神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
一、愛の神
神はどのようなお方でしょうか。神はあらゆるものを造られたお方、世界の創造者であり、造られたものを支え、導いておられる摂理の神です。神は、全知全能の永遠の神です。神は、きよく、正しく、真実なお方です。ほかにも神はあわれみ深く、忍耐深いなどの素晴らしいご性質を持っておられます。しかも、そのどのご性質においても、完全なお方です。神について語るのにいくら言葉があっても足りません。しかし、聖書は「神は愛です。」(ヨハネ第一4:16)と言って、神をたったひとこと、「愛」という言葉で表しています。"God is love." なんと明快なことばでしょう。神の本質は「愛」です。このことばほど、的確に神を言い表していることばはありません。聖書の教える神は「愛の神」です。
神は、繰り返し、繰り返し、言われます。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。」(箴言8:17)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。(ゼカリヤ1:14)「わたしは彼らの背信ををいやし、喜んでこれを愛する。」(ホセア14:4)「わたしはあなたがたを愛している。」(マラキ1:2)神は、「わたしはあなたを愛している。」と叫んでおられるかのようです。ヨハネ3:16も「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」と言って、神が「愛の神」であることを告げています。神は、実に多くのことをしておられます。神は世界を守り、歴史を導き、人々の祈りを聞いておられます。しかし、聖書は「神は、愛された」と言います。まるで、愛することが神のなさるすべてのこと、それが神のつとめであるかのようにです。神は「愛の神」です。
しかし、私たちは、残念ながら、この「愛の神」を知りませんでした。宮本武蔵は「神仏は敬して頼らず。」と言いましたが、ここに日本人の宗教観が良く出ているように思います。「さわらぬ神にたたりなし」ということばがあるように、神は、人間を思いやり、愛するような神ではなく、人間の側でも、神を愛する、慕う、あがめる、信頼するということもありませんでした。神社で手をあわせ、お寺でお経をあげても、それで人生観が変わったり、生活を改めたりすることはありませんでした。信仰は信仰、生活は生活という区分がしっかりとあったのです。神はいてもらって悪くはないけれど、神が人を愛しておられるなどとは決して考えませんでした。
それに比べ、アメリカでは90%の人々が神の存在を信じ、75%の人々が奇蹟を信じ、74%が天国の存在を信じ、60%が神に祈っています。これは昨年6月に発表された宗教意識調査 US Religious Landscape Survey からの数字です。神の存在を信じているといってもそのうちの25%の人々は、神を人格的な存在としては信じていません。アリストテレスが「神はすべてのものを動かすが、なにものにも動かされないお方」を定義したように、神を哲学の概念、ひとつの原理、宇宙のエネルギーにしてしまっているのです。しかし、それでも大多数の人々は愛を持った人格の神、人間を愛してくださる神を信じています。これは素晴らしいことです。愛の神のおられるところに、本物の愛が生まれ、愛の神を信じる人々の中に愛が育つからです。アメリカも、世界も、大きな問題を抱えていますが、愛の神を知る人々は、その問題を解決していく希望を持つことができます。「宗教」、「概念」、「象徴」としての神しか知らない人々は、温かい心を持ち、思いやりのある社会をつくりあげていくことができないのです。「愛の神」を信じる人々は幸いです。
二、愛の対象
神は「愛され」ました。では、何を愛されたのでしょう。ヨハネ3:16が、「神は…世を愛された。」と言うように、神の愛の対象は「世」でした。「世」はギリシャ語で「コスモス」と言います。英語で cosmos というと「宇宙」と言う意味で、そこには「調和のとれた世界」という意味があります。しかし、聖書では「世」というと、「この世」、「世俗」、「乱れた世界」という意味で使われています。人間が、神の造られた世界から神を締め出し、自分たちの願望を実現させるところにしてしまい、この世界の秩序を乱したのです。神は、神を信じる者たちに「この世と同じものの考え方をしてはいけない。」「この世と同じ生き方をしてはいけない。世の汚れに染まってはいけない。」と戒めています。なぜなら、神を信じる者は、この世から救われて、天に国籍を持つ者になったからです。それで神はヨハネ第一2:15で「世をも、世にあるものを、愛してはなりません。」と命じたのです。
