださっていること告げています。最近は「バッド・ニュース」ばかりですが、そうであるからこそ、聖書の「グッド・ニュース」を知らせたいと思います。この世には愛されていない人は誰もいない。一人ひとりは、神の大きな愛で愛されている。これ以上の「良い知らせ」はありません。しかし、多くの人が、この神の愛を感じ、そこから来る平安を体験できないでいます。それはなぜでしょうか?
それは、私たちが神にたいして罪を犯したからです。聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(ローマ3:23)と教えています。罪が神と私たちとを隔てているのです。罪の結果、私たちはどうなるのでしょうか?
罪は、私たちに死とさばきをもたらします。聖書に「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とあるとおりです。もし、神が罪を見逃せば、神のきよさと正しさが損なれ、世界は最悪の場所になります。あるいは、神が人間をコントロールして罪を犯させないようにしたら、人間は自由な存在でなくなり、人間が人間でなくなってしまいます。また、神がすべての罪人を滅ぼしてしまわれれば、神の正義は成り立つでしょうが、神の私たちへの愛は消えてしまいます。罪の問題を解決し、私たちを神のもとに連れ戻す道はあるのでしょうか?
あります。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死ぬことによって罪によって切り離された、私たちと神との「かけはし」になってくださいました。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)私たちはイエス・キリストを通って、神のもとに行くことができます。愛の神が、私たちを救うために、神の側から、ご自分のひとり子イエス・キリストという「かけはし」をかけ、神への道を開いてくださいました。では、この「かけはし」を渡り、この「道」を歩くにはどうしたらよいのでしょうか?
それは、難しいことではありません。ヨハネ3:16が「御子を “信じる” 者が、ひとりとして滅びることなく」と言っているように、イエス・キリストをあなたの救い主、また、主として、あなたの人生に受け入れることです。キリストの救いを受けるためには、いつか、どこかで、信仰の一歩を踏み出さなくてはなりません。その一歩がなければ、その後の信仰の歩みも、神の恵みや祝福を体験する生活もないのです。まだイエス・キリストを迎え入れていない人がありましたら、きょう、その一歩を踏み出してみませんか?
キリストは私たちを招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)あなたは、もう、この招きに答えましたか?
二、神の愛
ヨハネ3:16は、神がどれほど人を愛されたかを、「そのひとり子をお与えになったほどに」という言葉で表しています。神は、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせるという大きな犠牲を払ってまで、私たちを愛してくださいました。
この神の愛を描くため、2003年に、チェコのプラハで、「Bridge」という題の短編映画が作られました。もとの題は「橋」という意味の「Most」です。そこには父ひとり、子ひとりの親子が登場します。父親は、鉄道員で、湖に架かっている可動橋を操作していました。船が通るときに橋を上げ、列車が通るときには橋を降ろすのです。橋が上がっているときは、当然列車は信号待ちをしなければなりません。ところが、列車が信号を無視してスピードをあげて橋に向かってきました。この鉄道員の8歳になる男の子がそれを見て、父親に知らせに行くのですが、誤って機械の中に落ちてしまいました。そのまま橋を降ろせば、息子は機械に挟まれて死んでしまいます。しかし、橋を降ろさなかったら、列車に乗っている大勢の乗客が死んでしまいます。父親は、どうすれば良いのでしょうか。どうしたでしょうか。ここで、そのムービーの一部を見ましょう。
父親は、橋を降ろしました。息子を犠牲にして大勢の乗客を救いました。神もまた、橋を降ろしました。ひとり子イエス・キリストを犠牲にして、私たちを救う「かけはし」をかけてくださったのです。
三、私たちの祈り
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この言葉を暗記し、繰り返し唱えてみましょう。そうすることによって神の愛を深く味わいましょう。そして、この言葉を他の人にも知らせましょう。「神はあなたを愛しておられる」と告げましょう。
その人が、その神の愛を受け入れたいと願うなら、次の祈りをいっしょに祈るとよいでしょう。これは、私がはじめて教会に行ったその夜、イエス・キリストを自分の救い主と信じて祈った祈りです。それはこのような祈りです。「神さま、私は罪人です。私には、あなたの赦しと救いが必要です。私はイエス・キリストが私の罪のため死なれたこと、私を救うため復活され、今も生きておられることを信じます。私は、イエス・キリストを私の救い主、また、主として、私の心と人生に受け入れます。私の罪を赦し、神の子どもとし、永遠の命を与え、私の生涯を導いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」
「アーメン」とは、「真実、そのとおりです」という意味です。「信仰」と「真実」とは、聖書では同じ言葉が使われています。神の真実を、私たちの真心で受け入れること、それが、信仰です。皆さんがこの祈りを、真心を込めて祈ったのはいつのことでしたか? 皆さんのほとんどは、何年も前にこの祈りを祈り、その後バプテスマを受け、日々、神の愛を体験しながら歩んでいることでしょう。罪を赦され、死から命に移された喜びを持ち、「永遠の命」、つまり、復活されたキリストのうちにある命で生かされています。けれども、その恵み、祝福は、はじめてイエス・キリストを信じて祈った、あの祈りから始まったのです。私はこの祈りをはじめて祈った時のことを、50年以上もたった今も、鮮やかに覚えています。それ以来、イエス・キリストを信じたいと願う人と、何度この祈りを一緒に祈ってきたことでしょうか。そのたびに、はじめてこの祈りを祈った時の感動がよみがえってきます。この祈りはイエス・キリストを受け入れるときの祈りですが、すでに長年のクリスチャンである人も、もういちど、信仰のスタートラインに立って、この祈りを、祈り直してみませんか。きょうのメッセージをこの祈りで閉じることにします。ごいっしょに祈りましょう。
(祈り)
神さま、私は罪人です。私には、あなたの赦しと救いが必要です。私はイエス・キリストが私の罪のため死なれたこと、私を救うため復活され、今も生きておられることを信じます。私は、イエス・キリストを私の救い主、また、主として、私の心と人生に受け入れます。私の罪を赦し、神の子どもとし、永遠の命を与え、私の生涯を導いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
3/15/2020