3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
今週木曜日、3月16日は「ヨハネ3:16の日」です。ヨハネ3:16は「小さな聖書」と呼ばれ、この一節の中に聖書の主題が要約されています。2014年の3月16日はちょうど日曜日でしたので、礼拝で、ヨハネ3:16からお話しをしました。次に3月16日が日曜日になるのは2025年で、かなり先ですので、きょう、ヨハネ3:16からお話をしておきたいと思います。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉の中で「賜わる」という部分は、英語では“give”という言葉で訳されています。日本語では、口語訳以外の訳では「与える」と訳されています。ここで使われている「与える」という言葉は、ごく一般的な言葉ですが、神が、そのひとり子を「与えた」というからには、そこにはとても大切な意味が込められているに違いありません。きょうは、「与える」という言葉に込められた意味のうち三つのことをご一緒に学びたいと思います。
一、手放すこと
第一に、そこには“give up”(手放す)という意味が込められています。少し前の礼拝で、神がアブラハムにそのひとり子イサクを犠牲としてささげよと命じられたときのことを学びました。アブラハムにとってイサクは年老いてからやっと与えられた子どもで、アブラハムはその愛情のすべてをイサクに注いでいました。そればかりでなく、イサクは、神がアブラハムに与えられた約束を引き継ぐ子どもであって、イサクを失うことは、アブラハムにとって、神の約束を失うことでした。アブラハムにとってイサクは、自分の命以上に大切なものであり、簡単には「手放す」ことができないものでした。しかし、アブラハムは彼にとって一番大切なものを、“give up” し、神の手に委ねたのです。
イサクがアブラハムにとって「愛するひとり子」であったように、イエス・キリストは、父なる神にとっての「愛するひとり子」でした。御子は永遠の先から神と共におられ、神の愛を受け、神を愛しておられました。神と御子とは存在においても、愛においても「ひとつ」でした。御子は、神にとって、これ以上のものはないというお方、決して手放すことのできないお方です。そうであるのに、神はあえて、ひとり子イエス・キリストを、わたしたちのために与えてくださったのです。アブラハムは、イサクを実際には犠牲としてささげませんでしたが、神は、ご自分のひとり子を、わたしたちの罪のために、十字架という祭壇で、実際におささげになったのです。
わたしは、ある時、晩餐式の式文を調べていて、イエスがパンをお与えになったときのお言葉を“give up”と訳してあるものに出会いました。“This is my body which will be given up for you.”「これは、あなたがたのためにわたしがギヴ・アップする、わたしのからだである」と書かれていました。そのとき「ハッ」としました。主はご自分の命を “give up” してくださったのだ、そのことに改めて気付きました。
神が、わたしたちに与えてくださったものは、手放しても痛みを感じないようなものではありません。神は「ご自分の御子」という、最も聖なるもの、尊いもの、決して手放すことができないものを、わたしたちの救いのために手放し、与えてくださったのです。御子イエスもまた、ご自分の命というかけがえのないものを “give up” してくださったのです。ヨハネ3:16の「与える」という言葉は、神が、最も価値あるものを、大きな犠牲を払って、わたしたちにささげてくださったことを教えています。
二、無償で与えること
第二に、ヨハネ3:16の「与える」には、英語では “grant” や “bestow” という言葉で表わせる意味があります。大学での研究に与えられる補助金や学生への奨学金を名詞で “grant” と言いますが、これはその研究機関の成果に対する報酬としてでなく、その研究が有益なものになるだろうと期待して、無償で与えられるものです。奨学金も贈り物です。スチューデント・ローンのように返す必要がありません。ヨハネ3:16の「与える」という言葉には、無償で、対価を求めないで与えるという意味が込められています。口語訳が「賜わった」と言うように、神は、「救い」と「永遠の命」を、全くの無償でわたしたちにお与えくださっているのです。
わたしたちが使うものの中には、値段が安くても良いものもあれば、値段が高いのにたいしたことのないものもあります。けれども、たいていは、品物でもサービスでも、多くお金を払えば、その金額に応じたものを得ることができます。ですから、無料のものはたいしたものではないと思われます。しかし、神が、与えてくださるものは違います。神が、何の代価も求めないで、救いを与えてくださるのは、それがつまらないものだからではありません。イエス・キリストの救いが無償なのは、それがあまりに尊いものであって、どんな値段もつけられないからなのです。イエスが「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ16:26)と言われたように、人、ひとりのいのちは地球よりも重いのです。そうであるなら、神の御子の命に、また、わたしたちが受け取る「永遠のいのち」にどんな値段をつけられるというのでしょうか。
三、選択に委ねること
第三に、ヨハネ3:16の「与える」という言葉には英語でいう “entrust” という意味があります。“entrust” というのは「任せる」「委託する」ということです。神は、ご自身が犠牲を払い、無償でお与えになった、この贈り物を受け取ってくれることを期待し、それを人々にお委ねになりました。神はイエス・キリストの救いという贈り物を受け取るか、受け取らないかを人間の決断にお任せになったのです。わたしたちは、信仰の決断をもって、この尊い贈り物を受け取る者でありたいと思います。
そのことについて、一つのストーリがあります。ずっと以前、アメリカの宣教師ディヴィッド・モースという人がインドで宣教していたときのことです。宣教師は、ランバウという、素潜りで真珠を採っていた老人と友達になりました。宣教師は、二年の間、ランバウに聖書を読み聞かせ、神の救いについて語り続けました。