ところが、神はその「世」を愛されたのです。「世をも、世にあるものをも、愛してはならない」と言われた神ご自身が、「世を愛された」というのは、矛盾です。しかし、この矛盾は、神の愛の大きさと深さを物語っています。聖書に「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」(イザヤ57:15)と言われました。神はどんな罪もないきよいお方で、きよいものを好まれるお方です。しかし、神は天のことだけに関心を持ち、天のことだけを喜ばれるお方ではありません。神は、罪を持った人間の世界をも心にかけ、そこからひとりでも救われる者があるとき、それを喜んでくださるのです。イエスは「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:7,10)と言われました。ここにいる人々の中で、ひとりでも「私は神を信じます」と言って神に立ち返るなら、天は大きな喜びで震い動くのです。そして、その人の心にも、いつまでも消えることのない喜びのともしびが灯るのです。神は、世を愛してくださいました。
神が「世を愛された」というのは、もちろん、神がこの世の悪や汚れを容認したということではありません。そうではなく、この世の悪の餌食になっている人々、その汚れのとりこになっている人々、その罪のために苦しんでいる人々をあわれんでくださったということです。人間がこの世で苦しむのは、神から離れ、神のみこころをないがしろにしてきた報いです。いわば自業自得なのですが、神は、それにもかかわらず、この世にもてあそばれ、苦しめられている人々を救おうとしておられるのです。多くの人が、神を信じたあと「私は、神の目から見て『失われた者』でした。」「私は、この世の汚れの中にどっぷり漬かっていました。」「私は『この世』そのものでした。」と証言しています。「神の国」を求めるどころか、「世と世にあるもの」を愛し、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(ヨハネ第一2:16)を追い求めてきた、自分は「この世」そのものだったと気付く人が、「世を愛された」神の愛の大きさを理解することができるのです。愛される値打ちのないものを愛してくださった神の恵みの深さを知るのです。神は「世を愛され」ました。
三、愛の方法
では、神はどのように「世を愛された」のでしょうか。「そのひとり子をお与えになったほどに」です。「ひとり子」とは誰のことでしょうか。神のひとり子はイエス・キリストです。聖書には天使や人間を「神の子ども」と呼んでいる箇所がいくつかあります。それは天使や人間が神のお力やご性質の一部を与えられ、神に似たものとして造られたのでそう呼ばれています。天使や人間は、あくまで造られたものであり、造り主である神と同等のものではありません。しかし、キリストは永遠の先から神とともにおられたお方、かみと等しいお方、神そのものです。キリストは神によって造られたのではなく、神によって生まれたお方です。神から生まれたお方はただひとりですので、それで、神は「父なる神」、キリストは「神のひとり子」(One and Only Son of God)と呼ばれるのです。
神は永遠の先から御子を愛しておられました。ヨハネ17:24でキリストが「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられた」と言われたように、神がこの世界を造り、この世を愛される以前から、神は御子を愛しておられました。神は、永遠の先から「愛の神」だったのです。
ところが、神は、愛してやまない御子、たったひとりのかけがえのない御子をこの世に「与えた」のです。神は、最も愛する者を、神を憎み神に逆らい続けている「世」に与えたのです。これは驚くべきことです。それで、聖書は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」と書き、「実に」という驚きを表わすことばを付け加えたのです。「実に」と訳されている言葉は滅多に訳されない言葉ですが、ここで「実に」と訳されているのは正しいと思います。この言葉は、ここでは「こともあろうに」と訳しても良いほどだと思います。神がこの世で苦しむ者に心をかけてくださっただけでも、驚くべきことなのですが、神はその「心」だけでなく、「じつに」ご自分の「御子」をも与え、御子を世に送り出されました。そして御子キリストは私たちの罪と、その結果をその身に背負い、十字架の上で苦しみ、死なれたのです。キリストは、私たちの犠牲となり身代わりとなってくださいました。ほんらい、犠牲というものは、人間から神にささげるものなのに、「こともあろうに」神は、人間のために、ご自分の御子という最高、最大の犠牲を払ってくださったのです。この事実を記すのに、聖書は「実に」あるいは「こともあろうに」という驚きの言葉を使いましたが、それは当然のことです。これに驚かないほうが不思議です。この神の愛への驚きが信仰になり、確信になり、そして、他の人々に神の愛を分かち与えていく伝道となるのです。
