神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
アメリカのある著者が『ヨハネ3:16』という本を書き、その出版社が「3月16日をヨハネ3:16の日にしよう」という宣伝をしてから、3月16日が「ヨハネ3:16の日」になりつつあります。ヨハネ3:16は聖書のすべてのメッセージをギュッと圧縮して詰め込んだような箇所で、「小さな聖書」と呼ばれ、多くの人に愛されてきました。ここには救いの道がはっきりと語られています。まだクリスチャンでない人も、すでにクリスチャンとなった人も、ともにヨハネ3:16が教える救いの道を学び、救いの道を開いてくださった神への信仰と、信仰の確信へと導かれたいと思います。
一、神の愛
ヨハネ3:16が、第一に教えていることは、神の愛です。神はすべてのものの創造者、きよく、正しいお方です。聖書は、私たちに神の偉大さを語り、神を軽んじてはいけないことを教えています。しかし、それだけでは、私たちはしりごみしてしまい、神に近づくことができません。それで、聖書は、神の偉大さ、きよさ、正しさとともに、「神は、…世を愛された」と言って、私たちに神の愛を伝え、私たちを神のもとへと招いているのです。
今日、人々は孤独です。かつては、隣近所の人はみな顔見知りで、困ったときには助け合って生活をしていました。都市化されていくにつれて、人と人とのかかわりがどんどん薄くなってきました。ひとり暮らしの人が亡くなったとき、数週間もそのことに気付かなかったということもありました。職場もそれぞれ専門分野に細分化され、大勢の人がいてもいっしょに働くのでなく、ひとりで部屋に閉じこもって仕事をするようになってきました。それで、できるだけ人とまじわろうとして、さまざまな集まりや活動に顔を出すのですが、心を開いて話せる場を見つけるのはそう簡単ではないようです。どのサークルでも話題が豊富で誰とでも楽しい話ができる人は歓迎され、何か特別な技能があって、そこで貢献できる人も重宝がられるでしょう。けれども控え目な人や引っ込み思案な人は置いていかれます。軽い冗談なら聞いてはくれても、真面目な話をしだすと煙たがられます。ひとりでいるときよりも、他の人と一緒にいるときのほうがかえって孤独を感じてしまうのです。表面は、元気で明るくふるまっている人の中にも孤独を感じている人が大勢いると思います。
「神はあなたを愛しておられる!」このメッセージは、そうした人へのグッド・ニュースです。「私は神に愛されている存在なのだ」ということが分かるとき、人は孤独から解放されます。自分を愛しておられる神が、いつもともにいてくださるのですから、もう孤独ではありません。たとえ、他の人から疎外されることがあっても、劣等感を持つ必要がなくなります。「神が私を愛しておられる」ということが慰めとなり力となるのです。"God loves you!" 英語ではたった三つの言葉ですが、これ以上に力あるメッセージは他にありません。「神が私を愛しておられる」ということを確信できた人は、他の人にも「神はあなたを愛しておられる!」と語って、人々を励ますことができるようになるのです。
二、人間の罪
しかし、神が私たちを愛しておられるのなら、なぜこの世界から戦争はなくならず、事故や病気があり、私たちの人生にはさまざまな不幸や悲しみがあるのでしょうか。つらく、苦しい人生を過ごしてきた人、今も大きな苦しみを抱えている人には、「神はあなたを愛しておられる」と言われても、それを信じるのは難しいことでしょう。また、特別苦しいことにも出遭わず、さまざまなものに満ち足りている人は、神の愛に目を向ける必要を感じないかもしれません。聖書が、「神は私たちを愛しておられる」と言っているのに、私たちの多くは、神の愛が何であるか分からず、それを体験できないでいます。それは、なぜでしょうか。
それは、私たちが神にたいして罪を犯したからです。ローマ3:23に「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」とあります。ヨハネ3:19-20にも「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」とあるとおりです。真理の光であるキリストに背を向けたなら、自分の目の前に見えるのは黒い影だけです。もし、私たちがしあわせな人生を過ごしているとしたら、それは神の愛から出ているのです。なのに、神に感謝することもなく、あたかも自分の力でそのしあわせをつかんだかのように考える。それが罪なのです。自分のしあわせを他の人と分け合ったり、神のために役立てようとせず、自分でひとりじめしてしまう。それが悪なのです。また、もし、私たちが苦しみの多い人生を過ごしているなら、なおのこと神の愛が必要なのに、神を求めず、他の人のしあわせをねたんだり、神をのろったりすることは、神の愛に背くことなのです。
多くの人は「ルールを破らなければ罪ではない」と考えています。たいていの人は法律を守り、社会のルールを守り、地域のしきたりを守っています。それで、自分には罪はないか、あったとしても少ししかないと思っています。聖書が「すべての人は罪を犯した」と言っても、その「すべて」の中に自分は入っていないと思っているのです。確かに神の律法を破ることは罪ですが、聖書は罪をたんに「ルールを破ること」だけに限定していません。聖書は、私たちの行いだけでなく、私たちの心の状態をも問題にしています。たとえ人がどんなに落ち度のない生活をしていたとしても、神の愛を必要とせず、神の愛を受け入れようとせず、神の愛に背を向けているなら、それが罪となるのです。そして、その罪が神と人とを隔て、人は神の愛を体験することができないでいるのです。