ランバウは聖書の話に喜んで耳を傾けましたが、「イエス・キリストを自分の救い主として受け入れませんか」と宣教師が勧めても、きまって頭を横にふって、こう答えました。「クリスチャンが言う、天国に入る方法はあまりにも簡単すぎます。そんなのは信じられません。そんな方法で天国に入らなければならないのなら、わたしは、憐れみを乞うてそこに入れてもらった惨めな人間として、そこで過ごさなければならないでしょう。わたしは、天国にふさわしい者になり、自分の力でそこに入ったという誇りが欲しいのです。そのために、努力をしたいのです。」それに対して宣教師は何も言うことができず、ランバウも気持ちを変えることはありませんでした。
ところが、ある夜のことです。宣教師はランバウに招かれて彼の家に行きました。ランバウは、デリまで九百マイルの道を、膝で歩いて巡礼の旅をすると言い出しました。宣教師は引き止めましたが、ランバウは、「いいえ、わたしは天国に入るために何かをしなければならないのです。わたしは自分の努力で天国を自分のものにしたいのです。」と言いました。宣教師は、彼を引き止めようとして、「ランバウ、そんなことはできませんよ。きみがそんなことをするのを、とても黙って見ていれない。イエス・キリストはすでに苦しみ、死なれ、あなたのために天国を手にしてくださっているというのに」と言いました。けれども、ランバウは、宣教師の言うことを聞きませんでした。
それから、ランバウは、小さいけれど重そうな手提げ金庫を宣教師に見せました。「ここには、たった一つのものしか入っていません。これから、そのことをお話しします。わたしには息子がいました。わたしの息子も真珠採りでした。インドの海岸では一番の真珠採りでした。たいていの真珠には専門家が見れば傷やしみがあるものです。けれども、わたしの息子は、誰もまだ見つけたことのない“完全な”真珠を採ることを夢見ていました。ある日、彼はそれを発見したのです。けれども、それを見つけたときは、あまりにも長く潜りすぎていました。息子は真珠を手にしてすぐに死にました。」ランバウは、こう言って、しばらくの間、無言で身体を震わせました。
それからこう言いました。「長い間、わたしはこの真珠を大切にしてきました。しかし、巡礼に行けば、もう帰ってこれないでしょう。ですから、モース先生、わたしの友人であるあなたに、この真珠を差し上げたいのです。」老人は金庫を開け、中から包を取り出しました。その包を開いて、大きな真珠を取り出し、それを宣教師の手の上におきました。それはインドの海岸で見つかったどの真珠よりも大きなものでした。養殖真珠には決してみられない光沢と艶がありました。どの市場に持っていっても、途方もない金額で買われることでしょう。
その時、宣教師にひとつのアイデアが浮かびました。これは、ランバウにキリストの犠牲の価値を分かってもらう機会かもしれないと気づいたのです。それで、宣教師は、威厳を装って言いました。「ランバウ、これは素晴らしい真珠だ。わたしはこれを買いましょう。あなたに一万ドル払うが、どうだろうか。」ランバウは身体をこわばらせて言いました。「モース先生、この真珠には値段なんかつけられません。どんなにお金を積まれても、たとえ百万ドルでも売りません。これはわたしにとって値段をつけることなどできないほど、大切なものなのです。ですから、わたしからの贈り物として受け取ってください。」
「いや、ランバウ、これをもらうわけにはいかない。わたしは真珠をそんなふうにして手に入れたくはない。そんな簡単な方法で手にするのは、わたしのプライドが許さない。どうしても支払いをしたいのです。何もしないで受け取るわけにはいかないのです。」ランバウはあきれて言いました。「モース先生、あなたは何もお分かりではありません。この真珠は、わたしの息子が命と引き換えに取ってきたものなのです。それをどうしてお金のために売ることができるでしょうか。この真珠はわたしの息子の命そのものなのです。ですから売ることはできません。けれども、差し上げることはできます。どうぞ、わたしのあなたへの友情のしるしとして受け取ってください。」
宣教師は、その時、ランバウの手を握りしめて言いました。「ランバウ、分かって欲しい。わたしがさっき言った言葉は、あなたが、いつも、神に対して言ってきた言葉なのです。神はあなたに、救いを無償の贈り物として提供しておられるのです。それは、あまりにも素晴らしいものなので、地上の誰一人としてそれを買うことはできません。それを受け取ることができるほど正しい人はこの世にいないのです。神は、あなたが天国に入ることができるために、そのひとり子の命を代価としてくださったのです。たとえあなたが巡礼を何百回繰り返しても、それによっては天国に入れません。あなたにできることは、神の罪人への愛のしるしとして、救いを受け取ることだけなのです。」
そのとき、ランバウの目から大きな涙が流れ落ちました。彼の心の目が開かれのです。「やっと分かりました。わたしはイエスさまの教えを二年の間教えられてきました。しかし、わたしは、イエスさまの救いが無償のものだということが信じられなかったのです。でも、今、分かりました。イエスさまの救いは、お金でも買うことができない、働いても手に入らない、それほどに尊いものなのですね。モース先生、わたしはイエスさまの救いを受け入れます。」
神は、御子を、わたしたちの身代わりとして、「与えて」くださいました。イエス・キリストの救いを無償で「与えて」くださいました。この贈り物をわたしたちの信仰の決断に委ねるしかたで「与えて」くださいました。ヨハネ3:16を目にし、口にし、心に思うごとに、神の贈り物を素直に受け取る者となりましょう。そして、この3月16日には、ヨハネ3:16を誰かに語りましょう。手紙でも、Eメールでもいいでしょう。神がわたしたちに任せてくださった福音を信じ、それに生き、それを伝えていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたはかけがえのない御子をわたしたちに送り、その救いを無償のものとしてわたしたちにお与えくださいました。あなたがお与えくださったものをわたしたちが信仰によってしっかりと受け取ることができますよう、助けてください。そして、わたしたちが受けた、この救いを、多くの人と分かち合うことができるよう、励ましてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/12/2017