神はそのひとり子を

ヨハネ3:16-21

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3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 一、クリスマスとキリスト

 日本では、お正月になると、松飾をつけた車を見かけますが、アメリカでは、クリスマスが近づくと、小さなアドベントリースを先頭につけた車を見るようになります。クリスマスらしくていいなぁと思いましたので、私も、車につけるクリスマスの飾りを探してみました。そして見つけたのが、この丸い形をした、バンパースティッカーです。マグネットで車のボディにつけられるようになっています。サンタクロースが飼い葉おけのイエスを礼拝している絵が真ん中にあって、まわりには "Keep Christ in Christmas" と書かれています。「クリスマス」というのは「キリストのミサ」という意味で、クリスマスの主人公はキリストであるはずです。ところが、いつの間にか、キリストが忘れ去られ、かわりにサンタクロースがクリスマスの主人公になってしまいました。それで、このバンパースティッカーでは、サンタクロースがひざまずいている姿を描き、キリストこそ主であることを、私たちに思い起こさせようとしているのです。

 キリストがクリスマスの主人公であることは、わざわざ言わなくても良い、当たり前のことなのですが、案外、分かっているようで分かっていないことでにあるので、こうしたスティッカーや "Jesus is the reason for the season."(「クリスマス・シーズンがあるのはイエスのゆえ」) などという合言葉が、クリスマスに必要になってくるのだと思います。

 しかし、クリスマスの主人公がキリストである、このシーズンのリーズンがイエスであることを分かってもらったとしても、それだけではまだ、クリスマスの本当の意味を伝えることができません。クリスマスの理由であり、その主人公であるイエス・キリストがどういうお方なのかが分からなければ、クリスマスの祈りも、賛美も、感謝も、礼拝も生まれてこないのです。

 私は、1973年に神学校を卒業し、牧師になりました。それから、もう36年になります。神学校にいたとき、カリフォルニアで二世の方々への伝道のために開発なさった個人伝道の講習を、豊留真澄先生ご自身から、一週間受けることができたのは、ほんとうに感謝なことでした。日本では総動員伝道のプログラムにも参加し、「よい証し人」というテキストで教会をあげて学び、みんなが「大いなる救い」という小冊子を使って個人伝道ができるようにと励みました。どれもとても役に立ったのですが、同時に、それだけでは足らないということにも気が付きました。個人伝道では「神・罪・救い」が語られます。「神は人間を愛しておられる。しかし、人間には罪があって、永遠の命を失っている。キリストは人間を罪から救うために十字架で死んでくださった。イエス・キリストを受け入れるなら救われる。」というのが、個人伝道で語られる中心のメッセージです。それはその通りであって、私たちはこのメッセージに応答して、信仰の決心をします。ビリー・グラハムの伝道集会などで、多くの人が「いさおなきわれを」の賛美に合わせて、ステージに進み出ていく姿は、いつ見ても感動的です。けれども、伝道集会で決心した人たちがその後、教会を去っていくのを見て、なぜなのかを考え、調べてみたのです。そして分かったことは、多くの人は、「イエス・キリストを受け入れなさい」という勧めに従って、その決心をするのですが、自分が受け入れたイエス・キリストがどのようなお方かを知らないままでいるということでした。「信仰」や「決断」が教えられても、信仰の対象であるイエス・キリストがどんなお方かが教えられないために、「いくらイエスが偉大な人物であっても、二千年前の人物を信じても人生が変わるものではない」と考えて、信仰に至らない人々が大勢いることに気付きました。また、イエス・キリストが分からないために、信仰の対象がイエス・キリストご自身ではなく、「キリスト教」という宗教になってしまったり、人の集まり、グループとしての「教会」になってしまったり、あるいは自分の「決断」そのものになっているということも発見しました。

 それで私は、個人伝道も、伝道集会も続けましたが、同時にみんながイエス・キリストがどのようなお方かを知ることができるように、キリストを知る知識に成長できるようにと努力しました。すると、「こうしましょう、ああしましょう」といったことを教えなくても、みんながクリスチャンとしての生活を正すことができるようになってきました。たとえばイエス・キリストがすべてのものがひざをかがめて「あなたこそ主です」とたたえられるべきお方であることを学んでいくと、「礼拝を休まないように」と言わなくても、みんなが礼拝を第一にするようになってきました。イエス・キリストが教会のかしらであることを学ぶと、クリスチャンのまじわりがおのずとキリストを中心にしたものに変えられていきました。また、イエス・キリストの恵みの豊かさを学んでいくと、献金について特に勧めなくても、みんなが喜んでささげるようになりました。キリストを知る知識が増し加われば増し加わるほど、ひとりびとりも、教会も成長していきました。それは、まったく神の恵みによるもので、聖霊の働きでした。聖書に「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(コリント第一1:23)とあるように、伝道とはキリストを伝えることであり、「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(ペテロ第二3:18)とあるように、信仰とはキリストを知ることであるということを、私はそれ以来、確信するようになりました。