三、救いの道
世界には、その日の食べ物に事欠く人々、貧しい人々が数多くいます。医学の恩恵にあずかることができずに死んでいく人々、教育の機会に恵まれない人々がなんと多いことでしょうか。貧困からさまざまな問題が生まれます。では物質的に豊かになれば、その問題が解決するかというと、そうでないことは私たちがいちばんよく知っています。教育は素晴らしいものです。国でも、州でも、また、教会でも、教育のための予算を惜しむべきではありません。しかし、高い教育を受けた人の多いアメリカ、日本、ヨーロッパで、若者たちの間にこんなに多くの問題がみられるのはなぜでしょうか。ごく最近もドイツのウィネンデンで17歳の少年が学校に銃を持って乗り込み、女子生徒8人、女性教員3人、男子生徒1人を殺し、逃げ込んだ病院で1人、車のショールームで2人、合計15人を殺すという恐ろしい事件が起こっています。日本でも少年が殺人事件を起こすことが頻繁になりました。心が痛みます。こうした問題が解決されるためには、人間の罪の問題が解決されなければなりません。世界は国々からなりたち、国は社会からなりたちます。社会は家庭からなりたち、家庭は個人からなりたちます。まずひとりびとりが神の愛を体験しない限り家庭に愛が生まれません。そして家庭に愛がなければ、社会は混乱します。混乱した社会は不公平な暴力が支配する国家を生みます。暴力的な国家からは決して平和な世界は生まれないのです。人間の罪がまず解決されなければ、どんな問題の解決もないのです。
罪は、人間にとって一番やっかいな問題ですが、それは、神にとっても簡単な問題ではありませんでした。神が罪を見逃せば、それは神のきよさと正しさを損ない、世界は最悪の場所になります。神が人間をコントロールして罪を犯させないようにしたら、人間は自由な存在でなくなり、人間が人間でなくなってしまいます。また、神がすべての罪人を滅ぼしてしまわれれば、神の私たちへの愛は消えてしまいます。罪の問題を解決し、私たちを神のもとに連れ戻す道はどこにあるのでしょうか。
その道はイエス・キリストにあります。イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われました。キリストご自身が、神と人とをつなぐ道となられたのです。キリストは、私たちの罪を背負って、私たちにかわって罪の罰を受けてくださいました。イエス・キリストはそれによって神の義を満足させ、私たちに神の愛を運んでくださったのです。イエス・キリストの十字架こそが神のもとにいたる道、罪という、神と人とを隔てる深い淵にかけられたブリッジ(かけはし)なのです。このブリッジ(かけはし)は、決して人間の側からかけられたものではありません。人類は、知識を蓄え、良い行いを積み重ねて、神に到達しようとしてきましたが、それらはすべて失敗してきました。人間は自分たちの力で、自分たちの方法によっては、神に到達するができなかったのです。人となってこの世に来てくださった神の子、神であり同時に人であるキリストだけが、神と人とのブリッジ(かけはし)を築くことができるのです。神の御子キリストは、人となり、ご自分のすべてを投げ出し、十字架で死なれることによって、私たちの救いの道となってくださったのです。
四、私たちの信仰
では、イエス・キリストを通って神のもとに行くために、私たちは何をしたらよいのでしょうか。何ができるのでしょうか。ヨハネ3:16は「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言っています。私たちにできること、私たちがしなければならないのは「御子を信じる」ことなのですが、「御子を信じる」とはどうすることなのでしょうか。そこには三つのステップがあります。
第一のステップは、自分の罪を認めることです。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死なれたお方、私たちを罪から救う、救い主です。ですから、「自分には罪がない。あったとしても、悔い改めなければならないほどの罪ではない。」という人は罪からの救い主を必要と思うこともなく、キリストを信じることもないでしょう。自分の罪を悔い改め、罪のゆるしを願うことなしに、キリストを信じることはできないのです。
第二のステップは、イエス・キリストが、神の子であることを信じ、イエス・キリストを自分の心に、また人生に受け入れることです。ヨハネ3:16は「御子を信じる者」と言っています。別の箇所では「イエスを主と告白する」とも言っています。信仰とは、イエス・キリストを、たんに偉大な人物として崇敬することではありません。イエス・キリストを「神」として、また「主」として迎え入れることです。「私の人生は私のもの。私が主だ。」というのでなく、今まで自分が座っていた王座を明け渡し、そこにイエス・キリストを迎え入れ、その足元にひざまずく、それが御子を信じること、イエスを主と告白することなのです。
