神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
クリスマスを前にある姉妹が「クリスマスになると、とても悲しい気持ちになったことがありました」と、あかししてくれました。そして、こう言いました。「イエスさまはやがて十字架の上で死なれて行く。イエスさまは苦しみ、死ぬためにお生まれになった。私は、そのころ、出産し、子育てをしていたときなので、そんな予感を持ちながらわが子を抱いていた母マリヤの心はどんなだったろうと思いました。でも、今年、あるクリスマス・ページェントを観て、イエスさまによって世界が、私が変わったことに改めて気付きました。ですから、やはり、クリスマスは喜びの日なんですね。」
この姉妹が気付いたようにクリスマスの喜びのその中には聖なる悲しみが含まれています。シメオンは母マリヤに言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(ルカ2:24-25)これは、母マリヤの七つの悲しみの第一のものです。教団の牧師リトリートが行われる「マータ・ドロロサ(悲しみの母)・リトリート・センター」には「マリヤの悲しみの園」というきれいな祈りの園があります。そこには、この「シメオンの預言を聞いたこと」からはじまって、「エジプトに逃れたこと」、「12歳のイエスを見失ったこと」、「十字架を背負われたイエスに出会ったこと」、「イエスの十字架の死を見たこと」、「イエスの遺体を引き取ったこと」、「イエスを葬ったこと」の七つの出来事がタイルの壁画に描かれています。母マリヤもまたイエスと苦しみをともにしたのです。
しかし、この苦しみはイエスの復活とともに喜びに変わりました。弱さは、ペンテコステとともに強さに変わりました。聖書は、喜びの中に悲しみがあり、悲しみの中に喜びがあるという、一見して矛盾したことを語っています。そして、そこに、深い意味があると教えています。
今朝の聖書はヨハネ3:16。クリスチャンなら誰もが知っており、何度も説教でとりあげられる聖句です。私も何度もここから説教してきました。サンタクララでは最初に2001年12月9日に、次に2008年に説教しています。2008年は3月16日がちょうど日曜日でしたので、それにちなんでヨハネ3:16をとりあげたわけです。2009年3月には8日と15日に二回連続して、また、同じ年の12月20日にも、ヨハネ3:16からお話ししています。ヨハネ3:16はマルチン・ルターが「小さな聖書」と呼んだように、たった一節の短いことばの中に、全聖書のエッセンスが入っています。ですから、この箇所から何度説教しても、決して説教しつくすことはできないと思います。
さきほど、「聖書には、一見して矛盾と思えることがあるけれども、そのことがかえって真理を明らかにしている」と言いましたが、それは、ヨハネ3:16についてもあてはまります。ヨハネ3:16にも、矛盾と見えることがあります。しかし、そのことがかえって、神の愛を明らかにしています。それはどういうことでしょうか。神があえて矛盾を犯してまで愛してくださった、その愛とはどんな愛なのでしょうか。その神の愛をご一緒に思い見、その愛のゆえに神に感謝し、神をほめたたえましょう。
一、神と世
ヨハネ3:16にある最初の矛盾は「神が世を愛された」ということです。聖書がいう「世」とは、神に背を向け、神を遠ざけ、また、神からも遠ざかっている人間の社会のことを指します。ヨハネの福音書を書いた使徒ヨハネはその手紙の中で「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(ヨハネ第一2:15-17)と書いています。つまり、「世を愛してはいけない」と命じているのです。信仰者はこの世から救い出され、神の国の国民となったのですから、地上のものではなく、天のものを目指して生きるように召されています。ですから、世のものではなく、神のものを愛するように教えられているのです。聖書の他の箇所には、この神の召しを忘れて、世のものにしがみついている人たちに対して、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4)という厳しいことばもあります。
ところが、私たちに「世を愛してはいけない」と言われた神が、「世を愛された」と言うのです。これは大きな矛盾です。しかし、この矛盾の中に神の大きな愛が現われています。神が、この矛盾を犯してまで、世を愛してくださらなかったら、この世界は救われなかったのです。この世の中にどっぷりとつかり、この世の流れの中に流されていた私たちは、決してそこから立ち上がって、神の国を目指すことはできなかったのです。「神は世を愛された。」神を愛すること、敬うこと、神に信頼することばかりか、神がおられることすら認めようとしなかった者が、神を愛する者に変えられていくためには、まず初めに神が愛してくださらなければならなかったのです。「神は世を愛された。」聖なる神が、汚れた世にある者を愛して手を差し伸べてくださった日、それがクリスマスです。私たちの救いと、その後の生き方のすべては、この神の愛から始まっているのです。
