弟子たちの回復

ヨハネ21:4-14

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21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

 一、弟子たちの落胆

 失敗のない人は誰もいません。大小にかかわらず、何かの失敗をします。そして失敗すると、そのことで自分を責めたり、落胆したり、失敗を埋め合わせるために力を使い果して疲れて切ってしまったりします。また、それが心の傷となって残り、なかなかそこから立ち上がれないということがあります。

 ここに登場する弟子たちもそうでした。弟子たちはイエスに出会ってからずっと忠実にイエスに従ってきました。ところが、イエスが十字架に架けられたとき、イエスを見捨てて逃げ出してしまいました。弟子たちは三年間もイエスから直接の訓練を受けたのに、その訓練の最後の締めくくりをすることが出来なかったのです。卒業を前にして卒業試験に落ちてしまった学生のようでした。それまでの苦労が水の泡になったのです。復活されたイエスに出会って驚きもし、喜びもしたのに、弟子たちはまだ、過去の失敗から立ち直っていません。「主は生きておられる。しかし、自分たちはもう、主の弟子としてはふさわしくないのだ。」そんな思いが弟子たちの中にあったのでしょう。主イエスの復活が自分たちと無関係とまでは行かなくても、自分たちからは遠い出来事、主イエスにだけ起こった出来事のように感じていたのかもしれません。ガリラヤに戻ってきたものの何をして良いかわからず、ぼんやり日を過ごしていたようです。

 そのうち、ペテロが「漁に行く」と言い出し、他の弟子たちもそれに加わりました。イエスの弟子でなくなったのなら昔の漁師に戻るしかないと考えたのでしょう。一晩中漁をしましたが、一匹の魚も獲れませんでした。夜が明けかかったころペテロたちは空っぽの網を積んだ船を岸に向けました。この空っぽの網は、ちょうど弟子たちの心のようでした。「イエスは『人間をとる漁師にする』と言われたが、自分たちはそうなれなかった。だから魚をとる漁師に戻ったけど、魚もとれない。どうしたらいいんだろう。」そんな気持ちだったかもしれません。

 皆さんにも、そんな経験がありませんか。信仰を持ち、バプテスマを受けたときは、何もかも新鮮で、喜びに満たされていたのに、一年たち、二年たち、三年たつにつれて、その喜びがしぼんでいくことがあります。「信仰のスランプ」です。イエスは信じる者に永遠のいのちを与え、つきない喜びを与えてくださったのに、なぜそんなことが起こるのでしょうか。それは、受けることと与えることとのアンバランスから来るのです。赤ちゃんはミルクだけで大きくなりますが、成長すれば固い食べ物も必要になります。過酷な労働や激しいスポーツをする人にはそれをこなすだけの栄養が必要です。難しい仕事をする人にはそれをやりとげるのに必要な知識が求められます。同じように、キリストを信じる者たちも、霊的に成長し、家庭や職場での責任がより重くなり、教会での奉仕が増えれるにつれ、霊的な養いや神を知る知識がさらに必要になってきます。十分な栄養を摂らないで重労働をすれば疲れ果ててしまいます。収入よりも支出が上回れば家計は赤字になってしまいます。同じように神を知る知識に成長し、霊的に養われることなしに責任や奉仕だけが増えると、受けることと与えることのバランスが崩れ、内面が枯れてくるのです。ずっと空っぽなままだと気付かないかもしれませんが、イエス・キリストを信じて空っぽな心が満たされた経験のある人には、それを失った状態がほんとうにつらく感じるものです。

 どうしたら、そうした状態から抜け出すことができるのでしょうか。それは、まずなによりも、自分の足らなさを認めることから始まります。詩篇に「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」(詩篇42:1)とあるように、自分のたましいの渇きに気付き、それに対して素直になることです。スプライトのコマーシャルに "Obey your thirst." というのがありました。「喉が渇いたら我慢しないで、冷えたスプライトの缶を開けて飲みなさい」というのです。これをもじって、"Obey your spiritual thirst." と言ってもよいでしょう。私たちも、自分のたましいの渇きに素直でありたいと思います。自分が渇いている、空っぽであることを認め、イエス・キリストに来るとき、それは必ず満たされます。主イエスは、私たちの渇きをいやし、うつろな心を満たそうと待ち構えておられるからです。

 弟子たちが空っぽの網を積んで岸辺に向かったとき、岸辺から声がありました。「子たちよ、何か食べるものがあるか。」その声に彼らは「ありません」と答えました。弟子たちは、何の収穫もなかったことを正直に認めています。すると、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」という声が返ってきました。弟子たちがその声に従うと、船に引き上げることができないほどの魚が網の中に飛び込んできました。弟子たちは、岸辺に立っているのが主イエスだと、すぐに悟りました。以前、これと同じ奇跡を体験していたからです。あの時も、一晩中漁をしたのに一匹も魚が獲れませんでした。しかしイエスのことばに従ったとき、二艘の舟が沈みそうになるほどの魚が獲れました。あの時も、今回も、イエスの言葉が網を魚で満たしました。あのとき、ペテロは船底に頭をこすりつけて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言ってイエスの足もとにひれふしました。そんなペテロや弟子たちにイエスは「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言われ、その時から弟子たちは、何もかも捨ててイエスに従いました(ルカ5:1-11)。主イエスは弟子たちを、彼らがはじめてイエスに出会った場所に導き、イエスに従いはじめたときの奇蹟を再現して、弟子たちを再び「人間をとる漁師」にしてくださいました。弟子たちを信仰の原点に戻し、彼らに生きる意味と目的、使命をもう一度与えて、空っぽな心を満たしてくださったのです。