私は、キリストの身代わりの死を想うとき、コルベ神父のことを思い起こします。コルベ神父はポーランドの人ですが、1930年から6年間日本で伝道しており、長崎に彼の記念館があるほどで、日本人に関係のない人ではありません。コルベ神父は1936にポーランドに帰国しましたが、やがて第二次世界大戦が勃発し、ポーランドはドイツ軍に占領され、コルベ神父はナチスに反対したというので、ゲシュタポに捕まえられました。1941年2月のことです。そして、あの恐怖のアウシェヴィッツ収容所に入れられました。囚人たちは人間扱いされず、名前は剥奪され、コルベ神父は囚人番号で「16670」と呼ばれました。人々は一日にパン一個と水のようなスープ一杯だけで強制労働にかり出されました。
その年の夏のある日、コルベ神父と同じ班から脱走者が出ました。収容所の所長はその班全員を集め、その中から10人を選んで、餓死刑にすると宣告しました。脱走者を出した連帯責任と見せしめのためでした。大勢の囚人たちの中から無差別に10人が選ばれました。すると、その中のひとりが突然「私には妻も子もいるのです」と言って泣き崩れた人がいました。囚人番号「5659」、ポーランド軍の元軍曹フランシスコ・ガヨヴァニチェクでした。彼はナチスのポーランド占領に抵抗したかどで逮捕されていました。そのときです。囚人の中からひとりの人が所長の前に進み出ました。所長は銃を突きつけ「何が欲しいのだ。このポーランドのブタめ。」と怒鳴りました。しかし、その人は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で言いました。「お願いしたいことがあります。私はカソリックの司祭で、私には妻も子もありません。妻子あるこの人の身代わりになりたいのです。」それがコルベ神父でした。所長は驚きのあまり、すぐには言葉がでませんでした。囚人たちがみな生き残るのに必死なときに、他の人の身代わりになりたいという囚人が現れたのですから。ふつうなら、そんな申し出が受け入れられるわけがなく、コルベ神父もその場で射殺されていたかもしれませんが、その不思議なことが起こり、所長はこの申し出を受け入れたのです。受刑者名簿に、ガヨヴァニチェクの番号「5659」のかわりにコルベ神父の「16670」が書き込まれました。
コルベ神父と他の9日は着物を脱がされて「死の地下室」と呼ばれる餓死監房に入れられました。着物を食べないようにするためでした。そこでは食べ物のひとかけらも、水一滴も与えられませんでした。飢えと渇きのため、発狂し、叫びやうめき声が聞こえるはずなのに、監視員が聞いたのは賛美と祈りの声だけでした。コルベ神父の導きにより「死の地下室」は聖堂にかわったのです。2週間後、6名の者たちはすでに息絶えていましたが、コルベ神父を含めて4人にはまだ息がありました。しかし、薬物を注射され殺害されました。1941年8月14日、コルベ神父47歳のときでした。
戦争が終わってヨーロッパに再び自由が訪れたとき、ガヨヴァニチェク元軍曹は、どこにでも招かれるところに行って、コルベ神父のことを語り伝えました。彼は、世を去る間際まで、コルベ神父の愛の犠牲を語り続けて止まなかったと言われています。私たちも、私たちの身代わりとなって死んでくださった方を持っています。私たちは、このお方のことを語らずにはおれません。黙っていることができないのです。このお方こそ「愛の神」であることを人々が信じ、救われるためにです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(祈り)
神さま、あなたは愛の神です。あなたから遠く離れ、あなたに背いている者さえ、あなたは愛してくださいました。あなたから見捨てられて当然の者たちのために、あなたは、あなたの御子を見捨てられました。イエス・キリストの十字架にあなたの大きな愛、気高い愛、深い愛、変わらない愛が示されています。私たちがその愛に生き、その愛を人々と分かち合うことができるよう助けてください。ただひとりの御子キリストのお名前で祈ります。
3/8/2009