第三のステップは、「永遠のいのち」に生かされることです。ヨハネ3:16は「御子を信じる者(は)…永遠のいのちを持つ」と約束しています。聖書が言う「永遠のいのち」とは「不老不死」のことではありません。イエスが「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われたように、キリストを信じたものは、聖霊によって新しく生まれ変わります。そのとき与えられる「いのち」が「永遠のいのち」なのです。人は新しく生まれ変わるのでなければ、言い換えれば「永遠のいのち」を受けるのでなければ神の国に入ることができないばかりか、この世で確かな人生を、希望をもって生きることができないのです。聖書に「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるとおり、もし私たちの罪が赦されていなければ、それは私たちに「死」をもたらします。しかし、イエス・キリストは私たちの罪の結果である「死」を十字架の上で引き受けてくださいました。そればかりでなく、ご自分の死によって死そのものを滅ぼし、三日目に復活され、信じる者に「永遠のいのち」を与えてくださるのです。
人は生まれたとき、肉体のいのちを持ちます。この肉体のいのちは残念ながら、かぎりがあります。使えば減っていくもの、また、もろくて、簡単に無くなってしまうものです。ちょうど、車にガソリンを満タンにしても走っているうちにどんどん減っていくように、私たちの肉体のいのちも年齢を重ねたり、身体を酷使するたびに残り少なくなっていくのです。しかし、キリストを信じたときに与えられたもうひとつのいのちは、最初は、植物の種のように小さくはじまります。しかし、種が芽を出し、それが育って木となり、根を張り、枝を拡げ、実を結ぶように、このいのちもキリストに信頼する人の心の中で成長し、その人の人生を変え、その人生に豊かな実を実らせるのです。このいのちは肉体のいのちが終わっても、終わることはありません。肉体のいのちは減っていくいのちですが、新しいいのちは増えていくいのちです。それは永遠に続き、永遠に成長するいのちです。
皆さんはもう、キリストという救いの道を通って神のもとに立ち返ったでしょうか。永遠のいのちを受け、神の愛を体験しているでしょうか。あなたは、神と人を結ぶブリッジ(かけはし)の、人間の側にいるでしょうか。それとも神の側にいるでしょうか。信仰は生涯をとおしての霊的な旅ですが、その旅も最初の一歩がなければ始まりません。聖書は「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9-10)と約束しています。この説教の最後に、私は皆さんといっしょに次のように祈りたいと思っています。「神さま、私は罪人です。私はあなたの赦しと救いが必要です。私はイエス・キリストが私の罪のため死なれたこと、私を救うため復活され、今も生きておられることを信じます。私は、イエス・キリストを私の救い主、また、主として、私の心と人生に受け入れます。私の罪を赦し、神の子どもとし、永遠のいのちを与え、私の生涯を導いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。」もし、あなたがこの祈りのことばに同意できるなら、この祈りを祈ることによって、キリストへの信仰を告白してください。そこから信仰の旅を始めましょう。
すでにクリスチャンとなった人も、同じ祈りを祈ってください。この祈りはみなさんがずっと以前にキリストを信じたとき祈った祈りかもしれません。私も教会の伝道集会のあと同じように祈りました。しかし、この祈りは、クリスチャンになった私には、もういらないとは思いません。私たちは生きているかぎり罪を犯しますから、日々に、生涯にわたって悔い改めが必要です。罪の赦しが必要です。そして、罪からの救いがイエス・キリストの十字架と復活から来ることを、くりかえし、くりかえし確認する必要があるのです。イエスが「わたしが、道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたように、キリストご自身が私たちのいのちです。永遠のいのちはキリストと別にあるものではありません。私たちはキリストを受けいれることによって永遠のいのちを受け、キリストに信頼することによって永遠のいのちに生きることができるのです。いつしかイエスが主ではなく、自分が主になってしまっている。永遠のいのちによってよりも、肉のいのちによって生きようとしている。赦しやきよめを願っていない罪を抱え込んでいる。十字架への愛を失い、復活への感謝を忘れてしまっているということはないでしょうか。イエスの十字架を仰ぎ見、復活を待ち望むこのレントの期間、もういちど、私たちの救いの原点に立ち返りましょう。
神はヨハネ3:16で、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とおっしゃって、私たちへの愛を告白しておられます。この神の愛にこたえて、私たちも、まごころをもって神への愛を告白しましょう。私がすこしづつ、区切って祈りますので、それを繰り返して祈ってください。ご一緒に祈りましょう。
(祈り)
「神さま、私は罪人です。」「私には、あなたの赦しと救いが必要です。」「私は、イエス・キリストが私の罪のため死なれたこと、」「私を救うため復活され、」「今も生きておられることを信じます。」「私は、イエス・キリストを私の救い主、」「また、主として、」「私の心と人生に受け入れます。」「私の罪を赦し、」「神の子どもとし、」「永遠のいのちを与え、」「私の生涯を導いてください。」「イエス・キリストのお名前によって祈ります。」「アーメン。」
3/15/2009