 主は、私たちにも同じようにしてくださいます。そのお言葉によって私たちを満たしてくださいます。素直な心で、聖書のメッセージに耳を傾けるなら、私たちを満たそうと待ち構えておられるイエス・キリストをきっと見いだすことができるでしょう。 

 二、弟子たちの回復

 さて、弟子たちが湖から戻ってくると、そこには炭火が起こしてあり、パンと魚が用意されていました。主イエスのほうから弟子たちのために食事を整えてくださっていたのです。この食事には意味があります。いったんは失敗した弟子たちでしたが、イエスはその弟子たちを赦し、受け入れることを表わすため、食事を用意されたのです。今日でもそうですが、古代には食事を共にするのは、友情のしるしでした。互いの間に行き違いがあって、解決と和解に至ったとき、当事者同士は食事を共にして、仲直りをしました。それは「和解の食事」と呼ばれました。「和解の食事」は人と人との間だけでなく、神と人との間にもありました。罪によって神の敵となっていた者が、その罪を赦されて、神との平和を取り戻すのです。これに勝る幸いはありません。旧約時代、神殿で家畜を犠牲としてささげるとき、ふつうはその肉を祭壇の上で焼き尽くすのですが、「和解のいけにえ」では、ささげたいけにえの肉を神殿で食べ、神との和解を味わいました。新約時代には、主の晩餐でそれを味わうのです。ほんとうは、神に敵対していた私たちのほうから和解を申し出るはずなのですが、恵み深い神は、ご自分のほうから私たちに和解を提供してくださっているのです。

 主の晩餐でイエスは「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」と言って弟子たちにパンを与えました。そのときの弟子たちはその意味が分かりませんでしたが、イエスの十字架を見て、イエスは文字通りそのからだを、人々の罪の赦しのための供え物としてささげられた、その命を与えてくださったことを悟りました。弟子たちは、主の晩餐を守るたびに、イエスが和解のいけにえとなって十字架に死なれたことを覚えました。また、復活した主と共に過ごした弟子たちは、主イエスが罪人のために死なれただけでなく、今も生きて信じる者に赦しと、和解と、回復とを与えてくださることをも、主の晩餐のたびに覚えました。ガリラヤ湖での食事で、弟子たちがキリストの恵みによって赦され、その愛によって癒され、その復活の力によって、再び、人間をとる漁師として立ち上がったように、私たちも、この主の晩餐のテーブルで、同じ恵みと、愛と、力を受け取るのです。

 主の晩餐で、私たちは、主イエスが私たちの罪のために死なれただけでなく、復活して私たちをその命で満たし、力づけてくださることを覚えます。主の晩餐が、復活の日、日曜日に守られるのは、そのためです。復活の主が、弟子たちを回復させたように、私たちをも回復させてくださるのです。私たちが、どんな失敗であれ、そこから完全に回復するのは自分の力だけではできません。失敗から来る落胆や痛み、後悔や自責の念から解放してくださるのは主イエスだけです。復活された主だけが私たちを回復させてくださるのです。イエスの復活が、イエスだけに起こった出来事ではなく、イエスを信じる者たちの回復のためであったことを弟子たちが理解し、体験したように、私たちも、主の晩餐のテーブルに来るとき、キリストの復活が私たちを生かすことを悟り、体験するのです。主の晩餐は私たちをイエスの十字架だけでなく、イエスの復活とも結び合わせます。主の晩餐を繰り返すごとに、その結びつきが深められ、強められていきます。

 主の晩餐は聖なるもの、尊いものです。ですから、聖書は自分を吟味してそれにあずかるようにと教えています。それで、自分は罪深いから、不信仰だから、また同じ失敗をしてしまったから、それにあずかる資格がないといって主の晩餐のある礼拝を避ける人もあります。しかし、主は、罪びとの救い主です。その罪を赦し、そこからきよめるため、主の晩餐という和解の食事を備えてくださったのです。私たちに失敗からの回復を与えようと、この食卓を備えてくださったのです。自分の罪、弱さ、足らなさ、失敗を知る人こそ、この食卓に招かれているのです。この晩餐に来て、信仰の原点である十字架に立ち返りましょう。ふだん礼拝を休みがちであったとしても、主の晩餐があるからなんとしても行きたい。そんな気持ちで主イエスの招きに答える者を主は受け入れてくださいます。主イエスは、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)と言われました。ガリラヤ湖で弟子たちに「さあ来て、食事をしなさい」と言われたように、主はわたしたちを和解の食事に招いておられます。この食卓で、私たちも復活の主から来る回復を体験しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストを、罪のためのいけにえとして十字架におかけになり、私たちに和解の恵みを与えてくださいました。そして、この主の晩餐によって私たちを和解と回復へと招いていてくださることを感謝します。この晩餐によって私たちを救いの原点に立ち返らせてください。そこにある赦しの喜びと和解の慰めを深く味あわせてください。そして、イエス・キリストを信じる人生が、全く失敗のない人生というよりは、どんな失敗からも回復可能な人生であることを確信させてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/4/2014