 クリスマスを前に、クリスマスの主人公であるキリストが、いったいどのようなお方なのかを、今少し、考えてみませんか。そのことによって、私たちは、クリスマスの意味をもっと深く理解することができるようになるのです。

 二、ひとり子としてのキリスト

 私たちがクリスマスに礼拝するお方は、さまざまなお名前で呼ばれています。天使はヨセフにマリヤから生まれる子を「イエス」と名づけるよう命じました(マタイ1:21)。イエスがお生まれになったとき、天使たちは「救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と告げました。イエスは「救い主」、「主」、また「キリスト」と呼ばれています。ヨハネの福音書ではキリストは「ことば」と呼ばれ、「神」と呼ばれています(ヨハネ1:1)。バプテスマのヨハネはイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と呼びました(ヨハネ1:29)。イエス・キリストがどのようなお方であるかは、イエスがどう呼ばれているかを学ぶことによって知ることができるのですが、今朝はヨハネの福音書がイエスを「ひとり子」と呼んでいることに目を留めてみましょう。

 「ひとり子」という言葉には二通りの意味があります。ひとつは「たったひとりの」いう意味です。この言葉は、ギリシャ語訳旧約聖書の創世記22:2で「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」というところで使われています。アブラハムには他にイシマエルという子どもがありましたが、アブラハムとサラとの間に生まれたのは、イサクただひとりでした。

 このこどばのもう一つの意味は「独自な」あるいは「比類のない」という意味です。聖書では天使たちが「神の子」と呼ばれていますし、神を信じる人たちも「神の子」と呼ばれます。ヨハネ1:12に「しかし、この方を受けれた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とある通りです。けれども、人間が「神の子」と呼ばれるのは、神のかたちに造られ、神の愛の対象とされたからであって、人間が神と同じであるという意味ではありません。神は創造者であり、人間は被造物です。神は無限のお方でなんの制限もないお方ですが、人間は有限です。神は聖なるお方ですが、人間には罪があります。人間はどんなにきよめられても、神になることはありません。しかし、イエス・キリストは、他に「神の子」と呼ばれるもの、天使や人間と区別されて「ひとり子」と呼ばれています。「イエスは、神に造られ、神を信じる人々の中で最もすぐれてはいるが、そのひとりにすぎない。」と言う人々が多くいますが、そうではありません。「ひとり子」という呼び名は、イエスは天使のひとりでも、人間のひとりでもない、ただひとりの神の子、ひとり子の神であると教えているのです。

 「ひとり子」という言葉は英語では "only begotten Son" と訳されます。"begotten" というのは、"beget" から来た言葉です。母親が子どもを産む場合は "bear" や "give birth to" と言いますが、父が子をもうけるというときには "beget" を使うのです。"begotten" という言葉はイエス・キリストが父なる神から生まれたお方であることを教えています。神は数多くの神の子どもたちを造られましたが、神がお生みになった御子はただひとり、イエス・キリストです。イエスは、神から生まれたひとり子の神であり、神と全く等しいお方です。イエスは、私たちとは本質的に違う、ただひとりの、独自な、比類のないお方です。これが「ひとり子」(only begotten Son)という呼び名の意味です。

 聖書はそのように教え、教会はイエス・キリストを神の「ひとり子」として信じ、礼拝してきました。今朝の交読文「栄光の賛歌」は初代教会の讃美歌のひとつです。四世紀の讃美歌集にすでに収められていますので、それ以前からのもので礼拝で歌われていました。この賛美は三つの部分に分かれており、最初の部分は父なる神への賛美、次がキリストへの賛美、そして、最後に聖霊と共に、三位一体の神の栄光をほめたたえて終わっています。真ん中のキリストへの賛美では、イエス・キリストを「主」、「ひとり子」、「神」、「神の子羊」と呼んでいます。そして、イエス・キリストだけが、聖であり、主であり、いと高きお方であると告白しています。