二、神と御子
ヨハネ3:16の第二の矛盾は、神がそのひとり子をこの世にお与えになったということです。御父と御子とは、永遠の先から愛の関係を保っておられました。御父は御子を限りなく愛しておられました。御子イエスは、御父が御子を愛された愛について、たびたび触れておられます。たとえば、次のような箇所です。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(ヨハネ3:35)「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ5:20)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)
神は、ご自分が愛する者、また神を愛する者を守ってくださると約束しておられます。ですから、御子を限りなく愛しておられる御父は、御子を世に遣わした後も、御子をお守りになるのは当然のことです。ところが、父なる神は御子をお捨てになったのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」というところで使われている「与える」という言葉は、聖書で一般に使われる言葉ですが、この言葉には「与える」という意味の他に、「贈る」、「譲る」、「捧げる」などという意味もあります。「神は、…そのひとり子をお与えになった」という場合の「与える」には「くれてやる」、「放棄する」、「諦める」、「見捨てる」という意味が含まれています。英語で言えば、単に "give" ではなく、"give up" です。イエスは聖餐を定められたとき、弟子たちにパンを与えて、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」(ルカ2:19)と言われました。ある訳ではここは "This is my Body, which will be given up for you." となっていました。"give up" 自分のものを何一つ主張せず、すべてを与えるということです。神は、最愛の御子を、世を愛するあまり、"give up" された。御子もまた、御父の世に対する愛とご計画を知り、ご自分を "give up" されたのです。
クリスマスの最大の贈り物、それは神の御子です。神は、御子を神に逆らうこの「世」にお与えになりました。この世が神から贈られたものを大切に受け取ることがないことを知っておられても、ご自分の御子をお与えになりました。それ以外に、この世が救われる道が無いからです。愛する御子を、この世のために、死なせるためにこの世にお送りになった神は、なんと大きな決断をなさったことでしょうか。
この神の愛の決断をあらわすために、2003年に、チェコのプラハで、ある短編映画が作られました。そこには父ひとり、子ひとりの親子が登場します。父親は、鉄道員で、湖にかかる可動橋を操作していました。船が通るときに橋をあげ、列車が通るときには橋を降ろすのです。橋が上がっているときは、当然列車は信号待ちをしていなければなりません。ところが、列車が信号を無視してスピードをあげて橋に向かってきました。この鉄道員の8歳になる男の子がそれを見て、父親に知らせに行くのですが、誤って橋の中に落ちてしまいます。そのまま橋を降ろせば、息子は機械に挟まれて死んでしまいす。しかし、橋を降ろさなかったら、列車に乗っている大勢の乗客が死んでしまいます。父親は、どうすれば良いのでしょうか。どうしたのでしょうか。私が説明するよりも実際の映画を見ていただいたほうが良いでしょう。実際の映画は30分ですが、それを短くしたものを見ましょう。
父親は、橋を降ろしました。息子を犠牲にして大勢の乗客を救いました。神もまた、橋を降ろされました。ひとり子イエス・キリストを犠牲にしてこの世を救ってくださったのです。イエス・キリストは私たちが神に立ち返るための、神と世との文字通り、架け橋、ブリッジになってくださいました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
私たちひとりひとりは、父がひとり子を愛する愛という最高の愛で、神から愛されています。人にとってこれ以上に望むものがあるでしょうか。クリスマスのこの日、この神の大きく、深い愛を知り、神の愛の贈り物を恭しく受け取りたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたの大きく、深く、貴く、そして、いつ、どんなときにも変わらない愛を感謝します。あなたは、この愛を私たちに与えるために、どんなに悲しみ、嘆き、苦しみ、大きな決断をなさったことでしょうか。私たちもあなたの愛にかなわない自分を悲しみ、嘆き、そのことに苦しみます。しかし、信仰の決断によって、あなたの恵みと憐れみを受けて、あなたの愛のうちに憩います。この日、私たちを聖なる悲しみと、聖なる喜びへと誘ってください。そのようにして、今日の尊い日を、過ごす者としてください。御子イエスのお名前で祈ります。
12/25/2011