 三、ひとり子の誕生

 イエスが神の「ひとり子」なら、イエスはいつ父からお生まれになったのでしょうか。それは二千年前のクリスマスだったのでしょうか。いいえ、マリヤの子として生まれたのは二千年前のクリスマスですが、神の御子はそれ以前からおられたお方です。ヨハネの福音書は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)と言っていますが、この「初め」は、創世記1:1で「初めに、神が天と地を創造した。」とある「初め」よりももっと以前のことです。それは「永遠のはじめ」です。時間の中に生きている私たちには「永遠のはじめ」と言われても、とてもそれを理解することはできませんが、しかし、信仰によって、「ひとり子」なる神は永遠のはじめに父なる神から生まれ、「父のふところ」におられたお方であることを知るのです。昔の人は、大切なものを自分のふところの中にしまい込みましたから、「父のふところ」ということばは、父なる神がどんなに御子を愛しておられたかを言い表わしています。神は人間を愛の対象としてお造りになりましたが、人間を造るまでは神は愛することをしなかったとかいうと、そうではなく、神は、人間をお造りになる前から、御子を愛しておられたのです。聖書に「神は愛です。」とありますが、まさに、神は永遠のはじめから愛することをしておられたお方、愛の神です。

 クリスマスはこの神の御子が人となって地上に来られた日です。父なる神が、ご自分のふところの中に抱いておられたかけがえのない御子を地上に遣わされた日なのです。神の御子は父なる神から生まれるだけで十分なお方であるのに、マリヤを母親として人間として、もう一度「生まれ」てくださったのです。神が人間になられたのです。どうして、そんなことが起こったのでしょう。その秘密は、ヨハネ3:16に明らかにされています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」からです。神の愛がそうさせたのです。神は罪を犯し、神に背を向けて滅びに突っ走っている人間さえもなおを愛して、救おうとされました。そのために神は、ご自分のひとり子をお遣わしになったのです。神の御子には「救う者」という意味の「イエス」という名がつけられました。「油注ぎを受けた者」という意味の「キリスト」という称号があたえられました。聖書でいちばんはじめに油注がれたのは祭司アロンです。ですから、「キリスト」という言葉には「祭司」という意味があります。キリストは神と人との仲立ちになりました。人間の祭司は犠牲の子羊を捧げて神と人との仲立ちをするのですが、天の祭司は、ご自分を犠牲の子羊にし、十字架の上で血を流して死んでゆかれました。ヨハネ3:16で「ひとり子をお与えになった」というのは、「ひとり子」を罪ある人間の身代わりとされた、人間を救うためのいけにえとされたということを言っているのです。

 ある人が、このような神の愛を分かってもらおうと一つの短い映画を作りました。ある海峡に列車の通る橋がかかっているのですが、そこは大きな船が通るため、普段その橋は上にあがっていて、列車が通るときはそれを下げるのです。ある日、列車がやってくるので、係りの人がその橋を下げようとしました。ところが、どうしたことか、その橋に、まだよちよち歩きしかできない自分のこどもがいたのです。父親が橋を降ろせばこどもは列車に轢かれてしまいます。しかし、橋をあげたままにしておけば、橋をめがけて走ってくる列車は海に突っ込み、何百人という乗客の命が奪われてしまいます。この父親は橋を上げたまま子どもを救うべきなのでしょうか。それとも、自分のこどもを犠牲にして列車とその乗客を救うべきなのでしょうか。映画は、「あなたならどうしますか?」という質問に続いて、「神はどうされたでしょうか?」という質問で終わっています。神はどうされたでしょうか。神は、橋を降ろしたのです。ご自分の御子を犠牲にしてまでも、滅びに突っ走っている人間のために、救いの道を作ってくださったのです。イエス・キリストの十字架を罪ある人間から、聖なる神への架け橋としてくださったのです。これが、神の愛です。

 今朝、私たちは「愛のキャンドル」に灯をともしましたが、この「愛のキャンドル」が照らし出すのは、決してロマンチックな愛でも、家族愛でも、人類愛でもありません。それは、もっと気高く、深く、大きく、いつまでも変わらない神の愛です。ヨハネ3:16が、神は「イエス・キリストをお与えになった」「救い主をお与えになった」とは言わず、わざわざ「ひとり子をお与えになった」と言っているのは、かけがえのないご自分のひとり子さえもお与えくださった神の愛を示すためです。飼い葉おけに寝かせられた幼な子が神の「ひとり子」であることを知るとき、本当の意味で神の愛が分かってきます。そしてそのとき、私たちを罪から救い、永遠の命を与える、力強い神の愛が私たちのものになるのです。このクリスマス、私たちも、「ひとり子」キリストを礼拝しましょう。そして、そこに輝く愛の光を見つめましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、あなたが永遠の先から愛しておられたただひとりの、かけがえのない御子を、その愛のふところの中から、罪に汚れたこの世界にお遣わしになりました。飼い葉桶に寝かせられた御子の顔に輝く愛の光に導かれ、光として来られたイエス・キリストを受け入れ、さらにイエス・キリストに近づき、イエス・キリストを深く知り、深く愛することのできる私たちとしてください。御子イエスのお名前で祈ります。

12/20/2009